ミス補填株式会社へようこそ
神谷ユウスケが「ミス補填」の存在を知ったのは、社内の掲示板に貼られた一枚のポスターからだった。
ミスをしたら、報告するだけ。
あとは、私たちが責任を取ります。
ユニコーン総合サービス ミス補填課
カラフルなポスターには、漫画風に描かれたサラリーマンが、上司に怒鳴られている場面が載っていた。その背後に現れたヒーローのような人物が、代わりに土下座している。吹き出しには「君のミスは、僕に任せて!」と書いてあった。
馬鹿馬鹿しい、と最初は思った。
しかし、社内チャットには早速、感想が飛び交っていた。
「これマジで最高。今日の誤送信、ミス補填で消えたわ」
「課長に怒られるはずだったのに、『もう処理済みだから』で終わり。神」
「月五件まで無料ってのが逆に怖いけどな。何が裏にあるんだか」
無料。そこが、ユウスケの心にも引っかかった。
とはいえ、その日も、仕事は山積みだった。新サービス「ミス補填」は頭の片隅に押しやられ、彼はいつも通り、メールを打ち、資料を作り、上司の機嫌をうかがいながら一日を終えた。
最初の「利用」は、三日後だった。
月曜の朝、寝坊した。
目覚ましが鳴っていた気はする。何度か止めた記憶もある。気づけば、既に出社時刻を十五分ほどオーバーしていた。
「やば……」
駅へ走りながら、ユウスケはスマホを取り出した。会社の勤怠アプリを開きながら、ふとホーム画面の片隅に見慣れないアイコンが目に入る。
青い盾のマーク。「MISS+」と書かれていた。
(これ、ミス補填のアプリか)
いつの間にか自動インストールされていたらしい。さすがは自社サービスである。
電車に飛び乗ってからも、汗が引かなかった。
このままだと、部署で唯一の新人である自分が真っ先に槍玉にあげられる。上司の田沼係長は、遅刻にはうるさい。
「……ミス補填」
呼吸を整えながら、ユウスケはアイコンをタップした。
アプリは拍子抜けするほど簡単だった。
画面上部に「ミス報告はこちら」のボタン。
押すと、内容を選ぶ項目が出てくる。
遅刻、誤送信、書類不備、接客態度、情報漏洩。
ズラリと並んだリストの中から、彼は「遅刻」を選んだ。
「遅刻時間を入力してください」と表示される。
おそらく、到着時刻から自動で計算されるのだろう。電車が駅に滑り込む直前、アプリが震えた。
「打刻を確認しました。現在の遅刻時間:二十二分。
このミスを補填しますか?」
迷いは、一瞬だけだった。
「はい」
ボタンを押すと、画面がくるりと回り、「ミス補填処理中」の文字が表示された。数秒後、明るい音と共に、一行のメッセージが現れる。
「補填完了しました。
補填担当:ユニコーン総合サービス内部人材より一名選出」
(……ほんとに、これで終わり?)
不安になりながらも、会社に着くと、驚くほど何も起きなかった。
田沼係長は、ちらりと時計を見ただけで、「おはよう」と言った。
それだけだった。
昼休み、同期の成瀬にこっそり聞くと、彼は笑った。
「だから言ったろ。ガチで効くって」
「でもさ、誰が責任取ってるんだ?」
「さあな。ミスの重さに合わせて、社内の誰かに怒号やら減点やらが割り振られるんじゃね? 噂だと、外注スタッフとかAIとかも混じってるらしいけど」
「理不尽じゃないか、それ」
「昔から理不尽はあっただろ。それが可視化されただけさ。しかも今は、『ボタン押すだけで理不尽を見ないで済む』。みんな、そういうの大好きなんだよ」
成瀬はそう言って、トレイのハンバーグを切った。
◇
ミス補填アプリは、恐ろしいほど便利だった。
誤字だらけの資料を上司に送ってしまった夜も。
数字を一桁打ち間違えて、見積もり額が大幅にズレたときも。
ミーティングの時間を勘違いして、取引先を待たせたときも。
そのたびに、ユウスケはアプリを開き、「ミス報告」をタップした。
画面の向こう側で、何かが調整される。
自分は「報告済み」の安心を得る。
それだけだった。
もちろん、限度はあった。月に五件までが無料。それを超えると、有料プランへのアップグレードを促す通知が表示される。
もっとも、たいていの人間は、月に五件も報告すれば十分だった。
ユウスケも、ちょっと慎重になるだけで、なんとか無料枠に収めることができた。
ニュース番組でも、連日「ミス補填」が取り上げられた。
「働き方革命の切り札」
「ミスに優しい社会へ」
「責任の分散が生む、新たな安心」
賛否両論はあったが、気づけば公共機関にもアプリは導入され、役所の窓口にも「ミス補填対応」のステッカーが貼られるようになった。
あるバラエティ番組で、コメンテーターがこんな冗談を言っていた。
「じゃあ、政治家の失言もミス補填でチャラってことですか?」
スタジオは笑いに包まれた。
その笑いが、どこか冷たく聞こえたことに、気づいた人はどれくらいいたのだろう。
◇
一つだけ、ユウスケの胸に引っかかっているニュースがあった。
地方支社のベテラン社員が、突然、左遷されたという噂だ。
しかもその部署は、誰も行きたがらない僻地の倉庫管理だった。
匿名掲示板には、こんな書き込みがあった。
「あの人、ミス補填の『補填担当』に何度もなったらしい。
本人はミスしてないのに、評価だけ下がって、最後は飛ばされたってさ」
半信半疑だった。
だが、もしそれが真実だとしても、それは「運が悪かった」で片付けられる程度の話だった。
(どうせ、どこかの誰かの不幸の上に自分は立ってる)
そんなことは、ミス補填が生まれる前から分かっている。
それが目に見える場所に出てきただけなのだ。
そう、自分に言い聞かせた。
◇
事故が起きたのは、九月の終わりだった。
その日、ユウスケは新規大型案件の担当を任されていた。
大手物流会社との共同プロジェクト。倉庫の入出荷管理を一括で自動化するシステムの導入だ。
導入先の倉庫は、郊外にある巨大な拠点だった。
天井まで積み上げられたラック。自動搬送ロボット。貨物用エレベーター。
人間より機械のほうが多く見える工場に、ユウスケは何度か足を運んだ。
プロジェクトの山場は、旧システムから新システムへの切り替えだった。
そのタイミングで、ロボットの移動経路やエレベーターの優先度を、細かく設定する必要があった。
ユウスケの仕事は、その最終設定を現場で確認し、チェックシートに「承認」の印を押すことだった。
「ここ、本当に大丈夫だよな?」
倉庫の会議室で、物流会社側の担当者が不安そうに聞いた。
「何かあって荷物が止まったら、大変なことになりますからね」
「もちろんです。うちのテストも何度も通してますし……」
少しだけ不安が頭をよぎった。
だが、その不安を打ち消すかのように、ユウスケは笑顔を作った。
「ここで止めたら、スケジュールが全部ずれちゃいます。それこそ、お互いに大問題になりますよ」
そして彼は、画面上で最終設定を確認し、「承認」のボタンを押した。
チェックシートにサインをし、ハンコを押す。
それで、仕事は終わったはずだった。
◇
夕方、会社に戻った頃には、少し疲れてはいたが、どこか達成感もあった。
自分が、会社の大きな歯車の一つとして機能した気がした。
その達成感は、夜八時を回った瞬間に砕け散った。
社内チャットが、一斉に鳴ったのだ。
「至急:物流拠点Bで事故発生」
「テレビつけろ! うちのシステムの倉庫だぞ」
「これ、やばいレベルじゃないか?」
慌ててスマホでニュースアプリを開く。
画面には、ヘリコプターからの空撮映像が映し出されていた。
巨大な倉庫の一部が崩れ、積み上げられたコンテナが雪崩のように落ちている。
サイレンの音。救急車の赤い光。
アナウンサーの声が上ずっていた。
「自動倉庫システムのトラブルにより、ラックが連鎖的に倒壊。
複数の作業員が下敷きになっている模様です――」
手が震えた。
その倉庫は、つい数時間前まで自分がいた場所だった。
会議室のガラス越しに見た、整然としたラックの列。
ロボットが規則正しくコンテナを運んでいく光景。
それが今、テレビの中で崩れている。
同僚たちがざわつき、誰かが上層部の名前を呼び続けていた。
セキュリティカードを持った社員が、慌ただしくフロアを走り回る。
(まさか、俺の設定が)
その「まさか」を打ち消してくれるものを、ユウスケは本能的に求めた。
ポケットの中で、スマホが重く感じた。
MISS+のアイコンが、やけにはっきりと目に映る。
(いや、でも、さすがにこれは)
社会的な大事故だ。
ニュースにもなっている。
そんなものまで「ミス補填」に報告していいのか。
指が震えた。
躊躇は、一分も続かなかった。
画面の向こうで、アラート音が鳴り止まない。
チャットには「原因調査チーム招集」「至急ログ提出」などの言葉が飛び交っている。
(もし、俺の設定ミスだったら――)
そのときの怒号を想像した。
上司だけではない。取引先、被害者家族、世間。
責任を追及され、顔と名前が晒される。
それを思うと、指は自然と動いていた。
アプリを開き、「ミス報告」のボタンを押す。
「どの領域のミスですか?」
いつもより、選択肢が多い。
システム設定、インフラ障害、運用設計、コンプライアンス――その中から、彼は「システム設定」を選んだ。
「ミスの内容を簡潔に入力してください」
ユウスケは、震える指で打った。
「自動倉庫のルート設定の優先度を誤り、ラックの負荷が偏った可能性があります」
送信ボタンを押すと、画面が暗転した。
いつもの「補填処理中」という軽い文字ではなく、黒い画面に白いバーがゆっくりと伸びていく。
「重大ミスを検出しました。
補填に必要なリソースを計算中です。
しばらくお待ちください」
心臓の鼓動と、画面上のバーの進み方が、妙に同期しているように感じた。
やがて、バーが百パーセントに達した。
「補填担当者を抽出中……」
長い沈黙が続いた。
そして、画面が切り替わった。
「このミスは重大であり、通常の補填枠では対応できません。
個人単独での補填は不可能です。
詳細については、担当者が直接ご説明に伺います」
その下に、小さく住所が表示されている。
間違いなく、自宅の住所だった。
◇
その夜、ユウスケは定時より少し遅れて帰宅した。
社内は混乱していたが、原因調査チームからまだ呼ばれてはいなかった。
ただ「しばらく自宅待機」とだけ告げられた。
終電を一つ逃し、近くのコンビニで買った缶コーヒーを片手に、自宅マンションのエレベーターを上がる。
七階。
静かな廊下。
玄関の前に立つと、なぜか中からテレビの音も、家族の話し声も聞こえなかった。
「ただいま」
鍵を開けて声をかけると、すぐに返事があった。
「おかえり」
キッチンから顔を出したのは妻の美沙だった。
その後ろで、小学二年生の息子・瞬が、ゲーム機を握りしめている。
「遅かったじゃない。ニュース、大丈夫なの? なんか、会社の名前出てたよ」
「ああ、まあ、色々あってさ」
曖昧に笑ってごまかす。
そのとき、リビングのテーブルに置かれたタブレットが、ブルッと震えた。
画面には「MISS+」のロゴ。
見慣れた青い盾。
「え、なにこれ。あんたの会社のアプリ?」
美沙が首をかしげる。
「……俺が、入れさせたわけじゃないぞ」
そう言いながら、ユウスケは嫌な予感を覚えた。
リビングの棚の上に置かれた、家族共有のタブレット。
それにまで、ミス補填アプリがインストールされている。
玄関のチャイムが鳴ったのは、その直後だった。
美沙が驚いたような顔をする。
「もうこんな時間なのに。誰?」
「出るよ」
ユウスケは心臓の鼓動を抑えながら、玄関に向かった。
ドアを開けると、そこにはスーツ姿の男が立っていた。
三十代後半くらい。
眼鏡をかけ、黒いビジネスバッグを提げている。
どこか、営業マンのような柔らかい笑顔を浮かべていた。
「神谷ユウスケ様ですね」
「ええ……そうですが」
「ユニコーン総合サービス ミス補填課の桐谷と申します。本日は、当社のサービスをご利用いただきありがとうございます」
名刺が差し出された。
そこには確かに、「ミス補填課」の文字が印刷されている。
ユウスケは喉が渇くのを感じながら、名刺を受け取った。
「先ほどの、倉庫事故の件について、直接ご説明と確認をさせていただきたく、参りました」
「ここで、ですか」
「はい。本件は重大ミスに該当し、通常の補填処理フローでは対応できないと判断されましたので」
桐谷は、にこやかな表情を崩さないまま言った。
「少し、お時間をよろしいでしょうか」
断る理由は、どこにもなかった。
◇
リビングに通すと、美沙が不思議そうな顔で頭を下げた。
「はじめまして。妻の美沙です」
「これはどうも。突然お邪魔して申し訳ありません」
桐谷は丁寧に腰を折ると、ビジネスバッグからタブレット端末を取り出した。
それは、会社で使っているものと同じ型だった。
「では、神谷様。先ほどご報告いただいたミスの内容を、改めてご確認させてください」
タブレットには、ユウスケが入力した文面が表示されていた。
「自動倉庫のルート設定の優先度を誤り……」
自分の文字を見るのが、こんなにも重苦しいとは思わなかった。
「本日の事故と、神谷様の設定したルートとの因果関係は、当社のログ解析により、ほぼ確定しております」
「……やはり、僕の、せいなんですか」
「直接的な原因と考えられますね。ただし、もちろん、それだけではありません。現場の安全管理、ダブルチェック体制、設備の老朽化など、複合的な要因が絡んでおります」
「じゃあ、ミス補填で……」
言いかけたとき、桐谷は穏やかに笑った。
「ええ。ですから、こちらにお伺いしたのです」
テーブルの上に、タブレットが伏せられる。
「神谷様のミスは、当社基準において『重大ミス』に分類されます。
現時点で確認されている被害は、倉庫の大規模な損壊、物流の停止、重傷者五名、行方不明者二名。最終的な被害規模は、まだ増える可能性があります」
リビングの空気が、一気に冷たくなった気がした。
テレビのニュースでは「複数の負傷者」としか言っていなかった。
画面の向こうの人々に、名前と家族と人生があることを、今さら思い知らされる。
「そのような状況でして、ですね」
桐谷は、どこか事務的な口調で続けた。
「当初は、社内の補填リソース――いわゆる『補填担当者』を抽出しようとしました。しかし、必要な補填量があまりに大きく、既存の枠では賄いきれないことが分かりました」
「賄いきれない?」
「はい。簡単に言えば、『人ひとりの責任の許容量』をはるかに超えている、ということです」
ユウスケは、言葉を失った。
美沙が、恐る恐る口を挟む。
「あの……補填って、どういう意味なんですか? 今さらなんですけど、ミス補填って、具体的には、何をしているんでしょう」
「いい質問ですね」
桐谷は、待っていたと言わんばかりに頷いた。
「ミス補填サービスは、ミスをした方の『責任』や『不利益』を、代わりの方に割り当てる仕組みです。上司からの叱責、評価の低下、降格、損害賠償、そして、場合によっては刑事責任――そうしたものを、統計的に分散させるのです」
「え……じゃあ、私たちが今までボタン一つで『チャラにした』ものって」
「どこかの誰かが、代わりに引き受けてくれていた、ということになりますね」
あっさりとした口調だった。
「ご安心ください。最初にローンチした頃は、想定以上の負荷が一部に集中し、問題もありました。しかし今は、AIがより公平に、より効率よく配分してくれています」
「公平に、って……」
「はい。たとえば、子どもや高齢者、既に大きな不利益を被っている方などは優先的に除外されます。経済的に余裕のある方、社会的地位の高い方、公的支援を受けやすい方などが、比較的多くの責任を引き受ける仕組みになっています」
それを聞いて、ユウスケは、先日のニュース記事を思い出した。
大企業の役員が突然辞任したニュース。
不祥事の報道も何もなかったのに。
(もしかして、あれも)
「そして、ミスの規模が一定以上になると――」
桐谷は、少しだけ声のトーンを落とした。
「最優先で割り当てられるのは、『ミス当事者の近親者』です」
美沙の顔から、血の気が引いていくのが、はっきりと分かった。
「近親者……って」
「配偶者、子ども、親、兄弟姉妹などですね。もちろん、すべての責任を押しつけるわけではありません。あくまで、補填に必要なリソースを、もっとも合理的に調達する、という意味です」
「そんなの、聞いてません」
ユウスケは机を叩きそうになる手を、必死で押さえた。
「規約に書いてありますよ。アプリの利用規約第一二条。『重大ミスの補填にあたっては、本人および親族・関係者が優先的に補填候補として抽出される場合があります』と」
「そんな細かい文字、誰も読んでませんよ」
「皆さん、そうおっしゃいます」
桐谷は、深いため息をついた。
同情とも、諦めともつかない響きだった。
「ですが、同意のないサービスは提供できませんからね。一応、法的には問題ないのです」
「じゃあ、俺の……さっきの事故のミスを補填するために」
言葉が震えた。
「家族が、何かを背負わされるってことですか」
「その可能性が高い、ということです」
そのときだった。
ダイニングテーブルの上に置かれた美沙のスマホが、突然、震えた。
画面に「MISS+」のロゴ。
同じ瞬間、リビングのソファに転がっていた瞬のゲーム機も、ピコン、と音を立てた。
子ども用のスマートウォッチが光る。
キッチンのカウンターに置かれた家電話までが、なぜか着信音を鳴らし始めた。
家中の小さな機械が、一斉に、ユニコーンのマークを光らせている。
「な、なにこれ!」
美沙が叫んだ。
瞬は、ゲームを一時停止して画面を覗き込む。
「お母さん、なんかきた。『補填候補に選ばれました』って」
桐谷は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「これが、本日お伝えにあがった本題です」
◇
スマホの画面には、シンプルなメッセージが表示されていた。
「あなたは、『重大ミス』の補填候補として選ばれました。
補填内容を確認し、承諾する場合は『はい』を、辞退する場合は『いいえ』を押してください」
その下に、小さく「補填内容の詳細は、承諾後に通知されます」とある。
「承諾後に、って……卑怯じゃないですか」
ユウスケの声は、怒りと恐怖で震えていた。
「詳細を最初から明示すると、誰も引き受けなくなりますからね。システムが成立しなくなってしまう」
桐谷は、理屈として淡々と答える。
「もちろん、『いいえ』を選ぶ自由もあります。ただし、その場合は別の候補者が自動的に抽出されます。候補者が尽きた場合は、最終的にミス当事者である神谷様お一人に、可能な限りの補填が集中することになります」
美沙が、かすれた声で聞いた。
「その……補填って、具体的に、何が起きるんですか」
「ケースバイケースです」
桐谷はタブレットを開き、何かを確認した。
「軽微な場合は、罰金、勤務先での評価減、社会的信用の低下など。重大な場合は、刑事責任の代行、裁判での有罪判決、拘束。極めて重大な場合は――」
一瞬だけ、言葉を選ぶように間を置いた。
「生命に関わる事象が、割り当てられることもあります」
「生命に……」
美沙が、椅子の背もたれをつかんだ。
「まさか、死ぬってことですか」
「直接的な表現は避けられていますが、報告されている事例としては、交通事故に巻き込まれやすくなるルートの提示、危険な現場への人員配置、医療リソースの優先度調整などがございます」
「それは、つまり」
「統計的に見て、その方が人生のどこかで大きな不利益――多くの場合、早期死亡――を被る確率が高まる、ということです」
瞬が、意味が分からないという顔で二人を見ていた。
「ねえ、お父さん。ぼく、これ押していいの?」
彼のスマートウォッチにも、同じメッセージが表示されている。
ユウスケは、頭が白くなりそうだった。
「押すな! 絶対に押すな!」
思わず怒鳴りつけると、瞬がびくりと肩を震わせた。
「ご安心ください。未成年の承諾は、法的拘束力はありません。ただ、システム上は『応諾意思あり』として参照されますので、多少、補填配分が変わる場合はございます」
桐谷は、そう付け加えた。
「なんで……なんで家族が巻き込まれなきゃいけないんですか」
「合理性の観点からです」
その言葉は、あまりにもあっさりとしていた。
「ミス補填サービスは、『ミスをした人の人生』を守るためのものでもあります。本人がすべての責任を負えば、その人は、社会的に再起不能になることもある。家族ごと破綻することもある。そうなれば、社会全体の損失は大きくなります」
「だからって」
「だからこそ、責任を小さく分割し、多くの人に薄く配るのです。特に、ミス当事者の近親者は、その影響を既に共有している。経済的にも、心理的にも。ならば、責任も共有していただくのが、最も効率的だと、AIは判断しているのです」
言葉に、冷たい論理の刃が光っていた。
「それに」
桐谷は、少しだけ声を柔らかくした。
「ご家族の方は、神谷様のミスで失われるはずだった未来を、代わりに支える役割を担うことになります。ある意味では、とても献身的で、尊い行為です」
「そんな言い方で、誤魔化さないでください」
美沙の声は震えていたが、その目は怒りで光っていた。
「私たちは、そんなもの頼んでません。ミス補填なんて、勝手に始まって、勝手に押されて……」
彼女は、ユウスケを一瞬、責めるような目で見た。
「あなた、知ってた? こういう仕組みだって」
「……知らなかった」
ユウスケは、素直に答えるしかなかった。
自分が「ミス補填」を何度も使ってきたこと。
その裏で、誰かが負担を強いられていたこと。
それを、意図的に見ないようにしてきたこと。
すべてが、今、この部屋に押し寄せている。
◇
「選択肢は、二つです」
桐谷は、タブレットを回転させ、ユウスケたちに画面を向けた。
「一つは、ご家族を含めた近親者数名に、今回の重大ミスの責任を分散して補填していただくこと。
もう一つは、家族全員を補填対象から除外し、神谷様お一人に可能な限りの責任を集中させることです」
画面には、二つのボタンが表示されていた。
「分散補填を選ぶ」
「単独補填を選ぶ」
その下には、小さく注意書きがある。
「いずれの選択肢も、確定後のキャンセルはできません」
「やめられないんですか。ミス補填そのものを」
「サービスの解約は可能ですが、本件ミスの補填プロセスは既に開始しております。途中でのキャンセルは、システムの整合性上、不可能です」
「ふざけてる……」
美沙が、椅子に沈み込んだ。
瞬は、事態を理解しきれず、ただ不安そうに両親を見ている。
(俺が、押した。俺が、始めた)
ユウスケは、自分の喉を絞めつけるような罪悪感を感じていた。
ボタン一つでチャラにしてきた、軽い気持ち。
「誰も本当に損はしていないだろう」と勝手に決めつけていた無責任さ。
すべてが、今、形を持って迫っている。
「俺は……」
言葉が喉で絡まった。
「俺は、自分一人で、責任を取ります」
そう言うと、桐谷は少しだけ予想外、というように眉を上げた。
「単独補填を希望される、と」
「家族には、関係ない。全部、俺のミスです」
「お気持ちは立派だと思います。ですが――」
桐谷は、淡々とした口調で続けた。
「本件の被害規模を考えると、神谷様の人生をもってしても、全ての責任を補填しきれない可能性が高いとシステムは判断しております」
「それは、どういう」
「刑事責任、民事責任、社会的信用の喪失、経済的破綻――そうしたものを最大限集約しても、なお『不足分』が出る、ということです。その場合、その不足分は、広く不特定多数の第三者に薄く分散されることになります」
「第三者?」
「はい。見ず知らずの方々です。その方たちの人生のどこかで、僅かながら不利益が積み重なる。それによって、今回のミスは、全体として帳尻が合う」
ユウスケは、息を呑んだ。
「……つまり、俺が単独補填を選んだら。家族は守れるけど、代わりに、どこかの誰かが不利益を被るってことですか」
「その通りです」
「それも、嫌だと言ったら?」
「それは、少々、欲張りというものでしょう」
桐谷は、やんわりと微笑んだ。
「ミスは、必ず、どこかに痕跡を残します。誰かが、その分だけ損をする。ミス補填サービスは、その損を可能な限り小さく、可能な限り公平に配るための仕組みです」
「公平……」
「ええ。少なくとも、従来よりは。従来は、運悪く矢面に立たされた一人が、すべての責任を背負わされてきましたから」
その言い分は、ある意味で正しかった。
だが、その「正しさ」が、あまりにも冷たかった。
「どうしますか、神谷様」
画面の二つのボタンが、じっとこちらを見ている。
分散補填か、単独補填か。
どちらを選んでも、誰かが傷つく。
どちらを選んでも、ミスは消えない。
ユウスケは、唇を噛んだ。
「ねえ、お父さん」
瞬が、そっと袖を引いた。
「ぼくが、ちょっとだけ我慢すれば、お父さん、怒られないの?」
その無邪気な言葉に、胸が締め付けられる。
「怒られるくらいなら、いくらでもいい。でも……」
何を言えばいいのか分からなかった。
痛いことがあるかもしれない。
怖いことがあるかもしれない。
ひ lo いことになるかもしれない。
そんな言葉を、小さな子どもに向かって言えるわけがなかった。
「分かりました」
桐谷が、静かに口を開いた。
「決断を急がせてしまって申し訳ありません。重大ミスの補填には、時間的な制約がございますので、本日中にいずれかの選択肢を確定していただく必要があります」
「本日中……」
「時計の針は、止まってくれませんので」
穏やかな、しかし容赦のない口調だった。
「なお、現時点でのシステムの提案としては、『分散補填』を推奨しております」
「提案?」
「はい。アルゴリズムが算出した、社会全体にとってのコスト最小化の解です。神谷様一家のみならず、関係各社、被害者ご家族、第三者への影響まで含めて、もっとも『マシな』未来になるよう調整されております」
もっとも「マシな」未来。
その言葉の重さに、誰もすぐには返事をできなかった。
◇
リビングの時計は、二十一時を回っていた。
ニュース番組は、まだ倉庫事故の続報を流している。
死亡者の有無は、まだ正式には発表されていない。
ユウスケは、ひとりキッチンに立ち、冷蔵庫のドアをぼんやりと開け閉めしていた。
冷気が顔に当たっても、頭は冷えなかった。
(どうすれば、正しいんだ)
単独補填を選べば、自分が徹底的に叩かれるだろう。
仕事を失い、訴訟を起こされ、新聞に名前が載るかもしれない。
刑務所に入るかもしれない。
それでも――家族を巻き込むよりは、ましな気がした。
だが、その代償として、見知らぬ人々が少しずつ損をする。
(結局、それって、今までと変わらないじゃないか)
自分が楽をするために、どこかの誰かに押しつける。
ミス補填が生まれる前から、世界はそうやって回ってきた。
分散補填を選べば、家族も傷つく。
でも、傷は薄く、広く分かれる。
もしかしたら、美沙は少し仕事を失うだけで済むかもしれない。瞬は、進路が変わる程度で済むかもしれない。
(システムが「最適」と言うなら、そうなのかもしれない)
しかし、その「最適」の中に、自分の感情は含まれていない。
キッチンの入口で、足音がした。
振り向くと、美沙が立っていた。
「ねえ」
彼女は、いつものように腕を組んだ。
「私はね」
その声には、怒りも悲しみも、全部まとめて押し込めたような硬さがあった。
「あなた一人に全部背負わせるのは、嫌だよ」
「でも――」
「あなたが潰れたら、それはそれで、私たちの人生も壊れる。あなたがいなくなって、誰か知らない人たちがちょっとずつ不幸になるっていう、その未来も、やっぱり嫌」
言葉が喉で止まる。
「私は、あなたのミスも、あなたの弱さも、全部込みで結婚したつもりだったの。だから、そのツケを一緒に払うのは、仕方ないんだと思う」
美沙は、自嘲気味に笑った。
「……理屈じゃないよ。感情論だよ。でも、感情論で生きてるのが、人間でしょ」
「でも、お前まで」
「どうせ、誰かが損をするなら。せめて、顔と名前が分かる人のために損をしたい。私はそう思う」
その言葉は、あまりにもまっすぐだった。
ユウスケは、目の奥が熱くなるのを感じた。
「瞬には、できるだけ軽い負担で済むようにしてもらう。親も、兄弟も。全部合わせて、なんとかなるように、あのAIとやらに計算させればいい」
美沙は、リビングのほうをちらりと見やった。
「ねえ。さっきの人、言ってたでしょ。『もっともマシな未来』だって」
「それでも、後悔するかもしれない」
「どっちを選んでも、後悔するよ。だったら、せめて、私が納得できるほうを選ばせて」
彼女は、そう言って微笑んだ。その笑顔は、泣き笑いに近かった。
ユウスケは、ゆっくりと頷いた。
◇
リビングに戻ると、桐谷は静かに待っていた。
瞬は、眠そうな目をこすりながら、ソファにうずくまっている。
「お待たせしました」
ユウスケは、テーブルの向こう側に座った。
「僕たちは、『分散補填』を選びます」
「承知しました」
桐谷は、軽く頭を下げた。
「勇気あるご決断に、敬意を表します」
彼はタブレットを操作し、「分散補填」のボタンをタップした。
「これで、システムが自動的に補填配分を計算します。ご家族の方々には、後ほど個別に通知が届きますので、内容をご確認ください」
「内容を聞いてからでも……」
「申し訳ありません。詳細の事前開示は、システム上の仕様で制限されております」
と、そこで桐谷のタブレットが軽く震えた。
「おや。少々お待ちを」
彼は画面を確認し、眉をひそめた。
「どうかしましたか」
「いえ……想定外、というほどではありませんが。やはり、補填量が極めて大きいため、ご家族だけでは収まりきらないようです」
「収まりきらない?」
「ご家族には、補填総量のうち約四割ほどが割り当てられました。残り六割は、より広い範囲――ご親族、友人、職場の同僚、ご近所の方々などに分散されます」
ユウスケは、眩暈を感じた。
自分のミスが、どれだけ多くの人間の人生を変えるのか。
想像することさえ、難しかった。
「なお、ご家族の補填内容については――」
桐谷は、画面をスクロールしながら読み上げた。
「奥様・神谷美沙様:職場での評価減、昇進の機会の喪失、一部人間関係の悪化。
ご子息・神谷瞬様:進学先の選択肢の減少、一部健康リスクの増加。
ご両親およびご兄弟:住環境の変化、経済的負担の増加……」
美沙は、静かに聞いていた。
「命に関わるようなものは……」
「現時点では、ご家族に直接的な生命リスクは割り当てられておりません。統計的な寿命の短縮などは、僅かに発生する可能性がありますが」
その言葉に、ほんの少しだけ、安堵が生まれた。
「ただし」
桐谷は、画面の一行を指で示した。
「補填プロセスは動的です。今後の社会状況、神谷様ご自身の行動、ご家族の選択などによって、内容は随時アップデートされます」
「どういうことですか」
「簡単に言えば――」
彼は、相変わらず穏やかな笑みを保ちながら言った。
「神谷様が、今後『まともに生きるかどうか』によって、補填の配分も変わる、ということです。真面目に働き、社会に貢献すれば、その分だけご家族の負担は軽くなる。逆に、投げやりに生きれば、そのツケは、さらに周囲に回っていく」
ユウスケは、深く息を吐いた。
「なるほど。つまり、これは終わりじゃなくて、始まりなんですね」
「ミス補填とは、本来そういうものです」
桐谷は、満足そうに頷いた。
「ボタン一つで終わるように見えて、その実、長い長い調整の始まりなのです」
◇
話が一通り終わると、桐谷は帰り支度を始めた。
「最後に、一点だけご注意を」
玄関で靴を履きながら、彼は振り返った。
「今後、神谷様の周囲の方々――ご家族、ご親族、ご友人――の端末には、ときどき『補填関連の通知』が届くことになります。その際、神谷様ご自身が内容に干渉することは、ご遠慮ください」
「干渉?」
「たとえば、『この仕事は受けないほうがいい』とか、『この道は通るな』とか、過度に未来に介入しようとすると、システム上、不自然な偏りが生じます。結果として、より重い負担が別の形で現れる可能性がありますので」
つまり、何が起きるか知ることもできないし、防ぐこともできない、ということだ。
「最後に、こちらを」
桐谷は、小さなカードを差し出した。
「ミス補填利用者向けの相談窓口です。心が折れそうになったときは、いつでもご連絡ください。AIカウンセラーが、最適なメンタルケアをご提案いたします」
ユウスケは、そのカードを受け取る気になれなかった。
しかし、受け取らないわけにもいかず、ただ黙ってポケットにねじ込んだ。
「それでは、失礼いたします。今後とも、ユニコーン総合サービスをよろしくお願いいたします」
ドアが閉まる。
静寂が戻る。
リビングから、美沙のすすり泣く声が聞こえた。
瞬は、テーブルに突っ伏して眠ってしまっている。
ユウスケは、玄関に立ち尽くしたまま、スマホを取り出した。
MISS+のアイコンが、相変わらず整然とそこにある。
それを長押しすると、「アプリを削除しますか?」というメッセージが表示された。
彼は、少しだけ迷い――「はい」を押した。
アイコンは、ホーム画面から消えた。
だが、どこか遠くで、かすかな着信音が聞こえた気がした。
きっと、誰かのスマホだ。
見知らぬ誰かの。
見知らぬ場所で、今まさに「補填候補に選ばれました」という通知を受け取っている誰かの。
自分のミスのために。
誰かのミスのために。
世界中で、絶え間なく鳴り続ける着信音。
ユウスケは、ゆっくりとリビングに戻った。
テーブルの上で、美沙のスマホが、また震えた。
画面には、新しい通知が来ている。
「補填スケジュールを更新しました。
今後の人生設計にお役立てください」
その言葉が、異様なほど丁寧で、優しげに見えた。
ユウスケは、画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「ごめん」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ただ、その夜から――家族のスマホは、ときどき、理由の分からないタイミングで震えるようになった。
朝の通勤前。
学校の帰り道。
何でもない休日の午後。
そのたびに、画面には同じロゴが浮かぶ。
青い盾のマーク。
ミス補填の印。
そして、世界のどこかでも、今日もまた、新しい着信音が鳴り始めているのだろう。
誰かの、たった一度の「うっかり」を埋めるために。




