思い出
お月様の見える薄暗い夜であった。私は縁側に腰かけ、妹の下着を編んでいた。真っ赤な毛糸を選んだはずであるが、暗くてよく見えないのである。幸い、月明かりを頼りに、ほんの少しだけ作業ができた。こんなに暗いと血も見えないだろうなと思った。
十分ほど経つと、ほんの少しばかり明るくなった。これで充分に作業ができると思った矢先、後ろの襖の開くのが聞こえた。上手に眠れなかったのだろう、祖母がこちらにやってきた。失礼するよ、と私の隣に腰かけた。
「お前さんは、いつまでそんなことをしとるんじゃい」
「さぁ、気の済むまでは、しばらくこうして生活しようと思っています」
「いいのかい?お前さんももう十七じゃろう。若いうちにやらにゃ気が済まんこともあるじゃろがい」
「もう若くもありません」
しばらく沈黙が続いた。
夏の夜の静寂を打ち破ったのは一匹のスズムシであった。
「婆さん、そこで鳴いています」
「どこじゃ」
「ほら、そこ」
見ると、三十センチほどの水たまりの際に、一匹のスズムシが震えていた。
「泣いているのじゃろう」
「泣いていますね」
「あらかた儂とおんなじじゃ」
祖母は力なく笑った。去年の夏に亡くなった祖父のことを思い出したのだろう。続けてこう語った。
「人間なんてもんは、なんとも不思議なもんなんさ。この世で一番不幸な生き物といってもいいかもしれない。苦しいときゃ泣いて、嬉しいときゃ笑って、けれども心の底では、腹いっぱいの地獄を抱えて、やっとこさその地獄から解放してくれる誰かを見つけたなんて思ったら、いつのまにかふいっと、まるで蝶の舞うように、自分の目の前からいなくなってしまうんじゃ。ほんとうに、一瞬じゃ」
微かに水の滴る音がした。雨が降ったかと思い、水たまりの方に目をやった。スズムシはもうそこにはいなかった。代わりに大きなお月様が、まるで二人を盗み見るかのように、水面に小さく揺れていた。




