第八章 二つの世界の融合
金曜日の夜。
「にゃんダーランド」の入り口で、和也は深呼吸をしていた。
ピンク色のネオンサイン。可愛らしい猫のイラスト。
店内からは、甘い音楽と女性の声が聞こえてくる。
「いらっしゃいませにゃん♡」
ドアを開けると、猫耳をつけたメイド服の女性が出迎えた。
「お一人様ですかにゃ?」
「あ、はい」
和也は緊張した面持ちで答える。
「こちらへどうぞにゃん」
席に案内される。店内は、想像以上にカラフルで、キラキラしていた。
ピンクと白の内装。至るところにある猫のぬいぐるみ。
そして、華やかな衣装を着た女性たち。
メニューを渡されるが、和也は文字が頭に入ってこない。
ここに、紬がいる。
「るる」として。
「お待たせしましたにゃん♡」
声がして、顔を上げる。
そこには――
見たことのない「紬」がいた。
ツインテールに結われた髪。カラーコンタクトで輝く瞳。猫のアイラインが印象的なメイク。
フリルとレースのメイド服。揺れる猫の尻尾。
「るる」だった。
「ご注文はお決まりですかにゃ?」
プロの笑顔。完璧な接客。
和也は、一瞬言葉を失った。
これが、紬のもう一つの顔。
「あの……」
和也が小声で言う。
「星野さん?」
「るる」の表情が、一瞬だけ崩れた。
そして、小さく笑う。
「お客様、るるのこと、ご存知なんですかにゃ?」
演技を続けている。
和也は、その意味を理解した。
ここは彼女の職場。プロとして働いている場所。
「すみません、人違いでした」
「そうですかにゃん♡ じゃあ、ご注文どうぞにゃ」
和也はメニューから適当に飲み物を選んだ。
「るる」は注文を復唱して、厨房へと向かう。
その後ろ姿を、和也は見つめた。
店内を見回すと、他にも何人ものキャストがいる。
みんな、笑顔で接客をしている。
お客さんたちも、楽しそうだ。
和也は気づいた。
ここは、決して「悪い」場所ではない。
お客さんを楽しませ、癒やす場所。
そして、紬は――いや、「るる」は、そのプロフェッショナルだ。
「お待たせしましたにゃん♡」
「るる」が飲み物を持ってくる。
「はい、どうぞにゃ」
グラスを置く手つきが、丁寧で優雅。
「あの……」
和也が声をかける。
「はいにゃ?」
「貴女、すごいですね」
「えっ?」
「るる」の表情が、驚きに変わる。
「こうやって、人を楽しませる仕事。すごいと思います」
一瞬の沈黙。
そして、「るる」の顔が、少しだけほころぶ。
「ありがとうございますにゃん。嬉しいにゃ」
その笑顔は、営業用の笑顔ではなかった。
本当の、紬の笑顔だった。
「るるね、この仕事、大好きなんですにゃ。お客様が笑顔になってくれると、るるも幸せな気持ちになるんですにゃん♡」
その言葉に、嘘はない。
和也は、それを感じ取った。
「じゃあ、るるは他のお客様のところに行くにゃん。また後で来るにゃ〜」
「るる」は他のテーブルへと向かう。
和也は、その姿をずっと見ていた。
笑顔で接客する「るる」。
お客さんの話を楽しそうに聞く「るる」。
一緒に写真を撮って、ピースサインをする「るる」。
そこにいるのは、確かに「星野紬」とは違う人物だった。
でも、同時に――
「これも、彼女なんだ」
和也は、ようやく理解した。
紬は、二つの顔を持っている。
どちらも本物。どちらも大切。
そして、そのどちらも、魅力的だ。
一時間ほど店にいて、和也は会計を済ませた。
「ありがとうございましたにゃん♡ またのご来店、お待ちしてますにゃ〜」
「るる」が見送ってくれる。
その時、小さな声で囁いた。
「後で、外で待ってて」
和也は頷いた。
閉店後、和也は店の外で待っていた。
午後十一時半。店のドアが開き、何人かのキャストが出てくる。
そして、最後に――
黒縁メガネをかけ、パーカーを着た紬が現れた。
「ごめん、待たせて」
「ううん。大丈夫」
二人で、夜の街を歩く。
しばらく、沈黙が続いた。
「どうだった? 私の『るる』としての姿」
紬が、恐る恐る聞く。
和也は少し考えてから、答えた。
「正直、最初はびっくりした。別人みたいで」
「うん……」
「でも、すごいと思った」
「え?」
「あんなに完璧に、人を楽しませることができるなんて。俺には絶対できない」
紬の目が、潤む。
「本当にそう思う?」
「うん。むしろ、尊敬する」
「尊敬……」
「星野さんは、二つの世界を生きてる。どちらも全力で。それって、本当にすごいことだよ」
紬は立ち止まった。
そして、和也の胸に顔を埋めた。
「ありがとう。そう言ってもらえて、本当に嬉しい」
和也は、そっと紬の背中に手を回した。
「でもさ」
紬が顔を上げる。
「何?」
「俺、一つ気づいたことがあるんだ」
「何?」
「星野さん、『るる』として働いてる時、すごく楽しそうだった」
紬の表情が、驚きに変わる。
「見てたの?」
「うん。他のお客さんと話してる時も、笑顔が本物だった」
「……そうかも」
紬は小さく笑った。
「私ね、この仕事、本当に好きなの。最初は軽いノリで始めたけど、今は違う。お客さんを笑顔にすることが、私の喜びになってる」
「だよね」
「でも、それを誰にも言えなかった。『コンカフェで働いてる』って言うと、変な目で見られるから」
「俺も、そういう偏見持ってた。ごめん」
「ううん。でもね、篠崎くんが理解してくれて、本当に嬉しい」
和也は、紬の手を握った。
「星野さん、これからも『るる』として働き続けていいと思うよ」
紬の目が、大きく見開かれる。
「え……?」
「だって、それが星野さんの大切な居場所なんでしょ? それを諦める必要なんてない」
「でも……篠崎くん、こういう世界が苦手なんじゃ」
「それは、俺の勝手な偏見だった。実際に見て、分かったよ。ここは、人を幸せにする場所なんだって」
涙が、紬の頬を伝う。
「ありがとう……」
「泣かないで。これからは、堂々と両方の世界を生きればいい。俺が、全部受け止めるから」
紬は、和也の胸に顔を埋めて泣いた。
嬉し涙。
安堵の涙。
そして、愛された喜びの涙。
「これから、たまに店に来てね」
紬が顔を上げて言う。
「え? いいの?」
「うん。彼氏だもん。『るる』の一番のファンになって欲しいな」
「任せて。毎週通うよ」
二人で笑い合う。
夜の街に、幸せな笑い声が響く。
「じゃあ、送ってく」
「うん」
手を繋いで、駅に向かう。
紬の手首には、いつものシンプルな時計。
「そういえば」
和也が言う。
「今度、星野さんにプレゼントしたいものがあるんだ」
「何?」
「内緒。でも、きっと気に入ってもらえると思う」
「楽しみにしてる」
駅に着き、改札の前で立ち止まる。
「じゃあ、また月曜日」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
和也が去っていく。
紬は、その背中を見送った。
胸が、温かい。
こんなに満たされた気持ちは、初めてだった。