第一章 秘密の境界線
大学三限目の経済学概論。私は教室の端、窓際の席でノートを取っていた。隣の席には、いつものように篠崎和也が座っている。
「……以上が、今日の講義内容です。次回は需要と供給の関係について詳しく――」
教授の声が遠くなる。集中力が切れかけていた。昨夜、店が混んでいて帰宅が午前二時を回った。睡眠時間は四時間ほど。正直、眠い。
コクリ、と頭が傾く。
「星野さん」
「にゃっ!?」
思わず変な声が出た。周囲の視線が一斉に集まる。顔が熱くなる。
「だ、大丈夫? すごい声出してたけど」
和也が心配そうに覗き込んでくる。距離が近い。シャンプーの香りがする。
「だ、大丈夫。ちょっと寝ぼけてただけ」
やばい。職業病が出そうになった。
語尾に「にゃん」をつけるのは、店での癖。六ヶ月も続けていると、完全に身体に染み付いている。プライベートで出てしまうことは滅多にないけれど、寝不足のときは要注意だ。
「無理しないでね。星野さん、最近疲れてない?」
優しい声。その優しさが、胸に染みる。
「平気。ありがとう」
笑顔を作る。「るる」ほど完璧じゃないけれど、自然な笑顔。
講義が終わり、学生たちが教室を出ていく。私も荷物をまとめようとしたとき、和也が声をかけてきた。
「星野さん、今日の放課後、時間ある? ゼミの発表の打ち合わせ、一緒にしない?」
心臓が跳ねる。
でも――今日は金曜日。店のシフトが入っている。しかも、週末の夜は最も混む時間帯。休むわけにはいかない。
「ごめん。今日はちょっと……用事があって」
「そっか。じゃあ、また今度で」
残念そうな表情。それが、余計に辛い。
本当は一緒にいたい。もっと話したい。
でも、私には守らなければいけない秘密がある。
午後六時。大学から電車で三十分、繁華街の一角にある「にゃんダーランド」の更衣室で、私は変身を始めた。
黒縁メガネを外し、カラーコンタクトを装着。ヘアゴムを解き、ツインテールに結い上げる。ベースメイク、アイシャドウ、猫ライン、リップ。一つひとつの動作が、もう完全に習慣になっている。
最後に、フリルたっぷりのメイド服に着替え、猫耳カチューシャをつける。
鏡の中には、もう「星野紬」はいない。
そこにいるのは、No.1キャスト「るる」。
「るるちゃん、今日も気合い入ってるね〜」
隣で着替えていた先輩キャストの「みゅう」が声をかけてくる。
「そうですかにゃ? いつも通りですにゃん♪」
自然に、語尾に「にゃん」がつく。ここでは、それが当たり前。
「今日、るるちゃんの指名、もう五件入ってるよ。さすがNo.1」
「頑張りますにゃ〜ん☆」
フロアに出ると、店内は既に満席だった。ピンクと白を基調にした内装、至るところに配置された猫のぬいぐるみ、甘い音楽。
「るるちゃん、こっち来て〜!」
常連客の男性が手を振る。私は完璧な笑顔で近づき、隣に座る。
「お待たせしちゃってごめんにゃさい! 今日はどんなお話を聞かせてくれるのかにゃ?」
「いやー、今週も仕事が大変でさ。でも、るるちゃんに会えるから頑張れるんだよ」
「嬉しいにゃん♡ るるも、ご主人様に会えるの楽しみにしてたにゃ〜」
営業トーク。でも、嘘ではない。
この仕事を始めたきっかけは、正直言って軽いノリだった。
大学一年の春、友達の美咲に誘われたのだ。
「ねえ、紬! 私、コンカフェでバイト始めたんだけど、一緒にやらない? 時給いいし、衣装超可愛いよ!」
最初は断った。私なんかが、そんなキラキラした場所で働けるわけがない。
でも、美咲は諦めなかった。
「一日だけでいいから、見学に来てよ! 絶対楽しいから!」
半ば強引に連れて行かれた「にゃんダーランド」。
そこで見た光景は、私の想像を超えていた。
可愛い衣装、キラキラした内装、笑顔で接客する女の子たち。
そして――店長が私に言った言葉。
「君、メガネ外したら絶対可愛いよ。やってみない?」
その一言が、全てを変えた。
メイクをしてもらい、衣装を着て、鏡を見た瞬間――
「これ、私…?」
別人のように可愛くなった自分。
普段は地味で目立たない私が、こんなにも変われる。
それが、純粋に楽しかった。
まるで、シンデレラになったような気分。
「やってみたい」
そう言った自分を、今でも覚えている。
もちろん、お金のことも考えた。時給は確かに良かった。でも、それが一番の理由じゃなかった。
「もう一人の自分」になれる。
それが、何より魅力的だったのだ。
「るる」として過ごす時間は、確かに疲れる。でも、それ以上に楽しい。
お客さんを笑顔にすること。喜んでもらうこと。そして、普段の自分とは違う「私」でいられること。
それが、私のコンカフェライフだった。
篠崎和也に恋をするまでは。
午後十一時、閉店作業を終えて、私は店を出た。
メイクを落とし、メガネをかけ、髪を解いて簡単にまとめる。パーカーとジーンズに着替えて、また「星野紬」に戻る。
夜の街を歩きながら、ふと思う。
私は、どっちが本当の自分なんだろう。
地味でおしゃれに無頓着な「紬」も、華やかで愛想の良い「るる」も、どちらも演じているような気がする。
本当の私って、一体どこにいるんだろう。
スマートフォンが震えた。メッセージの通知。
篠崎和也からだ。
「今日は用事、大丈夫だった? また今度、ゆっくり話そう」
シンプルな文面。でも、それだけで胸が温かくなる。
「ありがとう。また誘ってね」
返信を送る。
画面を見つめながら、私は小さく息を吐いた。
いつか、本当の自分を見せられる日が来るだろうか。
いつか、全部を受け入れてもらえる日が来るだろうか。
そんな未来を夢見ながら、私は夜道を歩き続けた。