第6章 東京進出
フリーの時は金銭的には不安定だったが、結構面白い仕事が次々舞い込んできて、自由で色々な人と仕事が組めて楽しかった。就職活動中でお金が無いとわかってくれている仲間や目上の方々がご馳走してくれる機会も、この時が一番多かった気がする。どこかに所属したら、仕事が忙し過ぎて食事もまともに出来ないことの方が多い。若い女性というのもあったが、大阪北新地や京都祇園の有名な料理屋に博報堂の先生や社長さん達が連れて行ってくれて、一番贅沢をしていたような気がする。
東京の広告代理店にも願書をいくつか送ったが、一次審査でダメだったり、受賞履歴もないので、なかなか次の会社が決まらなかった。東京で映画のプロデューサーをしている友人は、あれからどんどん有名になって、会う度に豪華なマンションに移転していた。最初東京の会社の面接のために行った時は、まだ西日暮里にいた。下町情緒のあるところで、友人の好きな猫がそこここににいた。「受賞歴もないし、学歴もない私なんて東京の一流広告会社が相手をしてくれるはずなんて無いよね」と弱音を言ったら「本当に、その会社に入りたいの?」と厳しい口調で尋ねられ、戸惑った。「僕なら、行きたい会社だったら、どんな手を使っても入るけどね」と事もなげに言う。「でも、受からなければ行けないじゃない?」と言うと笑いながら「今、僕の会社にも入りたいと沢山の人が面接に来るのだけど、まずみんな断ることにしている。それでも諦められず、誰かに頼んで再度アプローチしてくる者もいるし、何度も何度も来る奴もいる。こちらがOK出すまで諦めない位の根性がなければ、この業界では生き残れない。だから、試すのだ」と。「本当に行きたい会社だったら、どんな手を使ってでも入ろうとするでしょう?」と言われ、言葉もなかった。選んでいた広告代理店は、ただ有名だとか大きいところだとかで決めていた。どこかに受かれば良いと、数打てば当たるだろうと楽観していたところがあった。それから、関西に帰って宣伝会議や情報を色々取って面白そうな会社を見つけた。
その時、急に腹痛がして、救急病院で緊急手術を受ける羽目になった。実は随分前から盲腸を切った方がいいと言われていたのだが、仕事が忙しくて放置していたのが、とうとう大きくなって腹膜炎を起こしてしまったのだ。もちろん、健康管理を怠った自分が悪いのだが。入院して、一命を取りとめたことを聞いた時、「いつどうなるか、わからないから、やりたいことは後悔しないよう、急いで、やらなければならない」と思った。目の方も、あまり調子が良くない。長時間コンピューターの前でコピーを書いて、酷使しているからに違いない。いつまで光はあるのだろう?不安に苛まれながらも、だからこそ見える間にやりたいことはやらなければならないとの思いが募る。
入院中は横になって動くことも出来ないので、付き添ってくれていた母に履歴書の代筆を頼んだ。母は書道はもちろんペン字も先生になれるほど上手い。なので、年賀状の宛先も、頼みもしないのに書いてくれていた。この時も喜々としてやってくれた。受験の時も、申込書も母が書いてくれると合格した。たまたま就職活動をしている時に倒れて、岡山から母が来てくれたのも何かの縁。やっぱり書類審査が通って状況した。その時はまた移転していて、友人は東京タワーの見える広尾のお洒落なマンションに住んでいた。多忙な筈なのに上京する時には、いつも時間を空けてくれる。「お金がないのでは」と配慮してくれて、映画の本を読んで感想を言うだけのアルバイトの仕事をくれる。それで往復の新幹線代は賄うことが出来た。東京で今に至るまで金銭的にも苦労した友人ならではの心使いだった。そんな、周囲の人々の協力もあって、無事面接に受かることが出来た。少々ハッタリもあったが、高めのお給料の金額も受け入れてもらえた。




