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第5章 第1回倉敷音楽祭

天王寺博の他にも、倉敷音楽祭の仕事が舞い込んだ。放送局の有名な方から相談があって、お手伝いをしていたコンサルティング会社が、それを受けたからだった。当時の倉敷市の助役は文化人で、この音楽祭の提案者でもあった。大原家が行っていた倉敷コンサートと共に音楽祭をやりたいと企画されたそうだ。

ふるさと創生の1億円の有効利用だと、1週間世界から有名なアーティストのコンサートがあちこちで行われるのだとか。相談があった時には、その贅沢な催しに1億円は、ほぼ使われていたのだが、市民の盛り上がりがない。ただ単に有名アーティストが来るというだけでは、イマイチまとまらないし、一回で終わってしまう。しかも、大原家の協力は得られないことになったらしい。大原家の長女は、テレビマイユニオンでプロデューサーをしており、小沢征爾や名だたる音楽家たちと、日本におけるクラッシック業界のために尽力された方で、後に文部大臣新人賞も受賞。素晴らしいテレビ番組をたくさん制作して、啓蒙活動に後見された方だった。背は低いのだが、どこにいても気配がすぐわかるほどのオーラを発していた。大原美術館で有名だが、孫の謙一郎さんは美術を、れいこさんは音楽を、祖父の孫三郎さんから教えられた。

ある時、大きな部屋で、「これを飾る場所はどこがいいと思う?」とれいこさんに祖父が聞いたと言う。色々、考えた挙句、掛け軸をある所に掛けると祖父は「そう、物事にはそこにあらねばならない1点があるものだ。それさえわかっておいれば、その他はどうにかなる」と教えてくれたのだという。生き方で言えば根っこの部分なのかも知れない。それさえ、しっかりしていたら、どんな葉をつけ、枝を張って花が開こうと間違いはない。自由の根幹には揺るぎのない1点があることを。倉敷を昔ながらの白壁を遺し、今の情緒のある日本屈指の観光地にしたのも、音楽や美術や文化レベルの高い町づくりをしたのも大原孫三郎さんの力によるものが多い。若かりし頃は遊び人だったようだが、阪急の小林社長もそうだったように、破天荒でお茶目な型が、晩年偉業を成しえている。様々なことを体験してきた者ほど、視野は広くなる。昔の経済人は未来を見通せる美しい風景を思い描くことができる方が多かった。衣食住に困らなくなったら、人は学問や芸術を楽しむようになる。余裕ができたら、心や感性を磨くことが出来る。財閥に産まれ、あらゆる文化や芸術を、本場ヨーロッパに行って見聞きできたからこそ、倉敷のような文化都市ができたのだと思う。倉敷音楽祭のコンサルティングを頼まれた社長は、東京芸大卒のIQ200以上ある天才だった。あのムーンビーチを有名なリゾーチにしたのも社長だった。当時は建築関係や一流企業のコンサルティングをしていて多忙だったが、元々デザイナーだったということもあり予算のない倉敷音楽祭は次の仕事のための布石として受けたらしい。社長の中には倉敷のあちこちに音楽が溢れ、市民が笑顔で楽しんでいる姿が見えているようだった。市の役員たちは、やらなければならないことは素晴らしく完璧に出来るのだが、新たなことをするにはリスクばかりが頭をよぎり、文句ばかりが口を出る。そこで社長が最初にしたことは、倉敷の名士や音楽関係者を集めることだった。最初の顔合わせの時は、冷たい空気と、それぞれ威厳のある方なのだろうか?威張っていて会話にならない。アイビースクエアの官庁さんや日本郷土美術館の大賀さんだけがニコニコして話やすかった。すぐに和子は仲良くなって、倉敷の人間関係や皆が心に思うことをリサーチすることが出来た。そして、倉敷の人々が、それぞれ只者ではないことを痛感した。

食事も美味しい所が多かった。倉敷コンサートの出演者たちも世界から訪れる。そんなアーティストの舌を唸らせる瀬戸内海の魚介類を芸術的に料理したお店がたくさんあった。

大賀さんは女性ながら、新進の工芸作家たちに発表の場や、イベントを勢力的に行っていて文化人としては有名な方だった。物腰は柔らかなのに、倉敷の端々まで良く知っていて、情報誌を作る際には彼女の人脈で有名飲食店が協力してくれて内容の濃い特典満載の情報誌【瓦版ミューズタウン倉敷】が出来上がった。この情報誌が倉敷音楽祭の情報を唯一まとめたもので、観光客や市民の羅針盤のようなものだった。何度か繰り返す【市民の会】では、それぞれの有志から様々な企画が出て来るようになった。それを汲み取って、街角にこうあって欲しいとの絵を描くのが社長のコンサルティングの腕だった。不可能だと思われることも社長のアイデアで次々とワクワクするような企画に生まれ変わる。助役や市の役員の方々と飲んでいる時も和子は耳をそばだてて、企画を文章化しなければならない。【ミューズタウン音楽の神様】と言うワードも飲み会で決まった。ポスターのイラストは社長自らが書いた。白壁の前を自転車でバイオリンを持った若い淑女が走っている絵だ。大正ロマンを感じさせるような、岡山で有名な【夢路】の美人画のような色調の、どこかノスタルジックな香りのするイラストは倉敷の町にフィットしていた。和子は倉敷音楽祭のスローガンを書くよう社長に言われたのだが、何百もの案を出してもOKが出なくて、どうしてよいか分からなくなっていた。大きな溜息をついて、社長は写真集を和子に見せて言った。「この写真を見て、どう思う?」その写真は、どこかの河原で撮ったものらしく、小石がごろごろ転がっているものだった。正直、どうも思わないのだが、何か答えなければならない。それを察してか、次にパンを撮影した写真を見せられ「どう思う?」と聞かれた。また何を答えたら良いのかわからず口ごもる。「このパンの写真を撮るために、カメラマンは何百回とシャッターを切る。ずっとカメラを覗いていて、時間によってかすかに光が変わり、食パンの息吹が感じられる瞬間にシャッターを切る」そう言って和子の顔を覗いて何か感想はないか?と問うているようだった。和子は、絶望的な気持ちになる。「この小石を美しいとは思わないか?」と、また和子の目を探るように見る。「美しいと思います」と素直に言う。このカメラマンは、このどうってことのない小石に何かしら感動を覚えシャッターを切らずにはいられなかった。芸術には、そんな瞬間がある。それを追求し、何時間も何日も向き合って、この一瞬を撮ったのだと話してくれた。その美意識が和子にはわからないのか?と蔑まれているような心持ちだった。それらの写真集を片付けながら社長は言った。「君は、誰のためにコピーを書いているのか?」と。しばらく沈黙して和子は「スポンサーの依頼に応えるため」と答えると社長の顔が厳しくなった。「では、自分のためですか?」と言うと怒られた。「君が責任を取らなければいけないのは、この瓦版を受け取って読んでくれる人々だ。君は、その人々の顔がイメージ出来ているのか?」と。広告費を出しているスポンサーも、このイベントの魅力を伝え、沢山の人が来てくれることを望んでいる。つまり、この瓦版には、倉敷や音楽祭の魅力が、ふんだんに入っていなければならない。今、君に頼んだスローガンは、これから何年も続くかも知れない、この音楽祭の顔のようなものだ。ずっと愛され、思いや、企画趣旨を伝えなければならない。だったら、おのずと言葉は決まって来るはずだ」と。「だったら、社長が作ればいいのに」と、その時は内心思っていたが、怖すぎて従順に「もう少し考えさせて下さい」と言っていた。それから、また何案も書き出して社長のところに持って行った。わからないまでも、何かに気付いた和子のコピーは、それから迷わなくなった気がする。大原家の教えのように、「一点、そうでなければならない所がある」という感覚に似ているような気がした。そしてスローガンは【街並みと、ほほえみのシンフォニー】に決まった。イラストはポスターにする本格的なものから、瓦版の挿絵に至るまで社長が描いた。企画は、市民の会や飲み会で出た案をまとめて、記者会見用資料を和子がひとりで作成した。記者会見まで時間がなかったから、見切り発進したものもあった。例えば【野点とお琴の会】だが、大原美術館の庭にある茶室でやるという企画なのだが、市の職員から「色々流派があって、どこに任せるかで、もめるので無理だ」と聞いていたのだが、「やりたい流派だけ参加してもらえばいい」という社長の言葉で踏み切ることが出来た。音楽の中には邦楽が必須だし、倉敷の町には琴の音が似合っていると思ったからだ

記者会見をした後の、市の職員の動きは素晴らしかった。全てのお茶やお琴の師匠に話をし、倉敷の銘菓【むらすずめ】に頼んで、お茶菓子を提供してもらった。いがみ合っていた流派のお師匠さんたちも、弟子たちから「倉敷音楽祭に、自分たちだけ参加できないのはおかしい」と言われ、全流派が参加することとなったらしい。どこか1カ所にしか声をかけなかったら、嫉妬や利権争いが起こるものだが、全員に声をかけたことが勝因になったようだ。こういう人の心の動きを読んで戦略を組むのが社長は上手かった。

オープニングのホルンやストリートオルガンは大阪にあるスイスオルゴールを輸入している佐伯貿易から手配した。まるで、ヨーロッパのような雰囲気を醸し出すストリートオルガンを演奏するのは倉敷で有名な音楽の先生だった。シルクハットに蝶ネクタイ、付けヒゲといういで立ちも、ノスタルジックなヨーロッパの街角をイメージさせた。扮装してストリートオルガンを演奏するのが気にいったのか?ハンドルを回転させるだけだとあなどるけど、やってみたら結構大変。回す速度で奏でられる音楽のイメージがまったく変わる。曲の最後まで回し続けるのは、案外難しい。それを、道行く人に体験させてくれる。町にはスイスオルゴールの音色と集まった人々の拍手と笑いが絶えない。旅の思い出作りをしてくれる人気イベントだった。オルゴールも音色も、倉敷の街並みに、しっくり馴染んでいた。アイビースクエアでは、当時人気のミュージカル【キャッツ】を小学生たちが演技したり、バイオリンの奏者が路上パフォーマンスをしていたりと、町には音楽があちこちで奏でられていた。そして、圧巻は【42.5時間ピアノマラソン】だ。幼稚園児から老齢の方、腕に自信のある方がピアノ演奏をして、夜中も演奏するというもので、当時マラソンが盛り上がっていて飲み会でごろ合わせのような感じで出た企画だった。記者会見資料を作りながら、「本当に出来るのだろうか?」と内心思っていたのだが、NHKまで取材に来てくれて、42,5時間張り付いて取材してくれたのには驚いた。総勢300人以上もの市民が参加した目玉になる企画だった。子供たちは昼間に。若い元気な者は夜に演奏してもらっていたのだが、3月といえどまだ寒い。夜中などは人通りもない。そんな中で、よく市の担当者も演奏者も取材班も頑張ったと、尊敬してしまう。「昼間だけで、連続何日かのピアノリレーにしたら良いのに」と思うのだが、臨機応変とか、時代と共に変化させるという意識はないようだ。何しろ、記者会見までは難色を示していた市の職員たちも、いざ決まったら完璧にやり切るし、毎年同じことを続けるのが凄い。市民のお祭りは、皆が参加し、自発的にやる気になって盛り上がらなければ定着しない。市長や発起人がいなくなっても、続けられる。皆が音楽を楽しめるイベントのスタートにタッチ出来たことは本当に嬉しかった。モーリスベジャールのバレエや舞台演出は素晴らしかったし、初めて聴くクイッケン兄弟の古楽器の音色は心に消えなかった。素晴らしい音響のホールには連日世界から有名なアーティストが訪れ演奏するのだが、連日満席。決して安くはないチケット代なのだが、さすが倉敷の文化人たちは、こういうことにお金を惜しまない。音楽祭の間はあちこちのお店で、ジャズのコンサートをしていたり、音楽祭オリジナルメニューを瓦版のために作ってくれたりと、町はひとつになってどこに行っても笑顔に溢れていた。市民の会で知り合った方々が町のあちこちで会って、親しく話ができるようになっていた。人は変わる。活躍の場を提供できれば輝いて想像以上の結果をもたらすことを倉敷音楽祭は教えてくれた。社長の元で、最終ラウンドのクリエイティブ部門でコピーライターとして仕事をしていただけだったのに、コンサルティングからタッチする楽しみを経験させてもらって、根本的な何かが変わった気がした。



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