第3章 初めてのロンドン一人旅
映画のプロデューサーの友人が「ヴェネチア映画祭に行く途中ロンドンで会おう」と簡単に言うものだから、格安航空券でヴァージンエアラインを取ってもらいロンドンに。日本からアメリカ行きの飛行機の中には日本人のスチュワーデスがいたし、イミグレーションに必要な用紙は英語と日本語で書かれていた。しかし、アメリカからイギリス行きの飛行機には一人も日本人がいなかったし、提出しなければならない用紙にも英語の表記しかなかった。英語の苦手な和子は困ってしまって、スチュワーデスを呼ぶが、言っている意味が通じない。たぶん発音もジャパニーズイングリッシュなのだろう。コショウを頼んだら紙が渡されたし、コーヒーを頼んだのにコーラが来たりするのだから、発音の悪さには自分でも自覚がある。どうしようもなくて落胆していたら、隣の女性が和子のパスポートを見て代わりに空欄を埋めてくれた。どこの国にも親切な人がいるものだ。空港に着いて、どうやって友人と会うことが出来たのか?不思議なくらいだが、友人の顔を見た時は、心細かったのか?とても嬉しかった。しかし、海外を股にかけて活躍している彼も英語が苦手だと、すぐにわかった。和子に「道を聞いて欲しい」と言われ、「英語は苦手だから無理」だと断ると「僕も苦手だから。若い女性には親切に教えてくれる筈だから大丈夫」と無理矢理聞きに行かされて騙されたような心持になった。「国際的に活躍しているのに、英語が苦手なんて、それで仕事ができるの?」と聞くと「仕事の時はプロの通訳がつくからね。下手に英語が出来て自分で契約などを交わしたら大変なことになるからね。餅は餅屋。お金を出して優秀な人を雇ってやってもらった方がトラブルはないし、何かあっても責任も取ってもらえるからね」と言った。英語で交渉できるまでスキルアップするには、それだけで確かにどれだけ努力が必要だろう?いや、その道のプロになるのは、きっと一生かかったって無理だ。何もかも自分で出来るように頑張る日本人気質だから、大きなことが出来ないのかも知れない。
友人は、良い映画をプロデュースする能力がある。その卓越した能力を最大限に活かすには優秀なブレーンがいたらいいだけなのだと。第一線で活躍できる人の発想を垣間見たような気がして恥ずかしくなった。友人もヴェネチア映画祭に行く前に、わざわざロンドンに来たのは、それなりに仕事に関係する用事があったのだろう。次の日から映画のロケハンとかで、何時間もかかる遠い田舎の町までタクシーに乗って連れて行かれた。今になってみると、貴重な経験だったと思えるのだが。その時には、英語力のない2人での珍道中。友人も、これほど和子が英語を話せないとは思ってもいなかったのだろう。「ロンドンに帰ることが出来ないのでは?」と2人とも、不安で仕方なかった。だいたい和子は自然よりもミュージカルや演劇が好きだった。そのため次の日から友人とは別行動。【レ・ミゼラブル】や【ラ・カージュ】などのミュージカルを観て、大感激。エイズが社会問題になっている頃だったので、演劇もエイズを題材にしたものだった。その内容もさる事ながら、シルクハットをかぶった紳士や上品な淑女たちが、同性愛をモチーフにした演劇を見に来ていることには驚いた。同性愛は、さして珍しいことではないのかも知れない。アメリカでも、喜劇役者や、有名なアーティストがエイズで亡くなっていた。英語は、独特のジョークがわからなければ、笑えないことが多い。チキンも鶏と訳すより、【臆病者】と言う意味で使われる事の方が断然多い。皆がドッと笑うので、一緒に笑うのだが、やっぱり意味が知りたい。「横に通訳してくれる人がいたら、もっと面白いのに」と思った。シェイクスピアは本場なので期待していたのだが、見つけることが出来なかった。日本に来ても、なかなか邦楽や日本舞踊を見ることが出来ないのと似ている。イギリスはクイーンズイングリッシュなので、日本人が使っている英語とは随分違う。トイレもレストルームだし、エレベーターはリフトと言うから面白い。単語自体が違うし、発音やイントネーションは全然違う。これは、学ぶよりも慣れるしかないと実際行ってみて思った。難しい単語を言っても、通じないのは、日本人だって国語の出来ない人が多いのだから仕方のないことかも知れない。言葉はコミュニケーションツールなのだから、実際話をして発音を直されて上手くなるものなのかも知れない。日本人の一人もいない劇場で、海外の問題作を見ているということだけで和子は充分興奮していた。
日本で堺オペラの広報の手伝いをしていたので、舞台にも興味があった。特に気に入ったのは、ホログラフィーや舞台が動く迫力満点のミュージカルの【タイムズ】だった。これは、ブロードウェイでも見たことがなかった。音響も凄かった。そして、ホログラフィーで人物が観客席にも映し出されたりと、革新的でビックリさせられた。ロンドンは、ファショナブルな若者が多かった。いきなりパンクの男性グループが鎖の音をさせながら歩いているのに遭遇したり。日本人がやっているD&Dで知り合った女性3人で行ったディスコも若者がエネルギッシュに踊っていた。ただ、日本人は幼く見えるようで、和子は高校生と間違われ補導されそうになった。パスポートを見せて納得してもらえたが、10歳も下に思われていたかと思うと嬉しいどころか情けない。
同じ宿で知り合った若い女性たちと一緒に動くようになって、行動も大胆になった。やはり、旅は道連れ。気の合う仲間がいると断然楽しくなる。ただ、そこからヨーロッパにも渡るつもりだったのだが、やっとお金や土地勘にも慣れたところで、また言葉の通じない国へ行くのはリスクがあると思いドーバー海峡を渡るのは断念。ロンドンの町だけでも行きたい所が沢山あったし、見たい物や買いたい物も山ほどあった。有名なデパートのハローズにも見慣れないお洒落なグッズや、最先端のファッションや生活用品があって、特に台所製品は珍しくて見ているだけでも面白かった。メイン通りから外れた所には革製品のお店がズラリ。日本では高価で手が出ない革ジャンもリーズナブルで買うことができた。デザインも色も豊富で、レンガ色のロングコートに決めるまで、数軒のお店を物色し、鏡に映し金額の交渉を重ねた。ロンドンにイスラム系の人が、こんなに沢山いるとは思わなかった。中国料理はどこの国に行っても幅を利かしている。アメリカでも、イギリスでも中華街がある。もちろん、日本にも。でも、お米を食べたい時には、本当に助かる。まだ韓国料理も日本料理も少なかった。寿司屋もあるのだが、グロテスクな色のネタを見ると食欲が無くなり、入る勇気が出ない。だいたい日本人がやっていないので、味も似ていない。なので、ご飯が食べたくなったら中華街で胃袋は満たす。ローストビーフの美味しいお店を見つけてからは毎日のように通ったのは、驚くほどイギリスの食事は不味かったからだ。ケーキは大きくて甘すぎる。朝は紅茶とトーストにジャムが一般的だが、チップ&チップスは、白身魚のフライなのだが味気ない。せっかくなのだからイギリスらしい食事をと思うのだが、何料理を食べても、どうも口に合わない。霧の町というロマンチックなイメージも行ってみると、ほんの少し前も見えないので道に迷いそうでホテルに帰れるかどうかもわからず不安になった。それでも、町並みは美しく、窓には花々が植えられ、木々もきれいに整えられている。ピーターラビットの世界を彷彿とさせる豊かな自然も、少し電車に乗れば見ることが出来た。若者が多く、日本に留学したことがあるという青年が声をかけて来て、日本がどれだけ好きかとしゃべりまくった。しかし、途中で「英語で話してくれないかしら」と言いたいくらい、意味不明な日本語で理解に苦しんだ。きっと、自分が英語を一生懸命喋っても、意味が伝わらないのは単語の羅列で接続詞が変なのかも知れないと和子は気付かされた。とは言え、あっという間に1週間のロンドン滞在は終わり、往復で買ったニューヨーク行きのヴァージンエアラインに乗ってニューヨークに向かったのだが、イミグレーションで止められ、別室に連れていかれ英語で質問されるのだが、何を言っているのかさっぱりわからない。何時間も経って無罪放免になって、イミグレーションを通過したら、ジャックが迎えに来てくれていた。思わず涙が溢れた。そして、不安だったことをジャックに訴えた。検査員が溜息交じりにジャックに何やら説明していた。ジャックも一生懸命誤解を解いてくれていたようで、やっと解放された。ワシントン大学に行っていた友人はコロンビアユニバーシィティに和子がロンドンに行っている間転入していた。そこで、引っ越ししたばかりの新居に、また転がり込んで、ご厄介になった。実は友人は結婚したばかりで、奥さんが気さくな人で快く滞在を歓迎してくれたから出来たこと。新婚生活の邪魔をしているみたいで心苦しかった。社交的な奥さんから、多くのことを学ぶことが出来た。男友達よりも、頼りになった。男性は学問を学ぶのは得意だが、コミュニケーション能力がダメなところがある。なので、独身の時、ワシントン大学で学んでいた頃、友人は毎日マクドナルドばかりを食べていたそうだ。ファーストフードなら店員と最小限度の言葉を交わすだけで済むのでいいらしい。ところが、結婚して社交的な奥さんが来て、彼の生活は一変したそうだ。アメリカのスーパーで売られている肉は塊ばかりなので、スキヤキが食べたくても無理だと思っていたら、わざと冷凍してスライスすると薄く切れると奥さんが知恵を出し、やっと日本の食らしきものが食卓に上るようになったらしい。アメリカは日本食ブームもあって、食材は高いが購入することができるとかで、豆腐をご馳走してくれたが、味はまだまだ不味かった。しかし、友人夫婦は美味しそうに食べていた。「これでも、随分美味しくなった方だ」と友人は教えてくれた。日本で食べる繊細な味を望むのは酷だが、アメリカにいると味覚が狂うのは仕方ないと思った。ジャンクフードばかり食べるより、ずっと充実した食事だったので本当に助かった。つたない英語でも気にせず、好奇心旺盛でどこにでも行く奥さんの行動力は目を見張るものがある。買い物に行っても、何軒か回って英語で交渉を重ねる。ある時、エイズの研究の一人者の教授を空港で見つけ声をかけて親しくなったらしい。そして、夫婦で豪邸に招かれ、プールで一緒に楽しんだ話は羨ましかった。奥さんは積極的に話すので、あっと言う間に英語が上達して、情報通になって、あちこちに連れて行ってもらうことが出来た。お喋り好きな人の方が英語は上達するようだ。誰とでもすぐ友達になれる。人なつっこい奥さんが来て友人の人生はきっと豊かになったと微笑ましかった。友人は大学時代から中国や海外で催される討論会の議長をしたり、関西の大学でも有名な逸人だった。彼もニーチェが好きで、和子と大学時代、哲学について夜遅くまで話合い、交友を深めていたものだ。とはいえ、男性一人暮らしなら泊めてもらうことは不可能だったが、たまたま結婚式の二次会に呼ばれ奥さんとも仲良くなったので、ニューヨークやワシントンで宿泊させてもらうことが出来たのだ。あまり英語の出来ない和子にも、救いの神のような存在だった。空港に迎えに来てくれたジャックとは色々な所に行って、仲良く様々な事を教えてもらったのだが、本当にコミュニケーションが取れていたのかは疑問が残る。なぜなら、ジャックを紹介してくれた女性は長年ニューヨークで仕事ができるくらい英語も達者だったのだが。2人でその日あったことを彼女に話すと「2人共、違うことを言っているけれど、まぁいいか。2人共、楽しそうだし」と苦笑されたものだった。こうして、たまに通訳してくれる人がいないと事実がわからないままで帰国しなければならないので本当に助かる。この時も、友人夫婦にジャックからイミグレーションでどうしてトラブっていたのかを説明してもらって、初めてわかったことは、行きの飛行機代は払っているのだが、帰りの代金が支払われていないこと。そして、提出された用紙に書かれていたステイ先の住所がコロンビアになっており、そこまでの飛行機のチケットを出して欲しいと言っても通じないのだと困っていたらしい。行きと同じで隣の親切な女性が代筆してくれたのだが、コロンビアユニバーシティと言ったのを聞き間違いをして、コロンビアという国になっていたのがトラブルの原因だった。「ニューヨークの大学に転入した友人の新居に泊まるので住所を知らなかっただけだ」と説明して無罪放免となったようだ。友人たちは、「その程度で釈放してくれて良かった」と胸をなでおろしていた。「チケットも、往復で買った筈だから飛行機にも乗れたのだから、お金を払ってないなんて、あり得ない」と、その時は怒って言っていたのだが、帰国してカードの請求金額をチェックしてみたら、本当に払っていなかった。和子のせいではないと思うが、それがわかった時には、ヴァージンエアラインは潰れて無くなっていた。格安でサービスは一切ない航空会社だったが、経営難で破綻したのだと聞いた。不払いの4万円位返却しても、救えるわけではないのだが、罪悪感に心が痛んだ。
ニューヨークはセントラルパークなど自然が多く、庭にはリスが遊んでいたり、たまに鹿の姿も見ることが出来るらしい。しかし、まだまだ治安の悪い時だったので、地下鉄は怖くて乗ることは出来なかった。一見普通の街並みだと思われるけれど、襲われやすい場所もあちこちにあって、ニューヨーカーと一緒に歩いていないと危険だった。「あれはジャルパックだね」と綺麗な格好をした女性たちの一団を指さして、ジャックが皮肉交じりに笑う。「怖くて見ていられない」と教えてくれたのは、「あんなにブランド品を持って、お金持ちをアピールしたら狙われるのも仕方ない。金のネックレスなんてして、夜の町に出るなんて、首を落とされて盗んでくれと言わんばかりだ」と。鞄や貴重品はひったくられないようしっかりと抱えて、人と人の間に持つこと。でないと、どこかのビルからサッと手が出て、鞄を盗られてしまう。綺麗な服を着てチャラチャラ歩いていたら狙われる。日本人は危機管理能力が無い。日本と違いアメリカは銃社会。夜の繁華街でも何度か銃声が響いていたし、パトカーのサイレンもあちこちで聞こえてくる。
「ホームで近づいて来る人がいたら、気をつけないと、電車に突き落とされて死ぬ人が多いからね」と在住している人々が忠告してくれる。「何で、そんな危ないことをするのですか?」と聞いたら「頭の可笑しい人が野放しになっているからね」と平気な顔をして言う。話を聞くと、アメリカは医療費が高く、お金を払えない人は入院したり治療できないから、精神病の人もその辺に普通に野放しされているらしい。そういう人がホームから人を突き落として喜んでいるのだと。また、貧困層の人が多いので、親切そうに近づいて来てナイフで脅してお金を盗って行く人もいるとか。そういう被害に遭った時は、素直にお金を渡すことだ。お金を持っていなかったり、少なかったり、反抗した時は命の保証はない。もし、腕に自信があって、相手をねじ伏せようとなんて思ったら、とんでもないことになる。単独犯とは限らないし、下手に争って得することはあまりないそうだ。日本という安全な町に住んでいたら、信じられない事ばかり。若い女性が一人で呑気に歩き回るには、かなりのリスクがありそうだった。「でも、お金持ちや成功者も多い国でしょう?」と尋ねたら、「そういう人は車でしか動かないし、セキュリティに多大なお金を使っている。ヴィトンやシャネルを持っている女性が、繁華街で一人ないし少人数で歩いて行動するなんてことは、まずない。」と呆れながら言っていた。行ってみなければ、住んでみなければわからないことばかりだ。コロンビアユニバーシティで国際経済を学んでいる友人も、日本にいたら分からない、知らされていない情報を色々教えてくれた。どこの国でもそうだが、国民は情報操作され真実など知らされていない。まぁ、真実を知ったところで何も出来ないどころかパニックになって、社会的な混乱を引き起こすだけなのだが。下手に知らない方がいいことも、もちろんあるし、フェイクニュースに惑わされ混乱することだって考えられるから。
しかし、こうやって他の国で勉強すると、知られざる世界が開け、意識改革があって面白い。【日本の常識、世界の非常識】と言われるのは、アメリカの自由の国で住み、勉強すると触発されることが非常に多いからだ。友人も武士道とか日本大和魂などを愛する日本男児なのだが、他民族の集まるアメリカで宗教も常識も言葉も習慣も違う国での視野が広がっていて、議論も深夜までとりとめもなく続いた。学生時代はニーチェや三島由紀夫が好きで、よく時間を忘れて話し込んだことを思い出して胸が熱くなる。大学生になって、女子大だったせいか本を読む人は少なく、話をしても噛みあわなくて落胆していた。その時親しくしていた関西学院大学の友人が紹介してくれたのが、そもそもの交友の始まりだった。お互い、読む本も好きな作家も哲学者も心理学者も一緒。これだけ博識で、話をしていても分かり合える人は、なかなかいなかった。お互い、そんな話が出きる友人を求めていた。新たな情報が得られ、話は尽きない。恋愛感情も無くはなかったが、「恋人になったら、おしまい」と大切な男友達とは、そういう関係にならないよう気をつけていた。誰かの恋人になった途端、なぜだか男友達は離れて行く。「彼氏に悪い」とか、あるいは男性同士が牽制しているのがわかる。だから、友達のままでいい。そのおかげで、結婚しても関係は変わらない。奥さんとも仲良くなれた。日本に帰った後も、仲間たちと一緒に銀山温泉や福島県の温泉周りにも行くことが出来た。男友達は和子にとっては、恋人以上。大切な宝物だった。コロンビアユニバーシティの国際学部で学んでいた情報は、とても受け入れがたいものばかりで、信じられなかった。しかし、帰国して何年も時を経てそのことが事実になって、彼の学問が前衛的で世の中を読むことの出来る凄いものなのだと実感することとなる。その時は、世界が数人の有識者によって設計され、数人の優秀な人の思考が新たな世界をクリエイトしているなんて想像もしていなかった。やがて、次の政権のシンクタンクとして活躍し、優秀な学生たちに教える使命を持っている友人の熱弁を聞くことが出来て胸躍った。あの青春のひとときと、その先駆け的な情報を知ることが出来ただけで充分。ニューヨーク旅行はそれからの和子の人生に大きな影響を与えた気がする。
日本にいたら平和で、政治に文句を言っても変えたいと思う程のエネルギーは誰も持たない。日本人は受け身で何でも手に入るから、外国人みたいな渇望があるわけでもない。多民族で貧富の差が大きいアメリカにおいては、自分の主張をはっきり言わないと何事も起こらない。心に思うことが、常識とは違うのだから、言葉をいくら費やしてもわかってもらえないと思った方がいい。もっと言えば、英語もしゃべれない人も多く、充分な教育も受けていないのだから、相手に期待することすらナンセンスな世界。でも、だからこそ体中でリノヴェートし続けなければならない。国際社会において、そんなトレーニングが出来る教育なんて出来るのはアメリカならではと思わざるを得ない。
そのスケールの大きさ、貧富の差の大きい事、危険とチャンスが同居している町。世界中からチャンスを求め集まってくる。例えば、HOSOのような芸術家たちが集うストリートがあったり、スペイン人が集まっている通りや日本人街など、世界中の人が集まり本格的な料理も楽しめるし、何でもある刺激的な町ニューヨークは夜も眠らない。
ディスコは夜の0時にオープンする。入口では服装や容姿で選別され、入れない人も多い。おしゃれに着飾って入ると、廊下には有名人の写真が飾っていて、ハイレベルの人が集う社交場なのだとアプローチしている。豪華なソファに座ると体が沈んで寝転びたくなる。中は広々としていて、踊る場所やドリンクを頂く所と別れていて、大人の雰囲気。中に入れてもらえただけで光栄な気がした。真夜中に危険な人の入場を許したら、他の人の迷惑になるから、審査は厳しい。アポロシアターなどにあるハーレムにはジャズの有名店も多く、行けば信じられない大御所に会えたりするらしい。そこで、小曽根真がたまたまブルーノートで出演していて、親しく話すことが出来た。日本語であれこれ話せるのが一番嬉しい。年齢も同じ位だし、神戸出身なので、芦屋に住んでいる和子とは共通の話題があって、盛り上がり一緒に写真を撮ったり、握手をして一気にファンになった。こうやって、同じ年なのに、世界でチャレンジしている人がいることを知り、非常に驚いた。しかも、ピアノの腕前は凄いが、人柄はフレンドリー。ブルーノートで演奏できる位だから、ジャズ業界ではきっと有名なのだと思う。旅行で行くなら簡単だが、海外でお金を稼げるのは凄い。グリーンカードだって、そんなに易々と手に入らない筈だ。
5番街を歩いていても、不思議な人に遭遇する。コメットさんが持っているような先頭に星が付いている棒を振り回し、全身白のドレスを着て天使のような羽を背負っている女性に遭遇する。鼻歌を唄いながら、5番街を歩いている。そして、すれ違う人の頭を持っている棒で軽くタッチする。それでも、ニューヨークの人は驚いた様子はない。体の大きな黒人にまでカメラを向けるのは日本人くらいだ。歩いていると、歩道には、紙袋を頭に被り、囚人服に足には鎖といういでたちでパフォーマンスしている人がいたり、銅像かとおもっていたら全身ペイントを施した人間でいきなり動き始めたり。ニューヨークには驚きとサスペンスが溢れていた。少々、変な格好をしていても目立たないし、アーティストだらけで、町は活気に溢れている。まるでビックリ箱のようだと和子は思った。それは、初めて東京に行った18歳の時にも感じた、懐かしい感覚だった。田舎だと、どこに行っても誰かに見られていて、自由が無かった。変な格好も出来ないし、自分をプレゼンテーションするなど、目立ったことをすると周囲の目がうるさい。なのに、東京は大き過ぎて、誰も自分のことは知らないし、どんな格好をしていても誰も何も言わない。自由で開放的で、皆が好きな格好をしていて刺激的。田舎で、堅苦しくて息が出来ないほど、不自由さに悩んでいたので、ユートピアのように感じられたものだ。
今、ニューヨークにいて、どんな常識も通用しないし、言葉すら届かないので、誰も和子を非難したり、悪く言う人はいない。そのことが、心を軽くしてくれた。どこでも行けるような、何でも出来るような気がした。幼い頃から背負っていた魂の傷が癒やされていく。今まで背負っていた大きな荷物が下せた気がした。たとえ、目が見えなくなっても、後悔はない。いや、目が見えなくなる前に、見たいものは勢力的に見よう。いつ何時、盲目になっても、この風景は胸に焼き付けて。
1か月以上ニューヨークにステイして、いっぱしのニューヨーカー気取りだった和子はジャックに空港まで送ってもらう。涙しながら、窓の外を見つめていた。黄昏の帳が降りて、ニューヨークのビルの合間から夕焼け空が広がっていた。「この風景を目に焼き付けておこう」と。「きっと、この町に帰って来る」という決意と共に。それほどニューヨークの町は和子には居心地が良かった。刺激的で面白い町。何でも出来そうな自由の国だった。シンデレラストーリーが信じられる町。頑張っても頑張っても報われないのは、どこにいても同じなのだが、命がけで頑張っている人口が圧倒的に多いことが嬉しい。日本にいたら、和子みたいな性格だと、エネルギーが高すぎて敬遠されがちで孤独だったから。同じ人種が多いと安心して行動できる。
このニューヨーク、ロンドンツアーでお世話になった男友達たちも、それから各界で飛躍的に存在感を示し、有名人になった。ニューヨークは、それぞれの深層心理に働きかけて、自分磨きが出来る町なのかも知れない。青春の日々を束の間でも一緒にいられたことは、生涯の宝物。とても光栄なことだし、それからも迷った時には相談に乗ってくれて、それはそれは厳しいアドバイスをしてくれた。そんな言葉がなければ、生ぬるい日本の社会の中で、とがり続けることなど出来なかったと思う。観光用ヘリコプターが、よく川に落ちると聞いたので、摩天楼の風景を上空から見るのは辞めたが、ニューヨークに行ったことは、それからの人生に大きな変化をもたらしたことだけは間違いない。「27歳に行けたことは、ラッキーだったけど、10代だったらもっと感動できたのでは?」と感じた。感性が鋭い時に、人生を変えたい時に行くべき町だと思う。




