第24章 障害者の恩恵を受け入れたら
プライベートの方は相変わらず大変だった。ただ、娘たちは奨学金で大学に行ってくれていたし、バイトで良く働いてくれていたので、助かっていた。ただ、ボランティアばかりで、どれだけ倹約しても厳しい家計。そんな時、NHKの番組で、障害者年金の特集があった。20年ほど前に、区役所に問い合わせても相手にしてくれないので諦めていたのだが。もう一度、聞いたら、「社会保険事務所の方に聞いて下さい」と言われた。マスコミで取沙汰され始めたので、さすがに中途半端な対応は出来ないようだ。ますます目は悪くなっていた。調べると視野は95%欠けていた。障害者手帳は2級になっていた。しかし、途中で目が見えなくなった者が、障害者年金をもらうのは、非常に難しい。親友が「絶対に取ってやる」と、粘り強く、車であちこち走ってくれて、面倒な書類を書いてくれて、やっと年金を受け取ることができた。
介護福祉関係も、サービスが充実し、障害者でもヘルパーが使えるようになっていた。
介護ヘルパーは就職難の時代には人気のある職業だった。大学にも福祉学科なるものができて、若い有能な人材を排出していた。ケアマネージャーが優秀だったので、ヘルパーも使えるようになった。
いつか、骨折して多忙で家に誰もいない状況の時、ライフラインを閉ざされ困っていたら、助けてくれた人がいた。不思議なことに、ヘルパーが使えるようになって、その恩人と連絡が取れなくなった。その方が勤めていると言っていたサービスステーションに問い合わせてもらったが、そんな人はいないと言われた。狐につままれたような感じがした。そういえば、どこで出会ったのか、記憶がない。和子の車椅子を区に申請してくれ、ついでにヘルパーが使えるように、あれこれ書類を提出してくれた。ヘルパーが使えるようになるまで数か月かかったので、骨折は治ってしまった。調査に来たケアマネージャーが、いい人で家族が不在で困っている和子に同情して、やっとヘルパーが来てくれることとなった。
今考えると、新生してくれた方も、このケアマネージャーも藤原さんだった。この後も介護関係で助けてくれる人が見な藤原さんだと言うことも、なんだか因縁めいたものを感じる。それはともかく、最初に使った介護ステーションの主任は若くて綺麗な女性で、一生懸命障害者に寄り添ってくれた。しかし、24時間精神障害の利用者の電話にも対応していて過労が祟って健康を害してしまったようだ。障害者年金の申込みも、ヘルパーに来てもらえるよう申請するのも、どれも、障害者がひとりでできることではない。和子に興味のない家族の中で、どれだけ助けを求めてもダメだった。和子の両親が他界したら、いきなり経済難。苦しんでいる姿を見かねた友人が助けてくれなければ、今も年金を受けられていないだろう。離婚して生活保護しかないか」とまで思い詰めていたこの時、生活保護なるものを知人に勧められ、一文無しになっても国が生活できる最低限度の支援をしてくれることに驚いた。ただ、そのためには、今ある財産全てを使いきることと、主人との離婚が条件になる。大切な子供たちとの離別は、考えただけでも辛くて、目がみえなくなってもできる仕事を模索していた。運命というものがあるのなら、それを甘んじて受けるのではなく変える方法はないものなのだろうか?これだけ頑張って生きてきたのに。必死で貧困も子供たちには気づかれないよう、工夫して乗り切ってきたけれど、とうとうギブアップだと白旗を上げようとした時、助けてくれた人がいた。自力で頑張って周囲に甘えなかった可愛くない女だった。だから、シャーマンを頼って苦手な集団行動をとったり、嫌いな宗教的なもの入ってみた。これもそれも、当時、日銭を稼ぐために占い師をしていて、次の年から大殺界に入ることを知って、それを逃す術は苦手なこと嫌なことに水から飛び込むことだとアドバイスをもらったからだった。『人は幸福も不幸も涼てがふさがれば掴めないという法則があるそうだ。今、こんなに最悪な状態なのに、これ以上試練のが用意されているというなら、自分から一番苦手な世界へと飛び込んだら、本当に好転して、それらが一番の味方になるのだろうか?』と半信半疑だったが、信じてやってみることにした。それ以外、このどん底の生活から抜け出せない気がしていたからだった。




