第9章 仕事も東京生活にも馴れ、充実した日々
入社して二年目世界は、よりパワフルに楽しめるようになった。担当もオープンしたばかりの福島ルミネが中心に、手掛けるスポンサーも様変わりして楽しくなった。福島県など行ったことなどなかったけれど、お酒とアンコウ鍋がとても美味しくて、泊まりの出張なので若い担当者や女性社員の接待を受けることが出来た。福島県の人は、とても素朴で誠実で素直な人が多かった。JRの関連なので、担当者も駅員をしたことがあると言ってになってまだ、若い人の言葉はわかるのだが、年齢の高い方の方言は聞きとることが難しかった。初めて顔合わせはデザイナーとプロデューサーも一緒で、オープニングイベントの手伝いもあったので会社から数人手伝いにも行っていて賑やかだった。2回目は和子とエグゼクティブプロデューサーの2人で打ち合わせすることになっていた。なのに、時間になってもプロデューサーが来ない。しびれを切らしたルミネの社長と、10人ほどの責任者が和子にプレゼンテーションを始めるように促した。年間スケジュールと企画書を書いたのも和子だったので、プレゼンテーションは難無く終わることが出来たのだが、スポンサーたちはご立腹だった。企画会議が終わった時、プロデューサーから電話があった。「今、下に着いたのだけど、そちらの状況はどんな感じだ?」と申し訳なさそうに言うので「大丈夫です。今終わりました。問題はないです」と言っていたら、ルミネの社長が「もう来なくていいと言ってくれ。これからは二階堂さんだけでいいと」と怒っている。「謝りにだけでも来た方がいいのでは?」と電話口で言ったのだが「いや、任せるので、よろしく言っておいてくれ」と言って帰ってしまった。残された和子は、担当者たちと食事をして、次の展開などの打ち合わせをしたのだが。その日からプロデューサーが福島ルミネに来ることは無かった。なので、プランナー兼コピーライターとして、行く回数が増え、企画の自由度も増して仕事はますます面白くなっていた。イベント企画はもちろん、クリスマスコンサートなどの大きなイベントのシナリオを書くのも和子。地元福島テレビの優秀なスタッフに説明し、一番後ろの席でライトや音量や演出チェックをする。若いのでスタッフのように走り回りたいのに、「指示をしてもらわないと困るので、その場所にじっとしていて下さい」と言われ、トランシーバーのようなものを耳と口元に備え付けられ、「バックの色はこれでいいですか?」とか、「曲のイメージから言うと、ライトはどちらがいいですか?」と聞かれる。リハハーサルの間、和子の書いた台本を見てOKを出す。年配の方ばかりなのに、「こんな偉そうな所に座ってリハーサルをチェックしていていいものか?」と居心地は悪かったけれど、「なるほど、こうやって舞台は作られるのか」と良い勉強になった。シナリオさえ、しっかりしていれば、現場のプロがイメージ通りの舞台を作ってくれて、それぞれ役割があって、互いにそれを尊重し合い、フォローしながら良い舞台が出来るのだと。その時の経験が、その後のパリのジャパンエキスポの舞台作りの元となった。上司がいないので、全ての企画は和子に任されたので若い担当者と、斬新な事を次々にやることが出来た。【トトロ】で文部大臣賞を取ったばかりの宮崎駿のセル画展も、セル画の説明文は和子が書いた。それをデザイナーがボードに張り付けて、セッティングしている。「デザイナーも色々やらされているもんだなぁ」と感心したものだった。
【かわぐちせいこ】のイラスト展の企画を通すのは大変だった。ボールペンの点で描かれているイラストはアバンギャルドで、当時、ロフトや西武のポスターにも使われていて、その不思議な魅力のあるゾウや鳥などの少しセクシーなイラストは誰の目にも新しかった.恵比寿の彼女のオフィスにお邪魔して、イラストをお借りしてプレゼンテーションしたのだが、社長が頭を縦に振らない。オッパイのあるゾウや放尿している恐竜のカタチが卑猥だったりするので、下品だと顰蹙を受けたようだった。それでも、彼の優秀なところは、そのイラストを東京に住む子供たちに見せて意見を求めたことだろう。若い社員たちの声にも耳を傾けてもいた。和子が、いきなり作品を見せた時は、受け入れられなかったようだが、次に行った時は快諾してくれたのだ。全く知らなかった新しい情報というものは、みんな受け入れにくいものだ。特に、年齢を重ねると受け入れがたくなる。若い女性ターゲットのファッションビルに派遣された社長は東京大学卒のエリート。それだけに、若い女性の感性についていけないと自覚していた。情報は、若い時には3回も聞けば世の常識のように自分の中で【当たり前】となる。しかし、年齢を重ねたら、10回は言ってあげなければ頭に入らないものだ。なので、色々な人の口から、そのイラストの好印象を聞くうちに、受け入れることが出来たのだろう。
しかし、美輪明宏のシャンソンのコンサートは、どう言っても受け入れられなかった。「同性愛者なんてイメージが悪い」と、企画は通らなかった。それから2年後に、井原さんとの番組で大ブレイクするのだが。東京人でも、あまり知られていないシャンソン歌手を推薦するのだから、福島ルミネの担当者たちが、ついていける筈などなかった。時代が、お金儲けに偏っている分、美輪明宏のような精神世界系の話を魂が求めていた。広島にあるベルカントホールのスローガンを頼まれたことがある。その時、初めてシャンソンのコンサートを聞かせてもらった。加藤登紀子や石井良子の存在を知り、若い和子にはそれが新鮮だったのだ。そして、東京でシャンソンと言えば、銀座にある【銀巴里】と聞き、友人と捜しながら行った。狭くてイスを並べただけの殺風景な所だったのでビックリしたものだ。その日は知らない歌手だったが、毎日のスケジュール表を見ると、そこに美輪明宏の名前があった。三島由紀夫のファンだった和子には、聞き覚えのある名前だった。幼い頃テレビか何かで【黒蜥蜴】を見たことがある。絶世の美男子が、怪しげな女性を演じていた。三島お気に入りの禁断の関係と共に、憧れの存在だった。なので、一番前の席で友人と間近に美輪明宏を見た時、驚きと感動は湿舌を越えるものがあった。洒脱な会話に、魂のこもったオリジナル曲。涙と笑いが満載の心が揺すぶられるコンサートだった。だからルミネの女性客にも、この感動を体験させてあげたかった。企画とは、そういうものだと思う。予算がどうのとか、面倒くさいという理由で、さしさわりのない事しかしない人が多いが、交渉次第で予算内でしようと思えば出来る。自分でも、どうでもいいと思うようなイベントならしない方がマシだと思う。時間も労働も、お金も無駄だと思う。だから精一杯頑張ってしまう。それで、来た人々が笑顔になると、苦労した甲斐があったと嬉しくなる。採算ベースには合わない働きだが、人はやり甲斐とか思いの力で損得勘定がきかなくなる。楽しくなければ、自分がワクワク出来なければ、良いものは作れない。クリエーターは特にそうだが、どんな仕事をしていても、どこにベクトルを向けているのかで、少しずつ差が出る。
要領のいい人ほど、長く付き合うと嫌われる。薄っぺらい人間にならぬよう、今、目の前にある課題に一生懸命挑みたいと思っていた。そのエネルギーが共鳴して、出来たばかりのファッションビルは、担当者も前向きで地方には珍しいくらいの精鋭的な情報発信をすることが出来たと自負している。




