第6話「神谷蓮の契約書【完】」
次に目を覚ました時、蓮はまた、フィッティングルームに立っていた。
目の前には、鏡。
その中に、さっきと同じ真っ白なスーツを着た自分が、にやりと笑っている。
「は?」
息が詰まった。
心臓の音だけが、耳の奥でうるさく響く。
耳鳴りがする。
視界がかすむ。頭が割れそうに痛い。
「いや、そんなはず俺、落ちた。階段から飛び降りて死んだ」
震える手を見下ろす。
指先が冷たい。けれど、ちゃんと動く。
さっき、確かにこの命、終わったはずだ――
そのとき、不意にスマホのリマインダーが鳴る。
《武道館公演・サウンドチェック 13:00》
(嘘だろ……!)
喉が焼けるように乾いているのに、声が出ない。
頭の中がノイズで満たされる。
理屈も記憶も全部バラバラになって、心だけがひたすら拒絶している。
(なんで、戻ってんだよ!)
もう一度、蓮はドアを叩き開けて階段へ駆け出す。
息が苦しい。心臓が早鐘を打っている。
(ここから飛べば今度こそ終われる!)
迷わない。
手すりに足をかけ、身を乗り出した
瞬間、視界が真っ暗に沈む。
そしてまた。
目の前には、フィッティングルームの鏡があった。
笑っている。
鏡の中の神谷蓮が、また笑っていた
「おかえりなさい、神谷さん」
どこかから声がした。
黒衣の男。あいつが鏡の向こう側から蓮を見下ろしていた。
「無駄ですよ。神谷さん。これは契約により決定事項です。」
蓮は鏡越しに叫ぶ。
「ふざけんな!俺は降りる、こんな舞台! こんな夢、叶えたくなんかねぇ!」
だが死神は微笑んだまま、淡々と告げた。
「夢が叶うまで、あなたは死ねません。この舞台が幕を閉じるまで、
逃げ道はありませんよ」
鏡の中の自分が、勝手に笑っていた。
蓮が笑っているのではない。
夢を叶えさせられる存在が、勝手に笑っている。
(あぁ、もう俺は)
蓮はその場に崩れ落ちた。
涙も、声も、もう出なかった。
ステージスタッフの呼び声がかすかに聞こえる。
「神谷さーん! サウンドチェックの時間です!」
(逃げられねぇ……なら、最後まで見届けてやるよ)
鏡越しで見た蓮の目は、既に自分のものではなかった。
武道館の楽屋は、異様な静けさに包まれていた。
「あと10分で本番です。準備お願いしまーす!」
スタッフの声は届いていない。
蓮は鏡前に座り、ただ、虚空を見つめていた。
(誰も、いない)
控室に飾られた花束。差出人の札には「ご成功を祈っております」とある。
だが、その名前には見覚えがなかった。
(みんな……いなくなったんだ)
親友・聡、彼女・奈央、恩師、両親、店長、女子高生、おばあちゃん。
夢を肯定してくれた人たちは、誰一人残っていない。
それでも、ライブは行われる。
会場は満員だというのに、蓮の心には、底の抜けた空虚しかなかった。
(俺は何のためにここにいる?)
そんな思考すら、どうでもよくなるほど蓮の感情は擦り切れていた。
「神谷さん、ステージお願いします!」
スタッフがドアを開けた瞬間、
冷たい風が、楽屋に吹き込んだ。
(行くしかねぇんだよな)
足が重い。
けれど、舞台袖へと導かれるように歩みを進める。
スポットライトが、鋭く肌を焼いた。
(この光の先に何がいる?)
MCが観客席に声を投げかける。
「お待たせしました、本日のスペシャルアーティスト神谷蓮!」
拍手が起きるはずだった。
だが、蓮がステージに一歩踏み出した瞬間、
その足は凍りついた。
(嘘だろ...)
客席最前列には、聡がいた。
その隣には奈央。恩師が、両親が、店長が、女子高生が、おばあちゃんが。
彼らは無表情で、ただステージを見上げていた。
(やめろ、やめてくれ)
叫び出したかった。
逃げ出したかった。
だが、体は言うことを聞かない。
歓声も、拍手もない。
観客席を埋め尽くしているのは、曲を聞いた人たちだった。
耳元で、死神の声が囁く。
「おめでとうございます。これが夢の果てですよ、神谷さん」
蓮は静かに震えている
照明が一瞬落ちる。
闇の中で、ぽつりと一つだけ拍手が響いた。
「さぁ、夢を叶えましょう。契約は、完了です」
蓮は、崩れ落ちるように膝をついた。
ステージの上で、ただ一人生きていた人間
舞台照明が無慈悲に主役を照らす。
だが、そこに生の熱気はなかった。
静まり返った武道館。
無数の目が、冷たく蓮を見つめている。
(俺は……)
声が出ない。喉が焼けつくように乾いているのに、マイクは目の前にあった。
その瞬間、耳元で死神が囁いた。
「さあ、あなたの夢を歌ってください。
その声が、世界の終わりを告げる鐘となります」
蓮の手が、マイクを握る。
意思ではなく、契約に突き動かされるように。
(やめろ……やめろ……やめろ……!)
心の中で叫ぶたびに、口元が勝手に動いていく。
一音。
二音。
歌が始まった瞬間、観客席の死者たちが微笑んだ。
それはまるで「ようやく叶ったね」と告げるかのような、慈悲にも似た嘲笑だった。
蓮の歌声が、武道館を満たしていく。
だが、それは歓声でも祝福でもなかった。
悲しみでも憎しみでもない
ただ、すべてが終わるための鎮魂歌だった。
蓮の視界が歪み始める。
目の前の死者たちは、徐々に色を失い、音と共に溶けていく。
その中で、死神だけが静かに語った。
「夢の代償に見合う結末、でしょう?」
ステージが崩れ落ちる寸前、蓮はかすかに微笑んだ。
それは、絶望でも諦めでもない、ただ一つの理解だった。
俺が殺したんだ。
歌い終わった瞬間、世界は音を失い、暗転した。
「素晴らしい。これだけの命を燃やし、夢を叶えた契約者は、あなたが初めてです。
私の役目すら、一瞬忘れかけましたよ。」
パチ、パチ、パチ
彼をねぎらうような乾いた拍手が、ステージに響いた。
その音が、蓮をさらに追い詰めていく。
褒められているのに、心が削られていく。
その拍手は、称賛ではなかった。
「さて。次の契約者が控えてますので、失礼します。
神谷さん、素敵な夢をありがとうございました。」
死神は、ふと立ち止まり、うっすらと笑った。
「ああ失礼、もう聞こえていませんね。」
静かに背を向け、舞台袖の闇へと歩いていく。
その足音すら、音を立てない。
まるで最初から存在していなかったかのように、黒い影は飲み込まれて消えた。
ステージには、蓮一人だけが取り残されていた。
スポットライトの熱が、冷たく背中を焼き付けている。
拍手も歓声もない武道館。
ただ、無数の無表情な観客たちが、じっと蓮を見つめていた。
「終わらない……」
声にならない声が、空気に溶けていき蓮も次第に動かなくなっていった。
薄暗い部屋の隅で、少女は古びた手帳を閉じた。
ページの重みと過去の契約の記録が静かに心を揺らす。
「ふうん、他にはどんな話があるのかしら」
彼女の声には冷静な好奇心が混ざっていた。
だが、その目はどこか遠くを見つめている。
「夢を叶えるために、どれだけの代償を払ってきたのか。
次は誰が、この連鎖に飲まれるのかしら」
少女は手帳を再度開き、パラパラと次の話を探し出した。
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