第3話「神谷蓮の契約書③」
休憩時間中コンビニを出て、蓮は伸びをしながらスマホを取り出した。
「あ、やべ。バイト辞めるって言いそびれた」
画面を見ると曲の再生数はすでに150万を超えていた。
「辞めます」って一言LINEすればいい話だけど、まあ、ちゃんと顔見て言っといた方がいいか今後のイメージのためにもな」
そう呟いてコンビニに戻る。
自動ドアが開くと、冷気と共に妙な静けさが蓮を包んだ。
(あれ? さっきより店内、暗くないか……?)
夜勤の時間帯といえど、店内照明がここまで落ちていたことは記憶にない。
それにBGMが、流れていない。
(あの有線、止まってんのか?)
「店長? ちょっといいっすか、言い忘れたことがあって……」
バックヤードを覗くと、店長がいた。
だがその姿に、蓮は小さく息を飲んだ。
店長は静かに、パソコンの前で何かをブツブツと呟いている。
それはまるで、聞き取れない言語だった。日本語でも英語でもない、異様に湿った響き。
「……店長?」
声をかけても、反応がない。
一歩近づく。
すると、店長がようやく振り返った。
がそこにいたのは、明らかに店長ではなかった。
顔は同じだ。だが、目の奥が、異様に深く黒い。
瞳孔が広がっており、光をまったく反射していない。
それなのに、口元だけが笑っていた。
「おかえり、神谷くん」
その声は、確かに店長の声だったが、音の奥に別の何かの声が混ざっていた。
低く、湿った、何層にも折り重なった囁きのような雲った声。
あの契約書を見せてきた男の声に似ていた。
「や、やっぱなんでもないっす。失礼しました。」
蓮は逃げるようにカウンターに戻った。
背後から、何かが見ている気配を背中に感じながら。
(……なんだったんだ、あれ。疲れてんのか、俺)
夜勤が終わり再びあの路地に通りかかる。
通り過ぎたとき、あの男、黒いスーツを着た人は、いなかった。
だが確かに、耳の奥に残っていた。
店長ではない何か異質な者の言葉が。
「対価は、すでにいただいてますよ。神谷さん」
異変は唐突に起きた
最初に消えたのは、小学校時代の親友・聡。
無邪気に「ロックで天下獲ろうぜ!」と語っていた男。
蓮が音楽に夢を持ち始めた頃の原点だ。
連絡は途絶えていたが、数日前、SNSのDMに
「お前、バズってんじゃん!俺の誇りだわ!」とあった。
返事をする前に、訃報が届いた。交通事故だった。
後日、蓮は、半信半疑のまま葬式に足を運んだ。
黒いスーツ姿の人々が並ぶ中、会場の片隅に立ち尽くしていた。
祭壇には、やけに若い顔の遺影。
少しやせた頬の笑顔は、昔の記憶と重ならないほど、大人びていた。
聡の母親が、目を赤く腫らして蓮に気づき、声をかけた。
「神谷くん、来てくれたのね。あの子、あんたのこと、すごく自慢してたのよ。……あの子ったら、亡くなる前の晩までずっと、「お前が俺の夢を叶えてくれた」って、嬉しそうに言っててね。神谷君の曲を嬉しそうに聞かせてくれたのよ」
「そう、だったんですか...」
頭を下げながら、蓮の手は震えていた。
自慢?夢?俺が叶えた?
違う、何かが違う。
読経が始まり、焼香の列に並ぶ。
周囲のざわめきが、異様に遠く感じた。
祭壇の花の香りすら、どこか薄く、嘘のようだった。
視線を感じて顔を上げると、遺影の中の聡が微笑んでいた。
その笑みが、ほんの一瞬—蓮を責めているように見えた。
焼香を終えた蓮は、手を合わせることすら忘れてその場を後にした。
外に出ると、青空が妙にまぶしかった。
(……俺のせい、じゃないよな?)
心に刺さる問いを、何度も何度も頭の中で否定しながら。
蓮は葬儀場を振り返るとスーツを着た聡の知り合いたちが路地裏の男を想起し、
吐き気がした。
聡が亡くなって3日後、高校時代の元恋人・奈央。
美術部で、いつも蓮の曲に耳を傾けてくれた、静かな支えだった。
「あんたの音楽、きっと世に出るよ」と笑ってくれた最後の記憶。
突然の急性心筋梗塞。25歳で、眠るように亡くなっていた。
酒も煙草もやらなかった。健康そのものだったはずの彼女が、ぽっきりと折れたように、もういない。
葬儀の日時が記されたLINEを、何度も開いては閉じた。
スマホ画面の通知が震えるたび、心臓が締めつけられる。
けれどどうしても、行けなかった。
黒い服に袖を通すだけで、頭痛がした。
鏡の中の自分の顔が、ひどく薄っぺらく見えた。
「なんで…なんでこんなことになるんだよ!」
蓮は部屋の壁に拳をぶつけた。
机の上に置かれたスマホは、今も絶えず通知を鳴らしている。
コメント欄には、「マジで曲最高」「もっと売れてほしい」「次のライブ行きます」と賞賛の声が溢れていた。
震えて操作がおぼつかない指で奈央の名前を検索する。
彼女のSNSには、最後の投稿に友人たちの「信じられない」「大好きだった」の言葉が並んでいた。
だが、そこに蓮の言葉はなかった。
葬式帰りの親戚からのLINEで、蓮はそれを知った。
恩師・杉山先生が亡くなった。
末期癌だったという。
蓮が音楽という道を初めて人生と呼べたのは、先生の一言があったからだ。
「君の音には、嘘がない。プロになれるぞ」
それ以来、何度も先生に音源を送っていた。
返信はいつも簡潔だったけれど、そこには必ず肯定があった。
だが、最後に送ったのは例のバズった曲だった。
先生からの既読後返信が無かった。
そのまま、訃報だけが届いた。
(え?、え? 何? また、かよ?)
最初に死んだのは聡だった。
次に、奈央。
でも、まさか、杉山先生まで?
(あれは……あの曲のせいなのか? 俺が、あの契約をしたから?)
部屋の隅で、蓮はうずくまる。
いつの間にか流れていた自作の曲が、耳に触れるたびに脳を刺す。
(違う、違う、違う。偶然だ。全部、偶然だろ……?)
けれど脳裏に浮かぶ。
あの店長ではなかった不気味な声。
「対価は、すでにいただいてますよ。神谷さん」
思い出すたびに、胃がねじれる。
壁にかけられた恩師との写真。ぎこちない笑顔。
それが、崩れ去るように見えた。
「ふざけんなよ……っ!!」
蓮は額を壁に打ちつけた。何度も、何度も。
指先から血が滲むまで、ギターの弦をむしるように、カーペットを裂いた。
スマホが震える。通知が鳴る。
サマーライブ決定
インタビュー依頼
あなたの曲、聞かせてください
武道館にてお待ちしております
夢はすぐに叶います
夢はすぐに叶います
夢はすぐに叶います
夢はすぐに叶います
夢はすぐに叶います
夢はすぐに叶います
夢はすぐに叶います
夢はすぐに叶います
その文字がもう、呪いの札のように感じられた。