プロローグ
突然の豪雨により、京阪自動車道の一部区間が一時通行止めとなり、私たちはやむを得ず、別のルートを通って帰ることになった。三月も半ばだというのに、これほどの激しい雨が降るのは珍しい。すでに夕暮れ時で、視界は濃い霧と雨に覆われてどんどん悪くなっていく。どうやら今日はもう、自宅に戻るのは無理そうだ。
「どこか道ばたにでも泊まれる場所を探した方がよさそうだな」と提案したのは、慎太郎だった。航平も「この路面じゃ、無理して走れば事故になる」とすぐに同意した。
慎太郎とは同じ町の出身で、本名は黒田慎太郎。色黒で体格が大きく、まるで魚の怪物のような見た目から、学生時代から「ナマズ」と呼ばれている。航平——佐伯航平は九州出身で、几帳面で話術に長けた人物だ。三人で二年前、小さな漢方薬材の卸会社を立ち上げ、誠実な経営と人脈に支えられ、順調に事業を拡大していた。この日も商談を終えて帰る途中だったが、予想外の豪雨に見舞われ、どうにもならず、どこかで一晩を明かすことに決めた。
雨足はさらに強まり、方向感覚も失いかけていた。とにかく道なりに車を走らせていたところ、前方にぼんやりと灯りが見えた。近づくと、数軒の平屋が集まっているようだった。
「助かった」と誰かが呟いた。車を停めて外に出ると、大きな木製の門の前に古びた看板が掲げられていた——
「慈和堂薬舗」
慎太郎が嬉しそうに笑う。「お、薬屋じゃないか。俺たちも同業だし、きっと泊めてくれるさ。」
航平が門を叩くと、中から返事があって扉が開いた。現れたのは、老人とその孫らしき小さな男の子だった。航平が事情を説明し、「一晩だけ泊めていただけませんか」と丁寧に頭を下げた。
老人は私たちを客間に通し、自己紹介した。「**陳原**と申します。この悪天候では仕方ありません。よろしければ、今夜はこちらでお過ごしください。ただ、私と孫の二人暮らしでして、客間以外に寝室はありません。申し訳ないのですが、そちらでお休みいただく形になります。」
この状況で雨風をしのげる屋根の下に入れるだけでも十分だった。私は丁寧に頭を下げた。
「お気遣いありがとうございます。寝具などは不要です。お湯を一壺いただけるだけで、本当に助かります。」
陳原さんは茶を淹れてくれ、私たちを客間に残し、自分たちは奥の部屋に引っ込んだ。
薬舗の前の部屋には、びっしりと並ぶ薬棚があり、客間はその奥。広くはないが、欅の家具と落ち着いた調度品が整い、どこか趣があった。私たちは木の肘掛椅子に腰を下ろし、湯呑に注がれたお茶をすすりながら、雑談を始めた。
慎太郎が話し出したのは、つい先日のニュースだった。アメリカ軍のアパッチヘリが、中東で農民に撃墜されたという話題だ。
「民間人でも根性があれば、あんな怪物みたいな兵器も倒せるもんだな。やっぱり人民の力は侮れない」と彼は興奮気味に語る。
だが航平は冷静にこう返した。
「アパッチの火力ってのは、途上国の戦車旅団まるごとに匹敵する。けど、ああいう高性能兵器って、保守点検ひとつ怠るだけで致命的な事故になる。たまたま運が悪かっただけだろ。別に農民がすごかったって話じゃない。」
そこから議論は白熱したが、結局どちらの言い分が正しいかは決まらなかった。やがて航平が言った。
「じゃあさ、ちょっと昔の奇妙な事件を話してやろうか? かなりゾッとするやつ。」
私は釘を刺した。
「どうせ作り話だろ? ここには女の子もいないし、ナマズ(慎太郎)と俺の二人が、幽霊話でビビるとでも思ってるのか?」
慎太郎も笑いながら言った。
「だよな。それより色っぽい話でもしてくれよ。そっちのほうが楽しい。」
「いやいや、これは実際に古い記録に残ってた話だ。真偽のほどはともかく、めちゃくちゃ不思議で面白い。眠れない夜にはちょうどいいだろ?」
「じゃあ、とりあえず聞いてやるよ」と私は言った。「最近のホラーなんて、怖がらせるばかりで中身がない。テレビから女が這い出してくるとか、ベッドの下から手が伸びてくるとか、まんじゅうの中から人の指が出てくるとか、くだらなさすぎて飽き飽きしてるんだ。怖がらせたいだけの話ならパスだけど、不思議な話なら聞いてみてもいい。」
航平は煙草に火をつけ、私たちの湯呑に茶を注ぎ足し、静かに数口吸った。しばらく考えてから、口を開いた——