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「ハニーバター・アボカドアイスクリーム」 - 濃尾

作者: 濃尾

「ハニーバター・アボカドアイスクリーム」 - 濃尾













私は酷い頭痛と胃のむかつきを感じながらゆっくりと覚醒した。






いつの間にか寝ていたようだ。




飲み過ぎで記憶は無いが、此処は私のマンションの部屋だ。




無事帰れている。






そして最悪な現実を思い出す。




「くそっ…。」






此処は「私のマンション」ではない。




「私たちのマンション」だ。




「景子…。」




私は婚約者の名を呟いた。









私の名は今野清志。




35歳、男性。




婚約者の名は栗木景子。




28歳、女性。






景子とは3年前に職場の同期の紹介で知り合った。




私の職業は大手工作機械メーカーの研究開発。




景子は大手アルコール飲料メーカーの研究開発。






私の職場近くの喫茶店で勤務後三人で初めて顔を合した時、何て奇麗な人だ、と素直に思った。




そして私には不相応だな、とも想った。




私は自分の容姿にはあまり自信が無い。




暫く話をしていたら、奇麗なのは外見だけではないと思うようになった。




それに私より賢い。




同僚は一時間ほどで退席した。




それからも二人でお互いの事を話し合い、そして私は思った。






「この人をもっと知りたい。」






私は勇気を出して言った。




「あの、良かったら、これからお酒を飲みませんか?景子さんの行きつけの店とかありませんか?貴方のお仕事なら多分、私よりそういう方面はお詳しいでしょう?」






景子は私をじっと見た。




不自然なくらい、真剣に、長い時間。






私が無理にとは思っていません、とか、何とか言おうとした瞬間、景子は微笑みながら言った。




「ええ、そうですね!清志さんはどんな食べ物が今、食べたいですか?」






私はかなりホッとしながら、その質問について考えた。




「和食が好きです。飲むときは居酒屋によく行きます。大抵、日本酒ですね。」




「それなら、清志さん一押しの居酒屋に連れてってください!」






私は狼狽した。




アルコール飲料のプロのお眼鏡に適う、デートで行くような店を私は知っているか?




その動揺を素早く見抜いた景子は更に華やかに微笑みながら言った。




「清志さんの行きつけの店で構いませんよ?私は清志さんの好きな店が見てみたいんです。」






じゃあ、「さぶらふ」しか私には選択肢が無い。




私は少し笑いながら言った。




「じゃあ、そうします。少し不安ですが。」




私は「さぶらふ」に電話して今、店はすいているか聞いてから、念のために席の予約を頼んだ。




「何だい?キヨちゃん、大事なお客さんかい?」




大将が面白げに聞いてくる。




「さぶらふ」で予約などしたことが無かった。




「ああ、そうだ。かなり大事なお客だ。頼むよ。政さん。」




私は真剣に答えた。




「よし、任された!じゃ、後で!」




大将は楽しそうに電話を切った。






「OKです。此処から歩いて15分ぐらいです。」




私は言った。




「清志さん行きつけの店なんですね?」




「はい。私の上司に連れらてからずっと。私はここいら辺りではかなり旨くて安い店だと思っています。」




「すぐ行きましょう!」




彼女は先に席を立った。






その立ち振る舞いに見とれている私は後を追った。









「さぶらふ」の玄関先で景子は立ち止まり店構えを見渡した。






大通りから人通りの少ない横道に少し入った店。




看板には明かりが灯り、居酒屋にしては小奇麗な玄関先を照らしている。






「「さぶらふ」。うん。良い店ですね。」




彼女は看板を見上げながら嬉しそうにはっきり言った。




「玄関で店の良し悪しが判りますか?」




私は素直に聞いた。




「はい。ある程度は判ります。あくまで可能性がですが。でも的中率には自信があります。」




「どういった所を診ているんです?」




「ふふ。企業秘密ですが、清志さんには教えます。…中で…。」






ああ、と私は彼女を先にして店に入った。






それから私たちは交際を始め、やがて同棲生活を始め、




初めて会った時から二年後、私は景子にプロポーズした。






「もう!清志、遅いわ!…でも嬉しい…。有難う。幸せにしてあげる!」




それを聞いた私はまさに「有頂天」という言葉が相応しい心地だった。









婚約から4日後、景子はなんらの兆候もなく出勤後、帰宅しなかった。






そして、失踪して2週間。




最初は行方不明者届を警察に届け、心当たりを自ら当たったが、今や手がかりも無く、私の生活はやや荒れ始めた。






そんな朝、インターホンが鳴った。




もしかして?、と慌ててカメラの画像を見ると、コンシェルジュが私宛の差出人不明の小包が郵送されてきた、と告げた。






差出人不明?




私はすぐに荷物を受け取った。




外装箱を取り去ると、中から赤と緑のギンガムチェックの用紙でラッピングされ、赤いペーパーワイヤで結んである小箱が現われた。






ドクン。






私の心臓はその瞬間、拍動のリズムに変調をきたした。






「まさか…。」




恐る恐る小箱を開けた。




小箱の中からは景子の婚約指輪が現われた。




中心から両断されていた。






手紙が付いていた。




私はその手紙を震える手で読み終えた。






脈拍が異常に速い。




私は時計を見た。




そして再び指輪を見た。




ルーペで観察した。




シルバーの指輪の切断面は磨かれたように輝いていた。




指輪の切断個所を合わせてみると、切断によって出来るであろう欠損は何もなかった。




今度は顕微鏡で確認すると凄まじい精巧さで切られている事が確認できた。




切断面は奇麗な直線で半分に切断されているように一見見えたが、子細に見ると僅かな湾曲が見られた。








私は警察に届けず、この小箱の送り主を探るため暫くPCで調べた後、すぐ家を出た。









私は2年前は、大学の物性化学の研究所に所属していた。




その頃、私は金属材料のベアリング用途材料の物性を研究していた。




隣の研究室にナノワイヤの物性を研究している同僚がいた。




同僚の名は岡崎アンヌ。




私と同じ歳の女性だった。




ラボの噂ではナノワイヤの強度を高くする研究に没頭してるそうだ。




余り社交的ではない、とも聞いていた。




しかし、彼女と頻繁に廊下ですれ違ううちに挨拶ぐらいはした。






或る日の昼休み、食堂で独り昼飯を食べていたら、少し離れた席で彼女がやはり独りで食事をしているのに気づいた。




遅い時間の研究所の食堂には他に誰も居ない。




そして、よく見ると彼女は食べていない。




何かを箸で摘まんで格闘している。




食器を下げる道すがら彼女の席の傍を通る形をとった。




彼女は盛り蕎麦の麺を両手に二本づつ箸を持って幾重にも結び目を作っていた。




ざっと30は結び目があった。




「ほう!大変器用なんですね!」




私は本当に驚いて言った。




この食堂の麺類はどうした問題があるのか、全て何時も伸びきっている。




彼女はビクッと身体をすくめて私の顔を見上げた。




「あ、ゴメン、驚かせちゃいましたね?」




「いいえ…。」




彼女は俯いて低い声で言った。




「でもホントにすごいなあ、コレは実験の練習か何かですか?」




「…いいえ。…私、紐が好きなんです…。」




「ほう?ああ、岡崎さん、ナノワイヤの研究者だものね、そういう事ですか?」




「…そうかもしれません。」




彼女の表情が少しだけ柔らかくなった。




「これをラボの皆に見せたら間違いなく拍手喝采ですよ。」




「そんな事はしません!」




と言いながらも彼女は私に視線を向けてはにかんだ。








それからは私は彼女と出会うと少しだけ挨拶以上の私語を交わす仲になった。




お互いの研究の進展などを聞いた。






或る時、またラボの食堂で彼女と二人きりになった。




私はざる蕎麦を食べてから、彼女に近づいた。




彼女は真剣な様子でアイスクリームを掬っていた。




「今日は暑いね、私もそれでも良かったかもな?」




「あ、今野さん、ええ、暑いですね。」




彼女は私の顔を見ると、またすぐアイスクリームに視線を移した。




そして、アイスクリームを食べる前に何やら満足して、それからアイスクリームを口に運んだ。




「ああ…。」




うっとりとした声。




「そんなに美味しいのかい?」




「ええ、此処で出すアイスクリームの中で、一番美味しいです。」




「ふーん。どんなアイスクリーム?」




「ハニーバター・アボカドアイスクリーム、です。」




「え?」




「「ハニーバター・アボカドアイスクリーム」。でも、それだけじゃないんです。今野さん、「アイスクリームスプーン」はご存じですよね?」




「あ?ああ、あのアルミで出来た奴かい?」




「はい。でも、此処のスプーンは只のアイスクリームスプーンじゃないんです。このラボ特製の試作品です。」




「ほう?」




「アルミ合金ですが熱伝導率が純銅程もあり、剛性は鋼材並みです!」




「へえっ!何処が!?」




「先島先生です。」




「コレは試さねば!でもそんな事、月報に載っていたっけ?」




「今はこの食堂を含めて4つしかありません。この食堂に2本あります。」




「へえ!じゃ、私も!」




「あ、それとアイスは「ハニーバター・アボカドアイスクリーム」で。」




「はいはい。」




私は食券を買ってカップに盛ったアイスを貰うと彼女の対面に座った。




彼女がじっと見つめている。




「ハニーバター・アボカドアイスクリーム」はごく薄い緑のアイスだった。




私はそのスプーンに触った。




うん、冷たい。




そしてアイスを掬う。






『アイスを「掬う」』と言ったが、その表現では多分、正確に伝わらないだろう。




アイスクリームに触れたスプーンは僅かな抵抗だけで貫入した。






「わっ…。」




私は驚いた。




「ふふっ。」




彼女が微笑む。




「凄いな。いくらで造れるのかな?」




「さあ?でも、早く食べてください。」




「うん。」




私は「ハニーバター・アボカドアイスクリーム」を口に入れた。






バターの芳醇な香しさ、その後を追って蜂蜜とアボカドの濃厚な風味。




「うーん…。」




私は眼を閉じていた。




「正解ですか?」




「定義が不明ですけど、正解です!」




「良かった!」




彼女が破顔した。




「…私が本当に創りたいのはこんな風にどんな物でもナノレベルで切断出来るナノワイヤなんです…。…いつかきっと創ります。」




彼女は微笑みながら私を見つめた。






その時、この人がこんな表情をするのか、と私は少し驚いた。




美しい貌だった。








それから1年後のクリスマスに彼女からプレゼントを渡された。




プレゼントの入った小箱は赤と緑のギンガムチェックの用紙でラッピングされ、赤いペーパーワイヤで結んであった。




彼女は同僚たちの噂の通り、やはり余り社交的ではなく、他の同僚と私語を交わす事も稀だった。




私もこんな事を彼女にされたのはこの研究室に来て初めてだった。






私はかなり驚きながら、お礼を言い、彼女へのプレゼントが無い詫びを言い、プレゼントを開けても良いか?と尋ねた。




彼女は黙って頷いた。




開ける。






中身はブリリアントカットのダイアモンドだった。




しかし、ダイアモンドは半分に切断され、それがペンダントに加工されていた。






「やっと出来ました。これは前から私の研究の成果が出たら造りたかった物。そして、もう半分は私が持っています。」と彼女ははにかみながら言った。






私はその表情を見て彼女が私に好意以上のものを抱いている事にはじめて気が付いた。






私は戸惑った。




何か誤解されるようなことを言ったか?と心の内を探ったが、心当たりは無かった。






気持ちは嬉しいが、私には恋人がいて済まないがこのプレゼントは受け取れない、と私はなるべく優しく言った。






途端に彼女の表情が暗くなった。




何か慰めの言葉を探したが、それより早く彼女は固い表情で「それ、返してください!」といってプレゼントをひったくると踵を返して夕闇迫るキャンパスを小走りに走り去った。








彼女はその後、再び研究室に二度と現われなかった。




連絡先も判らなくなった。









彼女の行方をまずは以前の研究室から調べ始めた。




その結果、どうやら現在、彼女は研究畑には居無いことが分かった。






小包には立川栄郵便局の消印があった。




私はすぐ近くの国内では有名な包装用紙メーカーの立川支店を訪れた。






「いらっしゃいませ!」




若い女性店員の声が響いた。




棚という棚、壁という壁はあらゆる色彩と模様の混沌だった。




「何をお探しですか?」




先ほどの店員が近づいてきて言った。




「済みませんが、ちょっとお願いしたい事があるのですが。」




「なんでしょう?」




「私の妹がこの前私にプレゼントをくれたんだ。私はそのラッピングがとても気に入ってね。今度のクリスマスには妹にも同じラッピングでプレゼントをしたいんだ。妹に知られないようにね。母に聴いたら昔よく妹は此処でラッピングしてもらってたそうなんだ。」




「それはどのような?」




「これだよ。」




私は家から持ってきた小箱と包装用紙とペーパーワイヤーを店員に見せた。




「あっ!この方なら私が接客いたしました!」




店員はその偶然に自分に幸運が舞い込んだように軽く興奮した。




「えっ?ホント?」




私も驚いた。一発目でビンゴだ。




「妹は良くヨーロッパルーツの人に間違われる。背の高い色白で髪色はマルーンなのだが?」




「間違いありません!凄く素敵な髪色の。」




「ああ、有難う!君がラッピングしてくれたんだね?」




「はい!」




「ところでお願いはもう一つあるんだ。」




「はあ…?」




「私と妹は父親が違ってね。今迄海外で暮らしていた母と妹とは疎遠だったんだよ。最近、母を私の家で引き取ったんだ。プレゼントが来たときはビックリしたよ。母宛じゃなくて私宛にね。」




「そうなのですか!宜しかったですね。」




「ところがウッカリ郵送の包装紙に貼られていた送り状を妻がゴミに出してしまってね。住所が判らない。」




「…お母さまが御存じなのでは?」




「母は昔の事はよく覚えているが、最近の事となるともうダメなんだ。母の私物から手掛かりを探したがお手上げなんだよ。」




「ああ、…左様でございますか。」




店員はすべて理解した様子で困惑していたが、やがて店の端末に触り、その端末からプリントされたレシート状の紙が吐き出された。




「どうぞ。」




店員は私を真剣な目で見つめながら言った。




「有難う!君の名は?」




「名乗るほどの事はしておりません。」




「クリスマス前に又来るよ!サンタさん。」




「有難うございました!」






人の善意を利用して法を犯させてしまった。




私は少し良心が痛んだが、嘘は口からペラペラと出た。




今は景子の事だけが最優先で手段を選んでいる余裕は無い。




住所は此処から歩いても20分と掛からない。






やはり簡単な謎解きなのだ。




何故そんな事をしたいのかは解からないが。









高い塀の中の森に囲まれた古いが大きな屋敷が住所だった。




相当な資産価値がある。




私は時計を見た。




16時。




家を出てから1時間30分掛かった。




間に合ったのか?






ドアホンを押す。




「はい?」




ドアホンから女性の声がした。




彼女か?




「今野清志といいます。」




「お待ちしておりました。玄関すぐ右横の扉にお進みください。錠はすべて開いております。」




「景子の声を聞かせろ!」




「もうすぐ聞けます。それでは。」




通話が切断された音がした。






私は大きな門扉を開け道伝いに玄関へと向かった。




玄関ホールに入ると直ぐ右横の扉を開けた。




応接間?




家具調度品は何も置いていないその部屋の一番奥の壁際の椅子に縛りつけられ猿轡をされた景子とその後ろに薄く笑う彼女が目に飛び込んできた。






彼女だ。岡崎アンヌだ。




ウエディングドレスを着ている。






彼女の両腕が景子の頭を挟んで前に差し出されている。






何も手には持っていない様に見えるその光景に私の背筋は凍り付いた。






ナノワイヤだ。




「景子ぉっ!」




私は絶叫した。









「約束通りですね。17時までに貴方だけがこの場所へたどり着く事。」




「景子を放してくれ!お願いだ!何でもする。」




「じゃあ私を愛して。」




「分かった。」




「安請け合いをすると殺すわよ?景子さんを。」




「どうしたらいいんだ!?」




「貴方は何もしなくていいわ。景子さんはどっちみち私が殺すの。貴方の目の前で。後、そこから一歩も動かないで。私のナノワイヤが私と貴方の前に張り巡らされているわ。」




「私を殺してくれ!」




「そんな言葉、一番聞きたくないわ。馬鹿ね。」




岡崎の前に差し出された両腕が少し引かれた。




景子の前髪が一直線に切断されて景子の膝に音も無く落ちた。




「やめろぉっ!」




私は少し前に出た。




「それ以上前に動かないで!」




岡崎の手に力が入る。




岡崎の手はウエディングドレスのレースの長い白手袋の上から黒い手袋を付けていた。




「じゃあ、さよならを言いなさい。景子さん。」




岡崎の手が動いた。




「グァーッ!!」




私は声にならない叫びをあげた。




「馬鹿ね。彼女の猿轡を切っただけよ。景子さん、喋れるわよ。別れの言葉を言いなさい。」




猿轡が良く磨かれた床に落ちる音がした。




「清志、逃げて。」




景子の目は真剣だった。




落ち着いている。




「景子ぉッ!」




「ハイ。これでオシマイね?それじゃ…」






私を見詰める岡崎の目が強く輝いた時、私は跳躍した。




そして次の瞬間には岡崎の両手首を掴んでいた。




「ナンッで?」岡崎が喘いだ。






私は次第に景子の額前にある岡崎の両手を上に持ち上げ、後ろに、奥に、壁のほうに、岡崎のほうに押し付けた。




しかし、岡崎は意外な膂力を持っていた。




私に掴まれた腕を再び押し戻し始めた。




「フッ!」




私は軽く息を吐き一瞬で岡崎の下顎から頭頂部まで岡崎の手を摺り上げた。








岡崎の顔面が床に落ちた。








驚いたような表情だった。






ほんの暫くして岡崎の手から次第に力が抜けた。




岡崎の身体が崩れ落ちても私は岡崎の手首を放さなかった。






「清志?清志ッ!」




景子の声で我に返った私はようやく余裕をもって事態を把握した。






「景子、ケガは無いか? …ならいい。決して後ろを向くな。それから私が居たほうへも近寄るな。要するに縄が解けても暫くそこでじっと座っていてくれ。いいな?」




景子は頷いた。




縛めを解き、ナイフを放り出し、私は壁にもたれ、血みどろの床にくずおれた。




「清志、大丈夫なの?」




景子が前を見たまま尋ねた。




「ああ、大丈夫なようだ。心配ない。」




それだけ言って本当に大丈夫なのか身体を点検した。




岡崎の言っていた張り巡らしたナノワイヤは嘘じゃなかった。






左右の壁に微かに画鋲のピン先のような異物が在る事に気がつき、それは天所から床まで水平に30数cm等間隔で並んでいたのだ。






私は学生時、走り高跳びの選手だった。




ベリーロールを試したのは久しぶりだ。






携帯で警察に事情を話し、所轄署から解放されたのは翌日だった。




景子も入院させられた。






命には別条ないが衰弱しているそうだ。




警察からそのまますぐ見舞いに行って今回のいきさつを景子に話そうとすると、景子は岡崎から事情を話されたという。






聞いてみると、私の「事実」と齟齬はたいして無かった。




私は黙り込んだ。






景子は私を見つめて「清志、大丈夫?」と聞いた。




「ああ、景子こそ大丈夫か?本当に済まなかった。」




私は詫びた。




「ううん、平気。…でも岡崎さんは…。」




景子は俯いてそこで言葉を切った。




私はやり切れない気持ちになった。






病室を出て、家へ帰った。




ベッドに座りジャックダニエルをラッパ飲みして大きなため息をついた。






それから考えた。




当時の私に何か岡崎の為に出来る事が在ったのだろうか?






いや、無い。と、私は思った。




多分、岡崎にも出来る事はあれだけだったのだろう。






しかし、もうそれはどうでも良いのだ。






私は両手を見つめた。




手に残ったあの感触。






良く熟したアボカドをスライスするような。






昨晩警察署で見た夢の中のあの感覚。






これは果たして消えてくれるのだろうか?












           完

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