初恋の後遺症
評価、いいねにブックマークをくださった皆様、ありがとうございます。
他の方の短編などを拝読していて、15000字程なら短編にした方が良いかと思い、連載の方は取り下げました。申し訳ありません。
こちらもよろしくお願いします。
眼の前の窓から、遠くに男女の逢瀬を見下ろしつつエイドリアン・ガーネット子爵令息は深くため息を吐いた。
青春かよ、いい気なもんだ、と全く負け惜しみのない心持ちでもってつぶやいた。
学園の中庭の隅で、本人たちは隠れているつもりでも、二階の窓からは隠しようもないくらいに目立っている二人の内一人は、エイドリアンの幼馴染で婚約者のポージー・コープランド男爵令嬢だった。
エイドリアンとポージーは互いの領地が隣り合っていて、小さい頃からほぼ一緒に育ったと言っても良いくらいの仲だった。ポージーは、コープランド男爵の流行り病で亡くなった弟夫妻の遺した一人娘で、男爵夫妻が不憫に思い引き取って自分たちの息子と共に育てていた。
小さい領地の経営を互いに助力し合って、忙しくしていたエイドリアンの両親と男爵夫妻に、構ってもらえなかった両家の子どもたちはやんちゃに遊び回り、領民の子どもたちと一緒に育った。
エイドリアンは、子どもとは思えないくらいに良識があったので、専ら子どもたちのストッパーとして存在していた。
エイドリアンの兄とポージーの義兄が、領地の小麦畑を牛に乗って走り回った日の悪夢をエイドリアンは頭の片隅にも置いておきたくはなかった。思い出したくないのに、忘れられない思い出だった。
ポージーと一緒に軽食を摂っているのは、ダーネル・ネルソン公爵令息。金髪碧眼の文武両道に秀でた貴公子だった。だった、と過去形なのは、ポージーと行動をともにすることが多くなったせいで、彼の成績と令嬢たちからの人気がぐんと下降したからだった。
ネルソン卿には、高位貴族のご多分に漏れず幼い頃からの婚約者、チェリリアーナ・マードック侯爵令嬢がいた。美しい銀髪の儚げな容姿で、学園でも下の学年の令嬢たちから憧れの存在とされていた。
たいして成績が良いわけでもないポージーとネルソン卿が知り合うことなど起こり得ないはずだったが、そのきっかけとなったのが、エイドリアンだった。
学園、正式名称、王立リパルティール学園は広く門戸の開かれた学校で、専修科と貴族科に分かれている。貴族科はその名の通り、貴族が将来領地経営などを行うために必要な学問を修める学科だった。
専修科の方は、貴族科から更に専門的な知識を必要とする学科で、こちらは成績次第で平民から貴族まで様々な階級に開かれていた。つまりは国の精鋭たちの育成機関だ。
子どもの頃から真面目にコツコツと勉強していたエイドリアンは、その専修科に入り、最初の定期試験で首席を取った。その為、生徒会の役員として勧誘を受けたのだった。
そしてその生徒会に会長として君臨していたのが、ネルソン卿だ。それからの経緯は、大体想像の通り。
目新しさ(山出しの庶民女、と言っても良いのではないか?とエイドリアンは考えている)がネルソン卿に受け入れられて、今に至っている。
陳腐な小説の展開みたいだな、とエイドリアンは思った。自身は、ポージーとの婚約などいつ解消となっても構わないし、なんら困ることはない。
元々自分の希望でも何でもない、ポージーの将来を心配した親同士の話し合いで決まった事だ。でも公爵令息と侯爵令嬢となると、それは大問題となるだろう。
コの字型の教室棟に囲まれた中庭を、二階の窓から見下ろしていたエイドリアンは、自分と向かい合う棟の窓から、同じように二人を見下ろしている影に気付いた。
向かいの窓辺に立っていたチェリリアーナ・マードック侯爵令嬢は、目を上げてまっすぐにエイドリアンを見た。エイドリアンは黙って目礼をするに留めたが、かの令嬢の顔からは感情が窺えなかった。
チェリリアーナ・マードックは、眼下に自分の婚約者が他の女性と近すぎる距離で話しているのを、眺めていた。幼い時分にまとまった婚約は、互いに好意を持たせ、仄かな恋情が芽吹く程度に順調だったが、それも数ヶ月前までのことだった。
ダーネルが今年の成績優秀生を生徒会に勧誘し、その成績優秀者にくっついてきた厚かましい女子生徒との仲を噂されるようになると、何度か二人の距離の近さを注意した。
「生徒会とは何の関係もない女生徒に、生徒会室の出入りをさせるのはどうかと思いますわ」チェリリアーナが言うと、その女生徒の知り合いであった成績優秀者のエイドリアン・ガーネットは申し訳無さそうに頭を下げた。
「彼女は書類整理などの雑用をしてくれているんだ、無関係ということもないだろう」ダーネルは鷹揚に笑って、チェリリアーナを相手にしなかった。
「最近あの女生徒と下町に出かけられたと聞きましたが、それは男女の距離としてよろしくないのでは?」とチェリリアーナが言うと「護衛もいることだし、全くの二人ではないよ。それに下町をよく知る者に案内してもらっただけだよ」との答え。
「なぜ女性でなくてはならないのですか?同じ立場ならガーネット子爵令息でも宜しかったのでは?」重ねて言うチェリリアーナにダーネルは「チェリル」と愛称で呼びかけた
「なぜいつまでも女生徒などと呼ぶんだ、ポージーと名前で呼ばないなんて、つまらない嫉妬でもしているのか。チェリルらしくもない」
チェリリアーナは一瞬にして冷めた。彼に対しての淡く持っていた気持ちが、きれいに霧のように砕けて散ってしまったのを感じた。
「あの方は生徒会室に出入りされるようになって、長く経ちますが、正式にご挨拶されたこともどなたかに紹介されたこともございません。お名前を知らないのですから、呼べないのは当然でございましょう?」
チェリリアーナが冷静に伝えるのに、ダーネルは慌てて挨拶もされていないって?もうとっくに誰かが紹介していたと思ってたよ、近々私が紹介しようと言った。
そうやってチェリリアーナが彼の耳に痛いことを告げては、彼にいなされているうちに、彼女は彼を諦めた。
貴族同士の婚約者として一般的なことを注意しても、受け入れられないのだ。
愛し愛されることはなくても、結婚して次代を育てることは出来るだろう。チェリリアーナは決して明るいものにはならないだろう己の結婚に、夢を見るのを諦めたのだった。
かつては胸にかすかな痛みを覚えた光景であったが、最近は芝居の登場人物を見るようなものに変わっていった。笑うことも出来ない、不出来な喜劇を見るかのように。
ふと目を上げると、向かいの棟の窓にいたエイドリアン・ガーネット子爵令息と目が合った。彼は目を下げて会釈すると、そのまま踵を返した。
彼の目にはなにが映っていたのだろうか?
エイドリアンはその夜、このままだとポージーが不貞の原因となるだろう、と実家への手紙に書いて知らせた。自分たちの婚約は無かったことにするのが、良いだろうことも知らせた。
数日後、ポージーとエイドリアンに会いに実家から両家の両親が王都にやってくることになった。エイドリアンの説明に間違いはないだろうが、やはり事は重大なので直接話し合いたい、とのことだった。
「婚約の解消って、一体どういうことなの?」コープランド夫人が声を上げたのを皮切りに、エイドリアンとポージーへの質問が始まった。
エイドリアンとポージーの兄たちが共同で借りている王都のタウンハウスに、両家の全員が揃っていた。小さな一軒家ではあったが、今回の話し合いを人目につくところで出来るはずもなかった。
「婚約って誰の?」ポージーがコープランド夫人に聞いた。「あなたとエイドリアンの婚約よ」
「私の?私の婚約者って?エイドリアンは誰かと婚約してたの?」ポージーは、自分に婚約者がいることを知らなかったようだった。
「私とポージーとが婚約をしてたんだよ」エイドリアンがいつものように子どもに言い聞かせるが如く、ポージーに説明した。
「まあ、そんな事知らなかったわ、どうして教えてくださらなかったの?お義母様」
「言いましたとも!エイドリアンと結婚することになるけどいいわねって!」慌てたようにコープランド夫人が答えた。
「それであれほどネルソン卿と二人になるなと言っても、聞かなかったのか?どっちにしてもネルソン卿に婚約者がいるんだから、ポージーがしてる事は不貞だよ」
「ダーネル様に婚約者がいらっしゃるなんて聞いてないわ」
「いるんだよ、チェリリアーナ・マードック侯爵令嬢という立派な婚約者が」エイドリアンが再びポージーに言って聞かせた。
「ダーネル様は婚約者がいるなんておっしゃらなかったし、私といると楽しいって…」
ポージーに話したところで話が進まないので、エイドリアンは両家の両親に向かって学園でのポージーとネルソン卿の行状を説明した。
「もうそろそろマードック侯爵とネルソン公爵との間でも何らかの話し合いが行われると思う。コープランド男爵夫妻には申し訳ないんだけど、私は巻き込まれたくないんです。だから元々婚約をしていなかった、という事にして欲しいんです」
エイドリアンの話を聞いてガーネット子爵夫妻も、理解したようだった。
「そうだな、確かにエイドリアンの言う通り、解消しておいた方がお互いのためかもしれない」
「そんな、ポージーはどうなるんです?」
「ポージーはもう逃げようがないんだ。せめて、婚約者がいての不貞にならないようにしておいた方が良いんじゃないか?」
「…………」
「お義母様、私は不貞なんかしてませんわ」ポージーだけが、暢気に聞きかじった話に答えていた。
陽気で穏やかで従順で、少しばかり愚かな彼女は結婚相手次第で、不幸にも幸福にもなるだろうと、心配した義父母によって結ばれた婚約を全く理解していなかった。エイドリアンが相手なら、きっと辛い思いなどさせないだろうと、考えた末の婚約だったというのに。
コープランド男爵夫妻は、今後ポージーの人生がどんなものになることかと、ため息をついた。それでもなんとか少しでも良い方向に導いてやらねば、と、そして自分たちの領にも影響のないように、と考えなくてはならなかった。
「一番良いのはこのまま退学することではないでしょうか?」ポージーの義兄が言った。
このまま距離を置けば、学生の仄かな恋愛ごっこの噂など立ち消えてしまうだろう。そうすればポージーも貴族社会では無理かもしれないが、領内でなら普通に暮らせるさ、と彼は説いた。
エイドリアンとポージーの兄たちは、二人が学院に入るのと入れ替わりに卒業し、それなりに優秀だった兄たちは王宮の文官として働いていた。もちろんまだまだ下っ端ではあったが、だからこそパワーバランスのあり方には敏感だった。
公爵家と侯爵家を向こうに回して、特色がある訳でもない男爵家が生き残るなんて無理だろう、ならば戦わずして撤退すべきだ、と言うのが兄たちの結論だった。
「今ならまだ間に合うんだ。ポージーは領地で豪農か、裕福な商人に嫁ぐのが幸せだと思う」ポージーの義兄が両親を説得した。
「お義兄様、私はダーネル様の事が……」
「もし、ポージーとネルソン卿が好きあっていたとしても、公爵が許さない。ポージーは公爵家のような大きな家を切り盛りなど出来ないだろう。自分でもそれは分かっているだろう?」
「…………」ポージーは俯いて、膝の上で揃えた両手を握りしめた。
ポージーは、自分があまり頭が良くない、と言うことを分かっていた。確かにダーネル様のことは好ましく思っていたし、ダーネル様もほんのり好意を持っていてくれるだろうことは感じていた。
そして頭が良くないなりに、自らが身分の高い女性たちの間を泳ぎ切る力の無いことも実感していた。このまま学園で過ごして、何も起こらないはずがないということも、半ば平民として育った彼女も理解していた。
少し夢を見てしまったのだ、見ている間は楽しかったが、夢はいつか覚める。彼女は目を閉じて、家に帰りますと両親に伝えた。閉じたその瞳から一筋熱いものが流れたのは、気の所為だ、と自分に言い聞かせて。
コープランド男爵夫妻は、明日にでもポージーの退学手続きを取ることにするよ、と言ってその場を後にした。婚約解消は、特にどこかに届け出たわけではないので、話し合いさえついてしまえば終わりとなった。
エイドリアンは、幼馴染のポージーの涙に少しばかり心苦しくはあったが、無事に婚約を解消できたことにホッとした。多分この場にいるみんなが安心しただろう。
両親と共に兄の家を出て、学園の寮に向かいながらエイドリアンは明日以降、あの冷たい紫の瞳に温もりが戻ることはあるのだろうか、と向かいの窓に立っていた彼女の儚げな姿を思い返していた。
「エイドリアン、ポージーを知らないか?まだ今日は見かけないんだが」
昼休みに開口一番、ネルソン卿がエイドリアンに問いかけた。生徒会室に居たみんなの空気がひりついたが、ネルソン卿が意に介した様子はなかった。
「ポージーは、予てから母の調子が悪く、その看病で家に帰りました」エイドリアンは前以て、両家の家族で打ち合わせていた通りの答えを、ネルソン卿に告げた。
「ふむ、なら母上の状態が良くなれば戻ってくるのだな?」
「いえ、もうそのまま領地での母の仕事を代行することになったようです。学園には戻らないと聞いています」
生徒会室の空気感が、一様にホッとしたものに変わった。一人顔色を悪くしているネルソン卿以外は。
「上手くお逃げになったのね……」
ポージーの退学の話を聞いた、チェリリアーナの口からつぶやきが洩れた。
学院の寮の一人部屋で、チェリリアーナは座っていた。たとえ彼女が居なくなったところで、ダーネル様はポージーと会う前のダーネル様と同じ人物ではない。ポージーの不在は、彼女が存在したときと同じように、もしくはそれ以上に存在を主張するだろう。
愛しいままで失われた初恋は、美しいままダーネル様の中に在るのだ。チェリリアーナの浅い初恋は、粉々になったと言うのに。
「チェリル、そなたがポージーに何か言い含めたのではないのか?」
「わたくしは知り合いでもない方に話しかける事はございません」
繊細なティーカップのハンドルを手にしていたチェリリアーナは、ネルソン公爵邸の美しい庭で、婚約者との恒例の茶会の最中だった。
「わたくしは何も致しませんが、どなたかが忖度なさったかもしれませんわね」香り高い茶を一口飲んで、チェリリアーナはそう言った。
「どう言うことだ?」ダーネルは、噛みつくようにチェリリアーナに言った。
「公爵家と侯爵家から睨まれるような事をしたい男爵家は、王国中どこを探しても存在しませんわ」
「彼女の家を脅したのか?」
「そんな事をするまでもございません。したとすれば、それは他ならぬダーネル様でございますわ」
「私が何をしたというのだ」
庭園に咲き誇る花々を観ながら座っていたチェリリアーナは、一瞬の視線をダーネルに向け、息を吐いた。
「高位貴族の婚約に横槍を入れるような低位の貴族家が、どんな目に遭うか、お分かりになっていらっしゃらないの?」
「……」
「ダーネル様が近付きすぎたせいで、あの生徒はもう貴族として生きてはいけませんわ。それでも家も家族も無事ですわ、頭の良い者が側に居たのでしょうね」
「……そんなつもりは無かったのだ」ダーネルの声は悔恨の念に染まっていた。
時間とともにお茶は手を付けられないまま冷めていったが、二人は無言で庭を眺めていた。
ポージーが去って数週間後、エイドリアンは教室棟の二階から中庭を眺めていた。いつかと同じように。あの時、二人がいた場所に人影はなく、陽に照らされたそこは、明るさにも係わらず淋しげに見えた。
ふと目を上げると、向かいの教室棟の窓に彼女が見えた。まっすぐにエイドリアンを、その紫の瞳で見ていた。
エイドリアンはやはり、その瞳に温度を感じなかった。
チェリリアーナは、教室棟の二階から中庭を眺めていた。ダーネルはそこに居なかった。だがチェリリアーナの目には、そこで身を寄せ合って笑っていた二人の姿が見えるようだった。
あの時と同じように目を上げると、向かいの棟の窓に中庭を見下ろすエイドリアンが見えた。チェリリアーナはエイドリアンの姿を見て、安心した。
「わたくしだけが、あの時に取り残されているのでは無いのね」チェリリアーナは虚ろなまま、エイドリアンをただ見ていることしか出来なかった。
チェリリアーナの心はあの中庭のダーネルとポージーを見つめた日から、どこにも進めないまま閉じ込められていたが、月日は無情に流れて行った。
チェリリアーナは今日、卒業式を迎える。
卒業したら、ダーネルとの結婚はもうすぐだった。ダーネル自身は昨年卒業し、今は王宮の宰相の司る部署の下の下で、文官として働いていた。いくら公爵子息と言えど、まだ学園を出たばかりのひよっこに、そうそう大きな仕事は回されないのだ。
学園の最後の授業とも言える卒業記念の祝賀パーティに、チェリリアーナはダーネルにエスコートされる。
卒業生のほとんどが貴族で、卒業生はほぼ王宮に勤めることになるので、パーティーの企画運営は授業の一環として行われていた。チェリリアーナも生徒会役員として、昨年まではパーティーの運営に携わっていた。
今年はパーティーの参加者としての振る舞い方を確認される側にいる。とは言え、それを確認されるのはほぼ平民の卒業生であって、貴族に属している生徒は「出来て当たり前」とされている。
エイドリアンは祝賀パーティのフロアの片隅で、ネルソン卿と共にいるマードック侯爵令嬢を眺めていた。私はいつも眺めているだけだな、と自嘲した。入学した時も、ポージーが退学してからも、エイドリアンは、チェリリアーナを見ることしか出来なかった。今もただ手の届かない人を、見ているだけだ。
この美しい人は、もうすぐ公爵夫人となるだろう。そしてそのまま非の打ち所のない公爵夫人として、不自由のない暮らしをするはずだ。
私は公の場でかの人を彼の隣に見つけては、それと知られないように眺めるんだろう。自分の情けない未来に、悲しさと哀れみを覚えてエイドリアンは、それなら私は常に彼女を眺められる立場にいよう、と決意した。
高位貴族の出る場に居合わせる為に、それにふさわしい立場を手に入れる。なんと浅はかで笑える出世の理由だろうか。
チェリリアーナは姿見に向かって、自分を眺めていた。
とうとう今日、学園を卒業する。卒業の記念パーティーの為に装った自分を鏡越しに見て、あの人の目に綺麗に映るだろうか?と思った。
パーティーでは婚約者のダーネルに、エスコートされることになっていた。二人の関係を示す衣装も、チェリリアーナにはダーネルの髪の色を現す金色を、ダーネルにはチェリリアーナの紫の目を意識した差し色を使った意匠を取り入れてあった。
チェリリアーナの衣装の金は、針子を別にすれば、チェリリアーナにしかわからない程度に茶系に寄せてあるのだが……
チェリリアーナは淡い紫の地にアプリコットとシルバーの刺繍を施したドレスを見下ろして、ダーネル様は気付かないだろうと、ひっそりと笑った。
ダーネル様は、わたくし自身に然程興味がない。もっとも、その位で居てくれる方がチェリリアーナにも都合が良かった。
互いに気持ちもないのに執着されるなど、気持ち悪いにもほどがある。
チェリリアーナは、ほんの数年前、ダーネル様の視線を欲していた自分を思い出した。わたくしの視線の先には、常にダーネル様がいた。ダーネル様があの女生徒と睦まじく過ごしていた日々も、わたくしはただダーネル様を見つめていた。
それがいつの間にかチェリリアーナの視界には、あの生真面目で茶色の髪をした優等生が入るようになって……
今日卒業したら、ただ視線を交わすだけのわたくしとあの人は、この先も直接話すことはないだろう。
学生時代に生徒会室で、時折過ごす時間が重なっただけの知人として、わたくしとあの人はこれからの時を生きることになる、チェリリアーナは夢を見なかった。自分を優しい嘘で騙すことすら出来ないでいた。
交わす視線に熱を込めることも、許されない。半年後には、ダーネル様との結婚が決まっている。公爵夫人として生きる自分に、恋愛を許される時間があるとしても、それは遠い未来だろう。
パーティーの入場が始まり、チェリリアーナはダーネルのエスコートで会場に入った。二人の衣装を見たパーティー参加者たちが、ざわめいた。学生時代の醜聞は決して、忘れ去られはしないが、今は仲の良い婚約者同士として認識されたようだった。
友人同士が互いの衣装や婚約者の紹介をして、楽しげに振る舞うざわめきの中、ダンスが始まった。チェリリアーナとダーネルもファーストダンスを、熟れた様子で踊った。
「ネルソン卿とマードック嬢のダンスは、さすがにお上手よねぇ、見惚れるくらいにお美しいわ」
「お衣装も合わせてらして、素敵よねぇ」
エイドリアンは、其処此処で語られるネルソン卿達の話題に耳を傾けた。二人がダンスを終えて、飲み物のテーブルに移動したのを見計らい、生徒会役員のメンバーで挨拶に行った。
「やぁ、諸君、卒業おめでとう」ダーネルがにこやかに語りかけた。
「ネルソン卿、お久しぶりです。さすがに息の合ったワルツですね」
ダーネルが在学中に、彼の補佐をしていた伯爵令息が、声をかけたのをきっかけに軽い雑談が始まった。チェリリアーナはダーネルの後ろに立ち、ダーネルと元役員である卒業生たちの会話を聞いていた。
その会話にチェリリアーナと同じように仲間入りしていなかったエイドリアンが、彼女に声をかけた。
「マードック嬢、卒業の記念に踊っていただけませんか」
エイドリアンは、右の掌を上に向け、チェリリアーナに向けて差し伸べた。
チェリリアーナは彼の掌に自分の右手を乗せて、お願いしますと言いながら、目を伏せた。エイドリアンの声を聞いて、チェリリアーナの世界は音楽とエイドリアンと自分の二人だけになった。
授業でしか踊ったことのない生徒たちの為に、踊りやすく一般的によく使われる曲であったが、チェリリアーナの中で特別になった。
エイドリアンに触れた指先が熱を持っていることが、感じたことのない程に強く速く打つこの鼓動が、彼に伝わってしまうことが怖かった。
長く修めた淑女教育の賜物か、彼女の動揺は表に現れていなかった。薄く上がった口角で笑顔を作り、しっかりとした足さばきで美しく踊るチェリリアーナは、少々頬を赤らめる以外、いつもと変わりなかった。
エイドリアンは自分が彼女をダンスに誘ったことに、驚いた。常になく近くに立っていたチェリリアーナの香水の香りに、酔ってしまったのかもしれない。
白く柔らかな彼女の手を、痛いほど右手に感じながら、ダンスフロアに彼女を連れて出た。
授業でよく流れていたワルツの調べに乗って、エイドリアンはチェリリアーナをリードして踊った。遠く離れていた時は見つめることが出来た彼女の目を、見ることなど出来なかった。
その目にいつもと同じ温度を見つけてしまったら、エイドリアンの心は修正できないほどにバラバラに壊れてしまうだろう。
キラキラとシャンデリアの光に反射するチェリリアーナの、複雑に結われた銀の髪を見つめながら、エイドリアンはこのまま時間が止まってしまえば、と願った。
どんなに願えど、短い曲は終わってしまった。
二人はダンスフロアから、ダーネル達が談笑する辺りに戻ってきた。エスコートの手を離す直前、エイドリアンは「またいつか」とチェリリアーナにだけ聞こえるような声でささやいた。
チェリリアーナは、エイドリアンのささやきに、自分たちが同じように特別な一時を過ごしたことを知った。
二人はダーネル達に合流し、そのまま話すことも目を合わすことも無く談笑の中で静かに過ごした。
卒業記念のパーティーは、チェリリアーナとエイドリアンにとって、忘れることの出来ない一日となった。
半年後、ダーネルとチェリリアーナは教会で、愛と貞節を誓った。
ダーネルは、自分の妻となったチェリリアーナの姿を眺めながら、この人はこんなにも美しい人だっただろうかと感嘆していた。
この数年、しっかりと彼女を見ていなかったダーネルは、初めて会った人を見るようにチェリリアーナを見た。
銀の髪に紫の瞳、遠くを見る儚げな微笑みに、ダーネルはこの人を妻とする自分の幸運を喜んだ。
チェリリアーナの胸の内にあるのは、あの卒業の日だった。ほんの数分、手を触れただけの彼に向かって、彼女は微笑んでいた。
「チェリル、今度の夜会ではエスコートはするが、しばし談合があるので、一人にする時間があるのだが……」
「かまいませんわ、友人たちも出ているでしょうし、友好を深めることに致します」
「ああ、そう言ってもらえると助かるよ。隣国の外交メンバーが来ることになって、少しばかり話し合うことになってな」
「お気になさらずとも大丈夫ですわ」少し笑いを含んだ声でチェリリアーナが夫のダーネルに答えた。
チェリリアーナとダーネルが結婚して三年が経った。
既に女の子が一人生まれていて、ダーネルはその娘を殊の外可愛がっていた。髪と目の色がダーネル譲りで、顔立ちはチェリリアーナと瓜二つの娘、ダリアーナはまだ生後半年ほどだった。
先程の話に出た夜会は、娘のダリアーナが生まれてから初めての夜会となる。チェリリアーナの胸は彼を一目見ることが出来るだろうか、との思いで一杯になった。
最後に会ってから、もう二年経つ。彼はもう結婚しただろうか?もし結婚したならダーネルが会話に上げると思うけれども……
わたくしは、今でも彼を想っているのだろうか?彼はわたくしを今でも想ってくださるだろうか?
答えの出るはずもない問いかけが、たくさん頭を過ぎるが、チェリリアーナは軽く頭を振って、侍女にドレスやお飾りの指示を出した。
「ダリアーナに何かあったらすぐに連絡をしてね」
チェリリアーナとダーネルは執事と乳母にそう頼んで、馬車に乗って王宮の夜会に出かけた。
近頃、我がリパリティールと隣国のアドマイヤードとの間で、縁談が持ち上がっていた。元々隣国とは言え気候が全く違っていた為に、農作物の収穫時期が違っていて、それをお互いの貿易で補い合うことが出来ないだろうかと話し合っていたのを、此度の縁談でもって合意と成す、との方向に話は進んでいた。
ダーネルは宰相の補佐として、ある意味見合いともなる今夜の夜会の裏側で話し合いを持つのだろう。
チェリリアーナは学園時代の友人たちと会えるだろうか、と少しばかりドキドキしていた。卒業してから四年程経つので、チェリリアーナ自身も出産のため、社交を休んでいたのと同じように、参加を控える時期が重なっているかもしれない。
一番仲の良かったスカイラーナ・ラーキンズ侯爵夫人、スカイには手紙でお互いの出席を確認していたが、体調などはままならないものだから……と少しばかり不安な気持ちに陥っていたところ、馬車が止まってネルソン伯爵夫妻の到着が王宮の担当の者に告げられた。
ダーネルは未来の公爵だが、今はまだダーネルの父が公爵領を治めているので、王宮に出仕するにあたって、ダーネルは伯爵位を継いでいた。王宮に勤める者達は大抵が、法衣貴族の地位に就いていた。
貴族家の後継となれない次男三男や、平民出身の、頭脳優秀な学園の卒業生が多かったからなのだが、ダーネルのように家に予備の爵位のある者や、領地を両親に任せ、婚姻相手を探す跡取りの長男なども王宮に出仕することもあった。
チェリリアーナはダーネルの手を借りて、馬車から降りた。夜会の時間まで、案内された控室で休む、と言うか夜会に備えて髪や化粧の直しを侍女に頼んだ。
「ダリアーナは今頃何をしているかしら」ダーネルに向かって、娘のことをつい口にした。
ダーネルはチェリリアーナが話しかけたことに全く気付いていなかった。侍従から渡されたメッセージカードに目を落とし、何やら考え込んでいるようだった。
ダーネルに近寄ると、彼は慌てたようにカードを胸ポケットに仕舞ったが、その動きでカードに着いていた甘い香りが立ち昇った。
チェリリアーナは気が付かなかったふりをした。結婚して四年、ダーネルが甘い香りを纏っていたのは、初めてのことでもなかった。
初めて彼から自分のものでは無い香りを感じた時は、さすがにショックだった。考えてみれば、学園の頃と同じことが起こっただけなのだ。違うのは処女性が重んじられた当時よりも、誘いかける女性側の規制が緩くなったことだ。
チェリリアーナは結婚するにあたって、「ダーネルとチェリリアーナの間に生まれた子のみにネルソン公爵家の相続と継承権を認める」という一文を婚姻契約書に盛り込ませた。
ネルソン公爵家とマードック侯爵家の当主が認めさせ、王家に届け出た婚姻契約書に正式に加えたのだった。
ダーネルはきっと気が付いてもいないだろう。学園時代の若気の至りに、そんな副産物があることに。
ネルソン公爵は、苦い薬を飲まされたかのような顔をなさっていたけど、こちらの言い分は通ったのだ。チェリリアーナはくすくす笑って、当時のお義父様の様子を思い出した。
「どうしたの?楽しそうだね」ダーネルが誤魔化すように、チェリリアーナに話しかけた。
「ええ、今日の夜会がとても楽しみだわ。スカイに会うのも久し振りですもの」
チェリリアーナはダーネルに向かって、常に無く陽気な笑顔で返事をしたのだった。
学園を卒業したエイドリアンは当初、産業省で農作物の収穫に関する仕事をしていた。その後、少しずつ出世の階段を登り、今は産業省から外務省に、隣国アドマイヤードとの交渉に携わる為に出向していた。
今夜の夜会は、その集大成となる。エイドリアンは夜会服に身を包み、身嗜みを整えた。かの人が参加すると名簿に名を連ねていたのだ。
彼は目を閉じて、あのダンスの時間を思い浮かべた。
淡いフルーティな香りが立ち込め、ダンスの曲が脳裏に流れた。
我ながら偏執的に執着が強いな、エイドリアンは自らを嗤った。
卒業してからは、年に二度開かれる王宮の夜会で彼女を見ることが出来た。ここ二年は、慶事の為に欠席されていたが、今夜は……
エイドリアンは、最後に鏡の前に立ち全身を見てから外務省の控室を出た。
「パレードに行きまちょう、お母しゃま」
ダリアーナがチェリリアーナの前を、振り返りながら走っていった。ダリアーナ付きの侍女が慌てて、ダリアーナの後を追っていた。
「ダリアーナ、走らないのよ、お母様は追いかけられないでしょう?」
「はーい」チェリリアーナの声に気がついたダリアーナが、渋々母親のところに戻って行った。
今日はリパルティール王国の王太子殿下の結婚式の日だった。数年前の夜会で見合いとなった殿下と、アドマイヤードの王女殿下との婚姻話は、本人同士にも好意があったのか、横槍など入る余地もなく進んだ。
それでも国同士の政策の絡んだ行事ゆえに、用意などにも時間がかかり、実現までに三年程経過していた。
当時まだ寝返りさえ出来なかったダリアーナだが、今はもうすぐ四歳になる。
「チェリル、元気にしてたの?」
「あらスカイ、久しぶりね。ええ、元気にしておりましたわ」とチェリリアーナはそろそろ丸みを帯びてきたお腹を撫でながら、答えた。
「あなたが再婚してもう二年も経つのですねえ」スカイは遠い目をして言った。
四年前、この度婚姻の運びとなった王太子ご夫妻の見合いの夜会で、大きな声では言えない出来事があった。
「ネルソン卿、一体何をしているのです」宰相が額に青筋を立てながら、穏やかに問うた。
ダーネルは、誰も来ないはずの控室で若い女性の腰を抱き、裾に手を入れた状態で固まっていた。
女性は、アドマイヤードの王女殿下付きの侍女の一人だった。王女の見合いのためにリパルテイールにやってきて、情報収集のため宰相府の一員であるダーネルに近づいてきたのを、ここ最近の閨の相手としていた。
ダーネルが寝物語とばかりに侍女と打ち解けたやり取りをしている小部屋へ、運の悪いことに、宰相や王宮の権力者たちが、最後の打ち合わせにと入ってきたのだった。
王国側から見れば、今まさにハニートラップにかかっている状態で、ダーネルは言い訳も出来ずその後、閑職に回されたのだった。
更に不運だったのは、ダーネルと侍女の逢瀬が、王宮で恋物語として囁かれたことだった。
隣国の王女の侍女と、公爵家の嫡男とのままならぬ恋が、暇を持て余した貴婦人の間で、ちょっとした評判になり、王女の知れるところとなってしまった。
宮廷恋愛などの爛れた世界をまだ知る由もない王女は、隣国への輿入れに際して、侍女の恋を成就させてやりたい、と小さな我儘を言った。
概ねこういった経緯で、ダーネルとチェリリアーナとの結婚は終わりを告げた。
元々身分の釣り合いだけに主点を置いた婚姻だったので、離婚となっても特に支障があるわけもない。
困るのは、元夫のダーネルとその浮気相手くらいのものだ。
婚姻契約書にチェリリアーナが無理を言って入れたあの一文の所為で、ダーネルとその浮気相手の間に生まれた子たちには、ネルソン公爵家の相続権がない。ネルソン公爵家をダーネルが継ぐとして、その後はチェリリアーナの可愛い娘ダリアーナが後継にと、既に決まってしまっていた。
あの契約が成立したのは、結婚前のダーネルの浮気に沈むチェリリアーナを心配した、彼女の両親がゴリ押ししたせいだった。
元々ネルソン公爵家は裕福な家ではあったが、それでも急な出費のための現金など、手元不如意な時期がないわけではない。それを将来結婚するのだからと、助けていたマードック侯爵家に否とネルソン公爵夫妻は言えなかったのだろう。
実際、ダーネルとチェリリアーナとの離婚がなければ、ネルソン公爵家に不利な文言と言うわけでも無かった。離婚が成立してしまった今となっては、公爵家が甘かった、としか言いようがない。
ダーネルとまるっきり縁が切れないのと、ダリアーナの護衛に関して心配が尽きないのが、頭の痛いところではあったが、高位貴族の後継ともなれば、骨肉の争いという言葉が存在するくらいに、そういったことは全くないことでも無かった。
チェリリアーナと夫は、ダリアーナを守り抜く覚悟があったし、手出しされたなら報復は徹底的にするつもりである。そのことはダーネルにもその浮気相手にも文書でも口でもはっきりと告げていた。
「お父しゃま、こっちよ」ダリアーナが目敏く義父を見つけて手を振った。
「リーナ、いい子にしてたかい?」エイドリアンは、ダリアーナを抱き上げてその頬に口付けてから、話しかけた。
ダリアーナは、その愛らしい唇を尖らせて、リーナはいつもいい子だもんと言った。
「そうだな、リーナはいつもお義父様達の可愛い自慢の娘だな」エイドリアンは笑って、ダリアーナを抱きしめて、隣のチェリリアーナに口付けた。
チェリリアーナとエイドリアンは、温かな気持ちで互いを見つめ合った。学園の棟の窓越しに冷たく見つめ合ったあの日は、嘘のように遠い話だった。
「んん、ガーネット卿お久しぶりですわね」スカイがエイドリアンに向かって、ここに居ますよと言わんばかりの挨拶をした。
「……失礼いたしました。ラーキンズ侯爵夫人ご無沙汰しております。今日はチェリルとダリアーナを見て下さってありがとうございます」慌てて、エイドリアンもスカイに向かって礼を述べた。
「スカイおばしゃま、馬車が!」ダリアーナが興奮して叫んだ。
エイドリアンは、パレードの馬車に燥ぐダリアーナとチェリリアーナを眺めて、自らの幸運を信じられない気持ちで噛み締めていた。
ネルソン卿がハニートラップに引っ掛かったあの後、エイドリアンは外務省経由で出入りしていたアドマイヤードの大使館で、少しだけ盛った話をした。
妻子ある、身分の高い男性と、隣国の侍女との恋の話を。
夜会の日の出来事は、公にならず口止めされたが、誰もはっきりと語らなかったが故に、少し方向性を持たせてやったら、見事に純愛物語となった。王女の耳に入るかどうかは賭けだったし、駄目で元々と思ってのことだった。
ネルソン卿は、いずれ何かしら離婚につながることを仕出かしただろう。今回のことは、王家の婚姻に傷をつけないように周囲も動いたため、エイドリアンの思う方向へ事態を誘導できた。
チェリリアーナは、あの夜会の控室で、ダーネルに渡したお茶にごく軽い興奮剤を盛った。きっと時間を見つけて女と会うだろうダーネルを、宰相を拝命しているチェリリアーナの父が見つけるように手配をした。
かつて一度はダーネルを許し、共に生きようと覚悟したのだが、ダーネルの浮気で、見事に裏切られた。
あの日、父に届けたのは、ダーネルのいる小部屋と入った時間だけのメモだったが、効果的に利用出来て、チェリリアーナは一人の部屋で笑いが止まらなかった。
父も、期待したよりも不出来で不実な娘婿を、閑職へそして離婚へと追いやることが出来た上、更に孫娘が公爵家の跡取りに決まったことにも満足なようだった。
チェリリアーナは、自分の人生を運任せにするつもりはなかった。欲しいものは、自ら動いて確実に手にするのだ。
誤字報告ありがとうございます。
大変助かっております。