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もしも少女が、屈託なく笑い、愛されることに何のためらいもないような人間だったら、彼女はあれほど苦しまずに済んだのだと。
むしろ、幸福のままに生きられただろうにと。
少女を理解できる者がいれば、のちに、そのように評したかもしれない。
あるいは、少女は他人から見れば愛されて、幸せの中で生きているように思えたのかもしれない。
けれど彼女は、物語に出てくる天真爛漫なヒロインのようには、どうしても、なれなかったのだ。
「おはようございます、お嬢さま。今日もいい天気ですよ。」
聞き慣れた声に、少女の意識はゆっくりと覚醒していく。
無意識のまま声のする方向に顔を向け、まだ開ききっていない目がぼんやりと捉えたのは、生家から連れてきた馴染み深いメイドの顔だった。
「おはよう、……コレット。」
メイドの名前を呼ぶ前に一度、音のないあくびをしてから、少女は体をベッドに横たえたまま、ゆっくりと、朝日に目を慣らしていった。
美しく快適に整えられた侯爵家の一室で、メイドの手を借りて朝の身支度をする。
なんて現実味のない現実だろう。
あまりに現実味がなさすぎて、いちいち反応する気にもなれない。
「そろそろ、侯爵家には慣れてきましたか?」
椅子に腰かけてぼんやりとしている少女に何を思ったのか、メイドが話しかけてきた。私はまだ慣れなくて、と苦笑いしたメイドは、少女の髪をブラッシングしながら続ける。
「前のお屋敷も素敵でしたけど、ここは規模が違いますね。このお屋敷に来てそろそろ一週間が経つのに、実は、まだ迷子になりかけるんですよ。そのたびに同僚の方に助けてもらっています。」
少女もそれには同意だった。
自分に与えられた一室をとっても、少女の常識からすれば広すぎる。そして広すぎるうえに、少女の心を落ち着かせる要素がほとんどないのだ。
「でもお嬢さまはよく、アーサーさまと一緒にお屋敷を歩いていらっしゃいますね。アーサーさまに案内してもらえれば、私よりもずっと早く、お屋敷のことを覚えられますよ。」
少女のことを気に入ったらしい義兄は、侯爵邸に来てからほぼ毎日、新しい妹を構おうとして何かしらの誘いをかけていた。メイドはその様子を見て、侯爵家での滑り出しはひとまず順調なようだと、こっそりと安堵していたのだ。
「……昨日は、お兄さまが図書室を案内してくれたわ。侯爵家の図書室はとても広くて蔵書が豊富だと、お客さまにも評判だそうよ。」
「まあ。お嬢さまは読書がお好きですものね。これから素敵な本が見つかると良いですね。」
「そうね。」
でも、違ったの。
口には出さずに、心の中で少女はつぶやく。
好きに使っていいんだよと、満面の笑みで義兄が案内してくれた図書室だったけれど。
気付いてしまったのだ。
少女が欲していたものは、そこにはないことに。
インテリアの一部としても十分に人の目を楽しませる、豪華な装丁のハードカバーが整然と並ぶ大きな本棚ではなく。
お気に入りのライトノベルや漫画をぎゅうぎゅうに詰め込んだ、勉強机の横の小さな本棚が大好きだった。
単なる観光でこの屋敷を訪れたのなら、少女もきっと図書室の豪華さに感嘆しただろう。
あるいは、小さな本棚のことなど何も知らない令嬢ならば、素直に喜べたのかもしれない。
でも、小さな本棚を宝物にしていた少女が暮らしてゆくには、あの図書室は何もかもが大きくて、硬く、整然としすぎていた。
そんなことは、義兄はおろか、馴染みのメイドにだって言えなかった。
「お父さまの書斎とはずいぶん違ったの。」
だから少女は、この世界での亡き父のことを口にする。
「ああ。前のお屋敷では、本は全て旦那さまの書斎にまとめて置いてありましたね。お嬢さまがときどき書斎に遊びに来るので、旦那さまは仕事道具のほかに、お菓子やぬいぐるみ、絵本をご用意されていましたっけ。」
「そうね。私が持ち込んでいたお絵かきセットも、途中から書斎に置くようになったわ。」
「そういえば、お嬢さまがなくして落ち込んでいたウサギのぬいぐるみが、一ヵ月後に書斎の本棚の一番上で見つかったこともありましたね。どうしてあんなところにあったのか、いまだに不思議です。」
話しながら、ふふふ、とメイドが小さく笑う。
少女は、彼女のこういうところが好きだった。
彼女にだって、ぎゅうぎゅうの小さな本棚のことは理解してもらえない。遠く異なる世界のことを分かち合うことは決してできない。
けれど彼女とは、同じ世界の中で遠く離れた子爵家の思い出を共有することができた。慣れない場所で、住み慣れていた家の話をできる相手がいるということは、少女の心を慰めた。
かつて異なる世界で生きていたときの記憶を思い出してから、子爵家の娘としての人生を他人事のようにしか感じられなくなってしまったとしても。
侯爵夫人となった少女の母は、少女が前の家の話をするのを嫌がるようになっていた。
少女がふとした折に、子爵家や亡き父のことを口にすれば、やんわりと、しかし有無を言わせずに話を終わらせる。
そこにはおそらく、侯爵親子への配慮以上の何かがあった。
この世界においては最も近しい存在のはずのその女性に、少女が決して心を許すことができなかったのは、彼女のそういうところが原因だった。
「さあ、できましたよ。今日もとても可愛らしい仕上がりです。」
メイドが満足そうな声を出した。
その声に引きずられるようにして、ぼんやりと空中を漂わせていた視線を、少女は目の前の鏡へと合わせる。
鏡の中には、淡い金髪を丁寧に編み込んだ、妖精のような女の子が座っていた。メイドの言う通り、とても可愛らしい容貌をしている。
妖精のような彼女の名は、マーガレット。
マーガレット・ロイド、改め、マーガレット・レイランド。
由緒正しい侯爵家の娘になった少女。
ああ、なんて現実味のない現実だろう。
鏡を見つめながら、少女は何度も心の中でつぶやく。
片田舎の弱小貴族の娘が、格式ある貴族の家の一員として歓迎される。どこかの小説か映画にでも出てきそうな話だ。
慣れない環境にもくじけずに、少女は努力して幸せをつかむ。きっと最後はハッピーエンドで締めくくられるのだろう。物語なら、そんなところまで容易に想像がつくのに。
この現実味のない現実では。
小さな本棚のない世界では、幸せなど本当に見つけられるのだろうか。
微笑みながら小さな主人を見守っているメイドの姿を、少女は鏡ごしに一瞥する。
このメイドとて、ウサギのぬいぐるみが置かれた本棚のことは知っていても、ライトノベルと漫画でぎゅうぎゅうの小さな本棚のことは知らないのだ。
そして、部屋の扉を開けたその先には、格式ある名家にふさわしい本棚しか存在しない。
憂いを帯びた妖精のような少女――マーガレット・レイランドは、ため息を押し殺してから、自室を出て朝食の席へと向かった。