プロローグ
さまざまなものが、時間とともに移ろい、変化していく。人間もまた例外ではない。
人の一生とは、何かを得るそのかたわらで、何かを置いてゆく、その繰り返しなのだろう。
そして、何かを手放すそのつどで、自分の一部は永遠に失われてしまうのだ。それを幸福と感じるものもいれば、不幸と呼ぶものもいる。
生まれ育った街がどんどん遠ざかってゆき、ついには見えなくなったとき、きっと少女は一度死んだのだ。
少女の名はマーガレット。子爵家の娘だった。
貴族とはいっても、裕福な庶民とそう変わらない生活を、仲睦まじい両親のもとで送っていた。彼女の父親が亡くなるまでは。
夫を亡くした若く美しい母が再婚を決めたのは、少女の父の死からどれほどの時間が経っていただろうか。少女は、そのあたりのことをあまり思い出せない。
ただ、はっきりと覚えているのは、侯爵家から迎えにきた馬車の中で、目に焼き付けるように遠ざかる故郷の景色を見つめていたこと。そして、それがついに見えなくなったとき、かつての日々は二度と戻ってこないのだという諦めに似た絶望が去来したことだけだった。
そのとき。
少女は思い出したのだ。
こことは全く異なる世界での記憶を。
貴族制度のない平和な世界で、ありふれた中学生として生きていた記憶を。
鮮やかな、まるで昨日のことのように思い出せる記憶。
それまで貴族の娘として生きてきた人生が、一気に別人のもののように遠ざかってゆく。
馬車の中で目の前に座る母は、見慣れない貴族の女性であり、確かに自分の母なのだと頭では分かるものの、ひどく実感に欠けていた。
お母さま、と少女はわずかに震える声で呼びかける。
私はこれから……上手くやっていけるでしょうか。
本当は、これからどうすれば良いのでしょうか、と尋ねたかった。しかし、それはこの女性に聞くことではないと少女は気が付いたのだ。
彼女はもう、少女にとって心を許せる人間ではなかったから。
それから少女は、不審に思われない程度の質問を重ねて、現状を把握した。
いや、正確には認めざるを得なかった。
異なる世界の記憶を思い出したとはいえ、マーガレットとしての記憶が失われたわけではなかったのだ。当然、ことの成り行きと現状は、おぼろげながら知識として持ち合わせていた。
ただ、中学生として生きていたころの記憶が、それを認めるのを拒否していただけなのだ。
侯爵と母が再婚し、少女は侯爵の養女になること。
義兄ができること。
いずれ、義兄と同じ学校に通うことになること。
侯爵と少女は、以前どこかで顔を合わせていたらしい。
侯爵も娘ができるのを喜んでいたと、少女の母である女性は、その整った顔に美しい笑みを浮かべて告げた。
少女は何も答えず、ただ、ぎこちない笑顔を作った。
そして馬車が目的地に到着するまで、もう何も話さなかった。
侯爵家は、少女がもともと住んでいた子爵家と比べるのもおこがましいほどに、広く、立派で、美しかった。
少女たちの到着を待っていたのだろう。馬車を降りてすぐに、侯爵親子が出迎えに姿をあらわした。
侯爵である男性は真っ先に、歓迎の言葉と、旅の疲れをねぎらう言葉を少女たちにかけた。その態度から、彼が少女たちにきわめて友好的であることを見てとるのは、そう難しくはなかった。
つねに笑みを絶やさない侯爵の隣で、一方、少女の義兄となる少年は緊張した面持ちを向けていた。
少女よりいくらかは年上とはいえ、いまだ青年の域には達していない少年にとって、他人も同然の人間を家に迎え入れることは、やはりそう簡単に受け入れられるものではない。
頭では納得していても、また、少女たちに対し悪感情があるわけではないにしても、心理的に抵抗があるのは事実だった。
しかしそんな彼の気持ちは、母親とともに挨拶をする少女を見て、大きく変わった。
近くにきた少女の、端正な顔立ちに驚いたというのも、そのひとつの理由ではある。だが、それが一番ではない。
少年の心を掴んだのは、少女の繊細さ、そしてはかなさだった。
少女はもともと、愛らしいとも美しいともいえる顔立ちをしており、その幼さもあいまって、庇護欲をそそられる者が多いであろう容姿を持っていた。
そして、少年は確かに、初めて出会った少女の姿に庇護欲を刺激されたのかもしれない。しかし、それは、小動物や幼児に対するようなものではなかった。
少し力を込めれば、いまにも砕け散ってしまいそうな繊細なガラスの工芸品。
あるいは、守ってやらなければすぐに崩れ落ちてしまいそうな砂の城。
目を離せば、すぐに失われてしまいそうな、そんな印象を受ける少女の存在は、少年を大いに惹きつけた。
一方の少女は、そんな少年の様子には、ついぞ気が付かなかった。
彼女は、この短期間で、あまりにも多くのものを失いすぎていた。
父を失い。
生まれ故郷を失い。
母を失い。それまでの人生を失い。
この世界への親しみも、
理解してくれる者も、無い。
……いるはずも、無い。
そのとき、彼女の心を深く浸していたその心情に名を付けるのなら、絶望という言葉が、一番近いのかもしれない。
少年は、新しく妹となる少女を大切にしようと決心した。
少女の抱える空虚を埋めるには、彼の手はあまりにも小さいことに気が付かないままに。
少女の母と侯爵は、そんな少年の様子を微笑ましく見守っており、また、何も気が付かなかった。
侯爵家に迎え入れられて最初の夜、少女は夢も見ずに、泥のように眠った。
大きな欠落の深淵のふちで、息を殺して、体を丸めて眠った。
そして、孤独が、少女の一番の友人となった。