九十六話 二柱の厄災
――ギムレットは、視界を染めるほどの雪の中を駆け抜けていた。絶対に振り返ることなく、自身と腕の中で震える少女の代わりにあの化け物に刃を向けた青年への心配も、一旦飲み込んで。
「……はぁっ……なんであんなのが私達の所に来るのよ!」
目的地は定まっておらず、道筋さえも滅茶苦茶に、ただただギムレットは逃げ続けた。どれだけ走ったとしても背筋をなぞるように離れない、光の魔竜への恐怖に突き動かされて、足を動かし続ける。
「逃すな! 人数さえかければ捕らえられぬ相手では無い!」
「こっちに逃げたぞ。追え!」
街の至る所から聞こえるそんな声は、セレスティアが放った追手だろうか。それは彼女には分からない……と言うよりは、そんなことを考える余裕は彼女には無かった。
「ギムレット、さん……怖い……」
腕の中ですっかり小さくなってしまったトニアは、震えた声でそう漏らす。その体の震えが示す怯えは、尋常なものでは無い。それは単純な力の差だけでは無く、もっと奥底から込み上げてくるものーー厄災の力をその身に宿すが故の、天敵たる魔竜へ、本能的に掻き立てられるものだった。
「大丈夫、だから。私がついてる。安心して」
自分の気持ちは押し殺し、子をあやす母親のような優しい声でギムレットはトニアに言う。その間も、決して足を止めることは無い。
追手を掻き乱す為に足を踏み入れた、複雑に入り組んだ路地を抜けた先で、不意にギムレットの視界が広がった。
「――見つけたぞ!」
そこに存在していたのは、凍てついた大きな時計塔と、そこに屯する人竜族の兵士達。
「……まぁ、素直に追いかけてくるだけな筈が無いよね」
各々の獲物を手に逃げ道を塞ぐように隊列を組むそれを見て、彼女は完全に足を止めた。この状況になってしまえば一度敵を殲滅する他なし、と、逃げから戦闘へ心を切り替える。
「トニアちゃん、少し耳と目を塞いででくれる?」
そう告げると、ギムレットは腕の中の少女をその場に降ろし、臨戦態勢へ。
「私も、戦う……」
「良いの良いの、あなたと同じ、ギムレットお姉ちゃんに任せなさい」
刹那、にっこりと微笑む彼女が纏った魔力は、違った。昼の闘技大会の、決勝二試合で見せた、精霊特有の魔力とは全くの別物。どす黒い、そう形容するのが余りにも適切に思える、重苦しい異質な魔力。
「……少しだけ、力を貸して。色欲の厄災!」
彼女の呼び声に呼応するように、その両目が桃色に染まり、艶やかに煌めく。
「もう一回言うよ。トニアちゃん、耳と目は塞いでて」
彼女の纏うその力に、呼ばれた名に驚愕の視線を向け、思考の檻に閉じ込められた少女の意思を、現実世界に引き戻す。言われるがままに指示に従う姿を確認すると、ギムレットは静かに、数歩踏み出し、深く息を吸った。
「私の声を、聞いて欲しいな」
静寂の中に響いた、脳を溶かすような甘ったるい声。『色欲』の名を冠するに相応しい妖艶さが、心を奪う美しさがその声に、そう告げる所作の一つ一つに宿っていた。
「私は貴方達を殺すつもりは無いの。ただ、逃げたいだけ。私の為に手を貸してくれるよね?」
その姿を視界に捉えた時点で、その声を聞いた時点で、既にギムレットの勝利である。それを示すように、彼女らを取り囲む整った隊列が崩れていく。兵士たちの目はギムレットに向けられているものの、何も写っていないように虚に見えた。
「……よし。トニアちゃん、行くよ」
情報を遮断している少女を再び抱え、彼女は夜の街を駆け始める。
「そうそう、私が殺す気は無いけれど追手は邪魔なんだよね。だからさ、私のために死んでくれる?」
その直前で、心を奪われた兵隊にそう告げる。但し、それに対する答えをギムレットは待たなかった。
地面を蹴った彼女の耳に聞こえてきたのは、肉を割く不快な音、鈍器を叩きつける鈍い音、金属を砕くかのような激しい音。振り向くことも、手を握った少女を振り向かせることも無い。
二人の背後に広がっていたのは、厄災に魅了された兵士達が互いの命を自らの意思で断つという、阿鼻叫喚の光景だった。
――そこから、どれだけギムレットは走ったのだろうか。既に彼女の纏う魔力は、いつもの穏やかなものに変わっていた。つい先程まで、凶悪な力を纏っていたとは思えないほどに落ち着いた、透き通るものに。
「まだ逃げなきゃ、だね……」
決して耳障りの良く無い音が聞こえなくなったあたりで、ぽつりと呟いた。
「……ギムレットさん、大丈夫? 私、自分で走れるよ」
相も変わらず彼女の腕の中に抱えられたままのトニアが、心配そうにそう尋ねる。その原因は、ギムレットの明らかに優れない顔色。額からわずかに汗を流しながら、変わらぬ速度で闇を駆け抜けていた。
「平気、だよ……このくらい。ちょっと疲れちゃった……だけだから、気にしないで」
心配させまいとしたのだろうか。にっこりと笑顔を浮かべながら、澱みなくギムレットはそう答えた。誰が聞いても明らかに強がりだと分かるような、か細く、途切れ途切れな声で。
「……自分で走る。無理しすぎだから」
我慢ならない、と言った顔をして、トニアが細い腕の中から飛び出し、ふらつくギムレットの体を支える。
「私と一緒だったんだね」
「……うん。同じ、厄災の器」
彼女が、ずっとトニアを気にかけていたのは元々の面倒見の良さはまちがいなくあるだろうが、同じ存在であったことが大きいのだろう。
「ギムレットさんは、それを制御出来てるの? さっきはそう見えたんだけど……」
「そうだよ……元々色欲の厄災になっちゃった子は温厚でさ。今は存在を消さない代わりに私に力を貸してくれる……まぁ、ギブアンドテイクに近い関係で私の中で眠ってるの」
決して速くはない足取りで歩きながら、トニアはギムレットの声に耳を傾ける。
「この子も、可哀想と言えば可哀想なんだよ。伝承とかじゃ人を誑かし、堕落させた悪魔みたいに描かれてるけど、決してそんなつもりは無くって。ただ存在するだけで周囲の命を魅了する力を持って生まれただけの、優しい子だったんだよ。厄災なんて、後の人が勝手にそう呼んでるだけなんだよ」
疲れた顔で、けれども優しく微笑みながら、ギムレットはそう言った。
「ただ、制御出来てるとはいえ気軽に使えるものじゃなくてさ。今だって、あんな短い時間の顕現だったのに魔力はごっそり持っていかれちゃったし……ちゃんと使えるようになったのは、アガ爺の精霊になって魔力量が跳ね上がってから、なんだ」
確かに、今の彼女の指先は微かにに透き通っていた。精霊にとって、魔力切れは顕現の一時的な終了を意味する。その前兆が僅かにではあるが表れているのだった。
「……私もそのうち、あの力を制御できるのかなぁ」
隣に存在する成功例を横目に、ぽつりとトニアは呟く。
「できると思うよ。そもそも厄災の器ってそういうものだし、トニアちゃんは私より魔力の才能あるように見えるしね。きっと私みたいに力を借りるんじゃ無くて、完全に自分のものにできるよ」
今彼女の中にあったのは、ギムレットへの尊敬と、未熟な自分への失望に近い何か。生まれてから実の姉にも、リリムにも、今回だって守られてばかりの弱い自分が、どうしても嫌で嫌でたまらなかった。力への渇望が、頭の中でぐるぐると巡り続ける――逃げていたはずのトニアの足取りは、少しだけ重くなっていた。
「あのね、トニアちゃん。守られてばかりでも良いんだよ?」
子供に何かを言い聞かせるような、優しい母親のような声。トニアの様子と、彼女の中に渦巻く悩みに気がついたらしい。
「まだトニアちゃんは子供だよ。この先長い長い時間をかけて色を塗っていく真っ白なキャンバスなの。時々意地悪な人がその絵を壊そうとするかもしれないけど、もちろんトニアちゃんはその絵を守らなきゃいけないけれど、そうなる前に貴女を守るのは私みたいな年上の、大人の責任だよ。だからまだそんなに自分を追い詰める必要は無いからね」
暖かい声色のまま、ギムレットは揺らぐ少女の心を落ち着かせる。先の言葉は彼女の持論であると同時に、理想でもあった。
「……まぁ、現実はそう上手くはいかないんだけどね。悪い大人は多いし、手を差し伸べてくれない人だって同じ。だけど守ってくれる人はきっといる。その人たちを頼るのは、子供の当然の権利なんだからね」
それ以上、彼女は何も言わなかった。それだけでトニアには十分だと思ったから? 勿論、それもある。ただ最大の理由はそうではない。
「素晴らしい理想だな。実現すればさぞ美しい世界になるのだろう。皆が貴殿のように綺麗な心なら、我もこうはならなかったやもしれぬ」
正面の、夜の帷からそう告げると共に姿を見せた、光の魔竜こそが、ギムレットが口を閉じた理由であった。
「……逃げて、トニアちゃん。できるだけ遠くに」
「嫌だ、二人でたたか――」
答えを待つことなく、トニアの手を振り解いてギムレットは地を蹴った。厄災の魔力を引き出し、セレスティアの懐に入ったかと思えばその胴体を両腕で掴む。その強烈な勢いで幾つかの建物を貫き、刹那のうちに二人の姿は広場へ躍り出る。
「そんなにあの少女を巻き込みたくなかったか? 色欲の厄災の器よ。まさか二柱もその力を手に入れられるとは思わなかったぞ」
空中で解放され、距離をとって着地した魔竜はそう告げる。
「黙れ、堕ちた魔竜」
返す声は、怒りに満ちていた。ここに彼女が来たということは、トーヤは負けたということ。
「……私は、貴女を許さない。等しく、全ての未来を奪う悪魔を絶対に許さない!」
厄災と魔竜の激突が、街の一角で巻き起こる。




