九十五話 宵闇を駆ける光
「……みんな、上手く行ってるかな」
戦闘の渦中であるドラテア王城より少し離れ、舞台は街の一角――この街一番の大きさを誇る酒場。木製の椅子に腰掛け、トニアは心配そうに呟く。
「みんな、私達が心配するよりもずっと強いじゃん。安心して待っていよ?」
そわそわと、どこか落ち着かない彼女を膝の上に抱きしめて、ギムレットはそう声をかけていた。二股に分かれた尻尾を不規則に揺らすその姿には、彼女の内心も落ち着いているとは言えないことを示しているが、それを表に出すことは無い。
「……それは、分かってるんだけど」
「待ってるだけじゃ不安になるよね、分かるよ」
トニアの言葉を否定せず、肯定しながら宥めるその手腕は、流石と言ったところだろう。事実、彼女の腕の中でトニアは少しずつ、ザラついた心が落ち着いていた。
「本当は、私も行きたかったなぁ……まだ、助けてもらった恩も返せてないし……」
不服そうに独り言を漏らし続けるトニアを気にかけつつ、ギムレットの視線は酒場の壁に体を預け目を閉じる一人の剣士に注がれていた。
メレフ達が王城に向かってからと言うもの、彼は――トーヤは一言も発することなく、静かにそこに立っていた。彼に任せられた任務は、トニアと言う厄災の器の護衛。腰に刺した大太刀に片手を置き、何か異変があれば一瞬で抜刀が可能な臨戦態勢を彼はとっていた。
「……少しくらい、緩めても大丈夫では?」
「お気になさらず。この程度であれば慣れていますから」
彼女の気遣いに、にこりと微笑みを返しながらトーヤはそう答えた。ふっと緊張の糸が緩んだかと思うと、再びぴんと張り詰められる。
「そう言えば、アルラ君は?」
「彼なら外で見張りを行っています。なんでも、他の人より視力が良いからと言っていました」
姿の見えない若い錬金術師の行方を尋ねてみれば、彼もまたトニアを守るために行動を起こしていた。
「……そっか」
何も、ギムレットは今の状況を楽観視していた訳では無い。どうせ何も起きないだろうと油断していた訳でも。ただ、ずっと張り詰めた空間に居るのが嫌で無意識のうちにあの緩い態度が漏れているに過ぎないのだが――
「少しぐらい、気張っておくかぁ……」
二股の尾をぴんと伸ばし、気合を入れようと背筋を伸ばした彼女の腕の中で、呟く声があった。
「……私も、苦手だな」
トニアのそんな小声を、大きな猫耳は聞き逃さなかった。
「そうなの? じゃあこのままで居ようかな」
そう答えるギムレットの声は、さぞ嬉しそうだった。きっと、トニアの先の言葉は本心ではあれど、気遣いでもあるのだろう。何気ないその言葉は、ギムレットのザラついた心を確かに落ち着かせた。
しばらくの間、沈黙が酒場に満ちていた。何も起こらないことを祈りつつ、ギムレットは所在なく尾を揺らす。このまま何も起きずに、夜が明ければ良い――戦いが終わってくれれば良いと、願っていた。
「……何か、来る」
彼女の膝から立ち上がり、怯えたようにか細い声をトニアが漏らす。
「何かって……どうーー」
直後、ギムレットとトーヤの二人は、背筋が凍るほどの恐怖を掻き立てる桁外れの魔力を探知した――それが、自分たちの真上に存在していることを。
「……時間を稼ぎます、逃げてください」
「でも、あんなの相手に……」
「早く!」
即断即決、トーヤは彼女らを逃すことを選択した……いや、そう選択せざるを得なかった。鬼気迫る彼の声に、ギムレットはトニアを抱えて反射的に走り出した。酒場の裏口の、木製の扉を押し開けて深い闇の中へ、飛び込む。
――風に靡く髪の毛一本まで鮮明に見えるほどの眩い光の柱が酒場を包み込んだのは、その直後のことだった。
「……嘘でしょ」
突然の閃光に、思わずギムレットは足を止めた。振り向いたその視界に映ったのは、つい数秒前まで建物を形成していた瓦礫の山と、その中にぐったりと横たわる義手の少年、刀を支えに立つ鬼人族。
「……っ」
『助けなきゃ』そんな意志を殺し、地面を蹴る。突如襲来した何かはそんな話が通用する強さではなかった。彼女の背後で、数度金属が交わる音が響く。
先程感じた異様な魔力に、ギムレットは覚えがあった。それはメレフとフリートの二人――そう、世界の守り手の、二人である。
「あれ、魔竜じゃないの……!」
人よりも、精霊に近くありながら生物の枠組みを超越した魔力量を誇る、魔竜の力。それから逃げるために魔力を炸裂させながら、大地を蹴る。
「そこの人猫族」
心の臓を貫くような冷たい声と共に、彼女の前に黄金の剣を握る一人の騎士が舞い降りた。リリムのものとはまた異質な、押し潰されてしまいそうな圧力を感じその足は止まる。騎士の光の魔竜の手に握られた純白の剣は、鮮やかな紅の液体でべったりと濡れていた。
「貴殿が大事そうに抱えているそれを……厄災の器を我に渡せ」
彼女の狙いは、メレフが予測していた通り暴食の厄災の器たる少女だった。
「嫌と答えたら、どうなりますか」
腕の中で大きく震えるトニアの背を宥めるように触れながら、セレスティアの目を見据えてギムレットはそう問う。自身も、強大な力に畏怖を感じているだろうに。
「少し死が早まるぞ。とは言っても全て終われば等しく死ぬがな」
逃げたいのに、ギムレットの足は動かない。逃げようとしているのに、蜘蛛糸に絡め取られたかのように全く動かない。
「まだこんなところに居たんですか……!」
固まったギムレットを解放したのは、二人の間に割り込み、セレスティアに一太刀を放ったトーヤ。体の至る所から血を流し、綺麗な着物を真紅に染めている彼は既に、無事とは言い難い。それでも、その瞳の炎は消えていなかった。
一瞬意識が逸れた瞬間を逃さず、弾かれたかのようにギムレットは逃げる。どこへ行けば良いのかは分からない。どこまで逃げれば良いのかも。ただ心を塗り潰す力から離れるように、全力で。
「動けない程度に斬ったつもりだったのだがな。まだ足りなかったか……流石は鬼人族だな」
体重の乗ったトーヤの一撃を片腕で握った直剣で受け止め、感嘆の声をセレスティアは漏らしていた。
「魔竜は世界を守護する存在では無かったのですか? 何故こんな、世界に仇なすような行為を……!」
「お前が知る必要は無い」
彼の問いをそんな言葉で一蹴し、直剣に力が込められる。
僅かな重みの変化を感じ、トーヤは膝を落とした。彼には真正面から切り結ぶつもりはさらさら無い……正確には、そんなことをしても勝ち目が無い事を理解していた。
「虚水沼」
故の、搦手。トーヤの魔力によって、セレスティアの右の足元に小さな水溜りが生成されていた。今まで盤石だった足元が崩れ、一瞬彼女の姿勢が揺らぐ。自身の手によって作り出した隙を、実力者たる彼が見逃す筈がない。
「蒼流刀――!」
蒼き水の魔力を纏ったトーヤの一太刀が振り下ろされたのは、セレスティアの首筋。そこに全霊の力を込めて一撃を叩き込む。
――強烈な衝撃をその身に受け、セレスティアの体は数歩分、後方へと弾かれた。斬撃をモロに受けたはずの首筋には竜の鱗が纏われており、その表面が軽く傷ついているのみ。
「これが無ければ我の首程度難なく断たれていたな」
パキパキと音を立てて生え変わる傷ついた鱗を撫でながら、魔竜はそんなことを呟く。
「その程度、だと言うのですか」
大太刀を構え直しながら、そんな声をトーヤは漏らす。
「凄まじい剛剣だったとも。卑下する必要は無い」
敵だと言うのに、優しい声でセレスティアはそう言った。その声に思わず闘志を削がれそうになりながらも、トーヤの剣先はしっかりと敵に向けられていた。
「蒼流刀 瞬水」
魔力を帯びた彼の体が、搔き消えた。
先程の、足場を崩した上での一撃はあくまでも不意打ちだったこと、そして初見だったからこそ通用したに過ぎない。かと言って、彼はあれ以上の威力を発揮させられる搦手を所持していなかった。故に、次の攻め手に自身の最速の、そして最大の一撃を選択した。
「……速いな」
避ける素振りも見せず、セレスティアは直剣を鞘に納めてぽつりと呟いた。直後、彼女の背後で蒼き剣閃が光る。荒々しい魔力を乗せた、長く重い太刀が光の魔竜目掛けて振りぬかれる。
トーヤの全身全霊を乗せたその一撃は、届きさえすれば魔竜の鱗さえも断ち、彼女に痛手を負わせられるかもしれない。
「――但し、届けばだがな」
セレスティアの言葉が示す通り、トーヤの一閃はセレスティアではなく、その手に握られた純白の直剣に阻まれていた。
「……くっ」
「喜べ。まさか普段の剣ではなく神聖剣を出すことになるとは思わなかったぞ」
恐らく、彼女の中では賞賛の籠った一言なのだろう。ただ、その言葉はもう彼の耳には届いていない。全霊を出し切った一撃を受け止められた時点で、トーヤは自身の死を既に悟っていた。
「短い手合わせだったが、中々に強かったぞ」
セレスティアの、若き鬼人族に向けられた興味が籠った言葉は、これで最後だった。大太刀を受け止める純白の剣を引き、間髪入れることなく彼の全身を斬りつける。抵抗は全く無く――そんな余力が残っていないだけかもしれないが、既に血で染まった着物を更に深紅に染め上げ、トーヤはその場に崩れ落ちた。
「……さて、厄災の器を回収せねばな」
もう興味はないと言わんばかりに剣を濡らす鮮血を振り払い、もう一本の剣とは逆の腰に刺す。自身の身体を包む程に大きな純白の翼を広げ、光の魔竜は再び暗闇の空に飛び立った。




