八十九話 魔竜
――キアレとガルムによる、姉弟の命の奪い合いより、幾分か時は遡る。狼の向かった方角とは正反対の、街の西の空に、童女の姿があった。
浮かない表情で少しゆっくりと空を舞う彼女の目的は無論、キアレと同じくリリムを救う事――その前段階である、城を守る結界の破壊。向かう先は、町外れに位置する教会だった。
「なぁ、セレスティア、本当にそうだと言うのなら、何故もう少しだけ待ってやれなんだ。誰よりも世界を想っていたお前に、誰よりも温かいお前に、一体何があったと言うのだ……」
宵闇を、メレフの魔力の軌跡が切り裂く。そんな彼女の口から零れた、聞かせる相手など存在しない独り言。彼女の脳内に絡みついて離れることのない、家族にも等しい友人への疑問――いや、同情といった方が正しいだろうか。彼女の気持ちが分かるからこそ、自分は運が良かったからこそ、メレフは嘆いていた。
「起こってしまった以上、いくら余が思考を巡らせても何も変わらぬよな」
少々ざわつく心を篠突く雨で落ち着かせ、先の思考を心の隅に追いやる。今は、それを思う必要などないと自分に言い聞かせて。
「……キアレの方は始まったようだな」
強大な魔力が街の一角で炸裂したことをを認識すると、メレフは一旦思考をリセットし、爆発的に飛行速度を上げた。魔竜たる彼女がその気になった時、街一つの移動になど時間がかかるはずがなかった。
本腰を入れての移動開始から数秒。まだ建てられて大した年数が経っていないであろう綺麗な教会に、メレフは静かに舞い降りた。
「……ふぅ、冷えるな」
迷いを流す激しい雨は、いつのまにやら息を詰まらせるかのような吹雪へと変わっていた。白い息をほうっと吐き、教会の扉を押し開ける。
整列された祈りを捧げるためのベンチに、それに挟まれたまだ大して使われていない長いカーペット、そして祈りを捧げる対象であろう、中性的な人物の美しくも精巧な、高い天井に届くほどに大きな像。その胴体に、精密な魔法陣が描かれていた。
「神か、あんな奴らろくなものではないと思うがな」
そんな言葉を零しながら、彼女は一切迷うことなく、神像へと歩み寄る。彼女が一歩、また一歩と足を進める度に、像に刻まれた魔法陣が光を増していく。それを意に介すこともなく、神像の魔法陣に、メレフが手を伸ばした。
彼女の小さな手のひらがそこに触れる直前、静かに魔法陣は輝きを失った。破壊されたのではなく、ただ動力が切れたかのように。
「……まぁ、誰も守る者が居らんはずがなかろう。当り前だな」
敵を排除するべく魔力を纏い、メレフは静かに振り向く。
「お、やった。当たりじゃん」
彼女の視界に映ったのは、小柄で中性的な人竜族。後頭部に束ねた紅い髪を楽しそうに揺らし、無邪気な顔をメレフに向けていた。
「当たり?」
「そう、当たりだよ」
手に持ったナイフをクルクルと回しながら、彼は笑う。
「メレフ・アペレースちゃんでしょ。派手な戦いだったから覚えてるよ。君はお昼の闘技大会で見たから、強さは知ってるよ」
「……ほう? 若造よ、余の戦いを見たうえで当たり――つまり、勝てると言っているのだな?」
メレフの問いに対し、笑顔のままの彼は――キャナは頷く。
「まぁもちろん僕一人の力じゃ勝てないけど、ちょっと上司が力を分けてくれたもんでさ? 今はちょっとやる気があるし」
その言葉と共に、彼は魔力を解き放った。彼の言葉に誇張は無く、ひしひしと空間に満ちていく力は、余りにも強大で、確かに闘技大会の頃のメレフになら、勝ってもおかしくはない。
「……はぁ、やるな」
メレフはその魔力に、意識を奪われていた。
「そうでしょ? ただ僕もあんまり派手に戦いたくはないんだよね。この街なみ結構気に入ってるから全部終わったら貰おうと思っててさ」
テンションが上がっているかのように、饒舌に彼の言葉は続く。それと共に少しだけ溢れた冷たい魔力は、人のものではなく、精霊のものに――魔竜のものに、近い。
「……そうか、そうなのか」
それに気が付いた時、メレフの口から溢れたのは、その見た目にはおおよそ似合わない、深い深いため息だった。彼の魔力に感じた、自身のものと類似した性質。そして分けてくれたという発言は、彼女の中でとある一つの事実を照明していた。
「あ、その答えは帰ってくれるってことで良いの? じゃあほら、早く帰ってよ」
「……あ? 何を言っておる」
下から、首を傾け蛇のようにメレフは少年を見つめていた。そこには明確に、呆れにも同情にもとることのできる、憐れみの感情が含まれていた。
「魔力を貰った、か。そうか……」
小さく、そう呟く。
「……ごめん、何て? 声小さくて聞き取れなかったや」
「……あぁ、お主が聞く必要などないさ。ただただ余の独り言に過ぎん」
そう笑顔で告げると、メレフは静かに一歩踏み出した。
「え、やる気なの?」
「あぁ。やらねばいかぬのでな」
嫌そうな顔を浮かべるキャナを無視して、更にもう一歩。
「面倒くさいなぁ……明らかに僕の方が強いって分からない?」
肩を竦め、やれやれとでも言いたげにキャナは問う。自分の方が上だという明確な慢心が、そこにはあった。
「……のう、若造。余は今……少々虫の居所が悪くてな」
それを無慈悲に押し潰すかのように、メレフは魔力を解き放つ。綺麗に配備されていたベンチが音を立てて砕け、天井にかかった巨大なシャンデリアが割れ、落下する。
「今逃げると言うのなら、見逃してやろう」
その小さな体に纏われていたのは、闘技大会で見せたメレフ個人としての力ではなく、全く異質で、桁の違う強大な力。
「……っは、凄」
その強さに、キャナは思わず息を呑んでいた。今彼女が纏っている力があれば、闘技大会での優勝――はリリムという存在が居る以上無理だが、少なくともアガレスに負けることは無いであろう。それなのにも関わらず、彼女はこの力を使っていなかった。
「今の余は、魔竜メレフ・アペレースとして戦いにきておる。昼のような戯れとは違うのでな。加減をするつもりなど、一切ない。後十秒だけ待ってやろう。命が惜しければ、去ね」
その言葉には、一切の感情は籠っていなかった。恐ろしい程に冷たく、声の圧だけで畏怖を感じさせるほどに、格があった。
「……まぁ、それで大人しくはいそうですかって逃げられないんだよね」
少々声を震わせながらも、彼は逃げることは無かった。両手に小さなナイフを構え、戦闘態勢。その姿を見たメレフは一言。
「……そうか。可哀想に」
さぞ悲しそうな声で、そう言った。
「原始の鼓動・始祖降誕」
周囲を破壊していた、荒ぶる漆黒の魔力がメレフの元へと集まっていく。それは彼女の全身を覆い、姿を変える。
彼女の綺麗な肌を覆うように、漆黒の鱗が浮かび上がる。頭には元々の捻れた二本の大角に加えて、数本小さな角が増え、元々大きかった翼は更に肥大化していた。
「っ……」
キャナの喉から生唾を飲み込む音がした。太く、逞しくなった尻尾でメレフが床を叩いた瞬間、地響きが鳴る。
「さて、手加減はしてやれんからな」
返す言葉を聞くよりも先に、メレフは大地を蹴り、跳んだ。激しく音を鳴らす漆黒の雷を右手に纏い、二人の間合いを神速で詰める。その瞬間に彼女が纏っていた魔力の大きさは、正に超越者のものに間違い無い。
「許せ。名も知らぬ人竜の子よ」
教会の窓を粉砕する衝撃波と共に突き出された、黒雷を纏ったメレフの右腕がキャナの左胸を、一切の迷いなく貫いていた。
「かふっ……?」
自身の体を貫く、竜の鱗を持つ細い腕を、力の入らない腕で骸が掴む。口から血を流し首をがくりと折る彼の最後の表情は、困惑。最後の一瞬に起きた出来事に対して、恐らく彼は何も理解する事無くその命を散らしたのだろう。
「この程度の力を与えて思い上がらせ、忠誠の心を芽生えさせたのか……」
名も言わぬ死体から、メレフの腕が引き抜かれる。支えを無くし、倒れるそれを抱きとめると同時に、彼女は地に濡れた右手を虚空に伸ばした。禍々しい魔力と共にその先に姿を現したのは彼女の玉座。但し、初めて姿を見せた時とは違い天辺に紫の焔を灯していた。
「借り物とは言えその辺は分かっておるようだな。それで良い。開け冥界の門」
彼女の呼ぶ声に合わせて、玉座が駆動を始めた。座面は大きな音を立てて砕け、残った背もたれは地面に突き刺さる。巨大化していくそれが神像を吞むほどの大きさに達した時、中心に真っ直ぐな亀裂が入った。
「……命を奪って悪かった。せめて安らかに眠れるように冥王には伝えておいてやる」
彼女が指を鳴らすことで、背もたれだったものは紫色の炎を天辺に加えて両脇に灯した扉となった。ゆっくりと、仰々しい音を立てながらそれは開く。
その先に存在したのは、黒い霧の立ち込める何も見えない空間。開いた本人のメレフでさえ背筋を震わせる程に異質な冷気が漏れ出していた。
「メイ、後は任せるぞ」
聞きなれぬ名前を口にすると共に、その空間に彼の骸を投げ入れる。そこに着いた音が聞こえる前に、重苦しい扉は固く閉ざされた。
「さて、仕事を全うするとしようかの」
自身の頬を軽く叩き、若干燻ぶった気分を切り替える。欠けた神像の元に歩み寄り、魔法陣に手を伸ばす――彼女にとって、魔法陣の一つを破壊するなど、容易いこと。
ガラスのように魔法陣が砕けると共に、メレフは教会を後にし、次の目的へと足を進めた。




