八十八話 狼
「キアレ、出発前に最後の確認だ。向かう先は――」
「私が向かう先は東の古びた時計塔。メレフ様は西の教会。そこに創られた魔法陣を破壊後、合流して王城に突入する。至極単純です」
「うむ。実に頼りになる返答よ」
酒場の、大きな扉の外。星のない、黒に塗りつぶされた空の下で、キアレとメレフは行動を開始せんとしていた。
リリムの囚われた王城。そこへの侵入者を弾く結界――それを解かなければこの戦いは始まらない。彼女らの行動の結果こそが、戦いを作る最初の要素であり、前提。
「……行くぞ。失敗は無しだ」
「無論です。ご武運を」
その会話を最後に、二人はしんしんと小雨の降り始めた街の中を、全く別の方向へと駆け出した。目的は同じ、リリムの救出。それだけを胸に、狼は大地を蹴る。入り組んだ通路も、無数の建物も、その全てを軽々と飛び越えながら、最短ルートで駆け抜ける。彼女が目的地に辿り着くまでに、そう時間は掛からなかった。
暗天を衝く、ドラテアで最も高いであろう建物の前に、キアレは静かに舞い降りた。周囲に建造物は無く、ベンチと噴水が配置されている。普段は、この国の民に憩いを届ける場所になっているのだろうか。
「中、ですね」
そんな場所に似つかわしくない魔力の奔流を、キアレは塔の中に察知した。本格的に降り始めた雨の中、石造りの扉にかけられた大きく太い材木の閂をゆっくりと外し、取っ手に手をかける。
扉を開いた瞬間、キアレの視界を閃光が包み込んだ。鼻の奥を突いた焦げた香り、視覚を塗りつぶす閃光――彼女が扉を開いた事を引き金として爆発が起きた事をそれらは示していた。
「……こんな仕掛けがあるとは」
爆風が収まると同時に、舞い上がった土煙を掻き分け時計塔の中に足を踏み入れる。その肌に、一切の傷は見えない。
「ダメージ無しってマジか……てかなんでここに居るんだよ、姉ちゃん」
上層へ繋がった螺旋階段の中腹から、一人の人狼族がキアレを見下ろしていた。
「……ガルム?」
刹那、キアレの脳内を思考が巡る。ここに居るということは彼は敵なのか? だとすれば何故リリムに対して敵対を? 一体何の目的で? 無数の考察が、彼女の動きを止めた。
「リリムちゃんを助けに来たって感じ? 真面目に忠臣続けてたんだ。困るなぁ……俺、あの子のこと裏切ったって感じになるだろうし。姉ちゃんを殺したく無いんだけど」
上空から飛び降りると共に、敵であることを宣言する。その言葉が、キアレの彷徨う思考を透き通らせていく。彼はリリムを裏切った。その事実は、彼女の行動を決めるのに十分なものだった。
「……そうですか。奇遇ですね。私も弟を殺すのはあまり気持ちが良いとは思えませんね」
言葉と裏腹に、狼の魔力は解き放たれた。時計塔内部の気温が――いや、この国全体の気温がみるみるうちに下がって行く。大きなガラス窓の外に降っていた大粒の雨が少しずつ個体となり、霙となり――純白の雪へと変わって行く。
「相変わらず綺麗だなぁ……」
大時計の内部、精密に組み合わされた歯車は彼女の力に呑まれ、時間を止めた。二人の吐き出す息は白く、全身の筋肉が萎縮する。戦闘のメインは肉弾戦ではなく、魔法の衝突になる――はずだった。
「氷狼礼装」
キアレの取った選択は、あくまでも肉弾戦。その証拠に、彼女の肉体を凍てつく魔力が覆い、鎧を作っていく。しなやかな腕が重厚な氷で形成された攻撃的な爪となり、頭部には狼を模した紫紺の兜が形成されていた。
「……やる気ってことで良いんだよな」
地面に接する程に肥大化した前腕を持ち、体勢を低く下げ、凍てつく氷を纏った尾をピンと立てたその姿は正に獣。重く冷たい魔力と、その姿が放つ威圧感に思わず生唾を飲みながら、ガルムは問うていた。
「ええ。殺します」
僅かな思索の時も挟まずに、自身の魔力と同等の冷たさを秘めた声で、キアレは答える。機密部隊で育てられた彼女には、肉親を殺すことへの不快感はあれど、躊躇いは存在しない。
「まぁ、姉ちゃんならそうだろうよ」
予測できた返しに、動揺は無い。彼もまた、殺意と共に魔力を解き放つ。彼の纏う力は、姉とは正反対の獄炎の魔力。煌々と燃える炎を尾に纏い、同色の直剣を創り出す。
己の得意とする力をその身に纏い、戦闘能力を跳ね上げる……二人の固有魔力の本質は同じ。ただガルムの姿は、キアレのものとは違い人のシルエットを保っていた。
「昔は互角だったよな、隊長」
ガルムの軽口に対し、キアレは何も答えない。興味など微塵もないかのように、踏み込みの体勢を取る。
一瞬、時間が止まったかと錯覚する程の静寂が二人を包んだ。互いのどちらかが隙を見せれば、戦闘は終わってしまうだろう。そんな思考の元、ガルムは剣先を僅かに揺らす。隙に見せた誘いを餌に、動きを待っていたのだ――それが、間違いと知らずに。
「まず一本」
十分の一秒にも満たぬ、僅かな時間。背後からキアレの声が聞こえて、ガルムは思わず振り向いていた。その、夜空のように綺麗な瞳に映っていたのは、肩から千切られた、燃え盛る剣を持つ何者かの腕を握り、恐ろしい程に冷たい視線を向ける獣の姿。
「……は?」
視界に唐突に飛び込んだ情報に、ガルムの思考は止まらざるを得なかった。彼女の手の内に存在しているいるのは、間違いなく彼が握っていた剣と、右腕。
「……そんな、わけ」
無い――そう言いたかった。彼の言葉を止めたのは、一瞬確認した自身の右腕の状況。あるはずのものが、彼の右肩から先が、そこには無かった。ならば先程の景色を、受け入れるより他無い。
彼の片腕は、確かにあの獣の手によって捥がれていた。肩から流れるはずの血も、焼け付くように痛むはずの感覚も、その全てが極氷に閉ざされ、遮断されていた。故に、ガルムはそれに気づくのが遅れてしまったのである。
「そんなわけ、あるんですよ」
もう一度、キアレの影が揺らいだ。それよりもほんの僅かに前、ガルムは龍脈の瞳に魔力を注ぎ、解き放つ。
「っは……舐めんじゃねぇ……!」
龍脈の眼によって底上げされた動体視力によって、辛うじて彼は姉の姿を捉え、その突撃に刃を重ねる。
ガルムの刃とキアレの爪が激突し、時計塔内部を衝撃が駆け巡る。炎と氷、双方が激突したのならば炎が氷を融かす――それが、世界の常識だった。にも関わらず、キアレの爪は一切の融解を見せない。
「舐めてなど、いませんよ」
彼女の中に、慢心や驕慢といった、ガルムを見下すような意志は全く存在しない。ただ純粋に、主を裏切った存在への殺意のみが満ちていた。
「氷花開地」
刃を蹴り上げると同時に、キアレの爪が大地に真っ直ぐ叩きつけられる。魔力が周囲を迸り、元々低い気温が、更に一際下がってゆく。
「んだそれ……!」
明らかな危険を察知し、ガルムが跳ぶ。それを追従するように、氷の茨が伸びていく。
「狐炎乱舞!」
片腕で魔法陣を刻み、炎の狐が群れを成す。空を蹴り跳ね回る彼とは全く独立して、茨を喰らい、溶かしていく。時計塔の内部を、足に纏う炎で加速しながらその茨の先を彼は深く見定めていた。
「極限状態に陥った時、目の前の事象以外への対応がおろそかになる」
そんな彼の意識の隙間をついて、再び背後で聞こえた声。振り向くことは無く、背後に存在するであろう敵に向けて烈炎を解き放つ。
「悪い癖だと、教えたはずです」
彼の背部から伸びた、焔の波動。激しい熱を帯びたはずのそれを、キアレは瞬く間に凍らせていた。再熱により融解を狙ったガルムのうなじを正確にキアレの爪が掴み、大きく振り回しながら大地に打ち付ける。
「っが……」
刹那の後、彼の着地地点を中心に、巨大なクレーターが形成されていた。そこで痛みに悶えながらも、直ぐに彼は立ち上がっていた。
「襲え……!」
ガルムの手の動きに合わせて自身に襲い掛かる狐火の群れを二本の爪を大きく薙ぎ払い、キアレは無慈悲に一蹴する。明確な力の差がそこにはあった。
「氷花開地 六花葬!」
氷風が吹き荒れ、ガルムの体を十字架に張り付けられたかのように凍らせていく。
「がぁ……」
抵抗の為に解き放たれた灼熱の魔力ごと、キアレの力が氷の中に閉ざしていく。
「さようなら、私の弟」
六輪の氷の花が咲いたガルムの胸を、背後からキアレの爪が容赦なく貫いた。巨大な爪の先に収めた弟の心臓を、無慈悲に握り潰す。夥しい量の返り血が、キアレの全身に飛んでいた。命の温もりを宿すそれは、彼女に触れた瞬間に凍りつく――前傾姿勢が故に、凍てつく返り血を浴びた彼女の髪は、一瞬それが地毛と錯覚するかのように深紅の層を纏っていた。
「……尻尾は、貰っていきますね」
爪を引き抜くと同時に、ガルムの骸がうつ伏せに倒れる。その腰部に生えた、未だ生命の息吹を宿す美しい毛並みの尾を握り締め、勢い任せに引き抜く。溢れ出す血液も、それが凍てついていく様子も、もう彼女の興味を引くことは無い。
「いただきます」
少しも躊躇することなく、獣はその尾を貪る。一口、また一口と尾の肉が彼女に飲み込まれる度に、徐々にその魔力が高まっていく。
「不味い」
ゆっくりと咀嚼しながら、弟の尾を自分の中に取り込んで――全てがキアレの中に宿った頃には、彼女の腰にもう一本の尾が生えていた。
「……魔法陣の破壊をしなければ」
獣の鎧から自身を解き放ち、口元に付いた血の結晶を拭うと同時に、時計塔上部への階段へと足を向ける。
何かが砕ける音がしたのは、そこから数分程の時間をおいての事だった。




