八十三話 夢と言う名の檻
異変に最初に気づいたのは、見た目だけは最年少の少女だった。リリムに願いを告げ、いつの間にか眠っていた彼女は今、知らない場所にいた。
「ここは……」
メレフが居たのは、建てられて時間が経ったのが分かる、柔らかい陽光の入る、少し塗装の剥がれかけた丸太小屋――知らない場所などではなく、心の奥底に絡みついた、大好きな場所。
「……余の、正家? 夢でも、見ているのか?」
使い古されたベッドに横たわる体を起こし、ベッドを降りる。彼女の背の翼も、腰の尻尾も、存在しない。
「と言うことは……」
頭に手を伸ばすも、いつもはあるはずの、角の引っ掛かりが存在しない。普段は足元まで伸びている髪も、今は肩あたりまでしかない。困惑に脳を支配されながら、彼女は記憶を頼りに部屋の反対側、手作りの壁で区切られた台所へと、向かった。
「お、やっと起きたさね」
「……あね、うえ」
ブロンドヘアを持つ、スラリと背の高い少女がそこに立っていた。ツギハギだらけのエプロンを身につけて、何か料理をしている、メレフが再会を懇願する少女が。
「どうしたんだい、そんなお偉いさんみたいな呼び方して。また新しい本でも誰かから貰ったのかい?」
「あ、ぁ……」
有り得ない、そんなことは分かっていた。それでも、幾星霜の時に込められた想いは彼女の理性よりも先に動いて……勢いよく、彼女に向かってメレフは飛び込んでいた。
「おっと……料理中だろ、危ないぞ……」
「お姉ちゃんっ……!」
いつもの尊大な言葉遣いは消え、涙をぼろぼろとこぼしながら、姉に抱きついて泣いていた。
「どーしたどーした……怖い夢でも見ちまったか?」
料理の手を止め、少女はメレフを受け止め、その背を撫でてくれていた。姉としての、当然の責務だと言わんばかりに。
「夢……長い夢を見ていたかも。お姉ちゃんが居なくなって、一人ぼっちで……ずっと、長い間……怖くて、寂しかった……」
「……そうか、大丈夫だよ。姉ちゃんは居なくなったりしないからな」
優しく背を撫でながら、安心させるように声をかけ続ける。メレフも、それに縋るように涙を流し続けていた。彼女がどれだけの間、姉と引き裂かれていたのかは、分からない。数千年、数万年、あるいはそんな程度では到底及ばないほどの時間か……魔竜の伝承が完全に残っていない以上、それは知るよしも無い。ただ気が遠くなるほどの長い時間が経っている、それだけは確かなことだった。
「ごめんなさい、急に、泣いちゃって……」
「怖い夢を見ることくらいあるさねぇ、アタシの腕の中なんて辺鄙な所でいいなら、いくらでも泣きな。私はあんたの姉ちゃんなんだから」
そう、怖い夢。こんなに優しい姉との、幸せな暮らしが突然全て奪われて、遥かなる時間が過ぎていったことなど、ただの夢。そんな現実が、あるはずがない。
「……夢、ただの夢」
自分に、言い聞かせるように反復する。あんなものは、ただの夢なのだ。
「そうさね、ただの夢だよ。だから大丈夫さ」
姉も、そう肯定してくれている。此処こそが、現実……そう思い込むことにして、メレフは逃げた。会えたのなら、もうここにずっと居ればいいと。
「……落ち着いたかい? 大丈夫なら、お昼にしようか」
「うん、大丈夫……」
とめどなく溢れ続ける感情に一旦の区切りをつけようと、少女は姉の腕の中から離れた。不安定な感情を抱えつつ、料理を再会し始めた姉を、手伝う。彼女に、限りない感謝を抱き、辛い記憶の一切合切に蓋をして。
決して広くはない小屋の真ん中に設置されたテーブルで、二人は向き合って座っていた。その上には、しっかりと味付けされたのが見て分かる、肉と野菜の炒め物が置かれており、彼女らはそれに舌鼓を打っていた。
「昨日、一緒に村のみんなを手伝った甲斐があったね! 肉食えるなんて久しぶりじゃないか?」
彼女達の暮らしは、裕福では無い。親はこの小屋だけを残してどこかへ消え、頼れる親戚も居ない。村の雑用に駆け回り、対価として毎日の暮らしを繋ぐだけのものを受け取る……満足な食事すら、取れない日だってあったーーだからこそ、姉は暴食に堕ちたのだ。
「美味しい……おいし……」
頬を抑え、眩しい笑顔で少女はそう述べ続ける。それだけで、姉は嬉しかった。
「相変わらず美味そうに食ってくれるさねぇ」
食事を口に運び続ける彼女に対し、姉はそれを見守っているだけだった。
「お姉ちゃん、食べないの?」
途中で腕を止め、少女が尋ねる。
「……アタシは良いのさ。作ってる途中で先に食べちまったからさ。あんたで全部食べちゃって構わないよ」
それだけ言うと、姉はにっこりと笑って見せた。彼女は、いつもこう言うのだ。自分は大丈夫だから、と……本当は、そんなことはしていないというのに。自分ではなく、妹を満足させるために。
「……お姉ちゃんも、食べよう。一緒に食べたい」
そんな優しい嘘に気がついたのか、小さなお皿に肉を取り分け、少女が差し出す。
「はは、じゃあありがたく頂くとするよ」
一瞬弱々しい笑顔を見せて、彼女はそれを口に放り込んだ。一口、また一口。しっかりと、味わうように。
「……美味いなぁ」
小さな呟きと共に一筋の涙を溢して、妹から隠すように拭う。
「そうだ……夢の話、詳しく聞いても良いか?」
思わず溢れた涙を隠すためか、姉は突拍子も無く、そんなことを少女に尋ねていた。
「詳しく……? さっき言ったので全部だよ……」
「……アタシはそうは思えなくてさ」
明らかにテンションの落ちた妹に対して、更に彼女は言葉をかける。
「あんたは、アタシが居なくなったって言ったね。それに、その後に一人ぼっちだった、ともね」
「どういう、こと?」
いまいち要領を得ない彼女の言葉に、少女は首を傾げていた。完全に彼女の手は止まり、小さな腕を組んで考え込んでいる。
「あんたの人と打ち解ける早さ……社交性って言うのかね? その高さは、アタシがよーく知ってる。この村でアタシ達が生きていけるのだって、あんたの愛嬌があってこそさね。だから、ひとりぼっちなはずがない……って思ってな」
少女は静かに目を閉じ、思い出したくないと蓋をしてしまった現実を、思い返す。
「……それ、は」
姉の、言う通りだった。一人なんかではない。ただ姉の居ない場所にぽっかりと穴が空いているだけで、彼女を大切にしてくれる存在が、少なくとも六人。家族にも近しい存在が、すぐにできた。もうその時点で、彼女は一人などでは無かった。ゆっくりと、彼女は目を開いた。
「どうだ? 違うか?」
「……合ってる、よ」
その返しに満足したように、それ以上姉は何も言わない。まだ足りないだろう? と言っているようにも、見えた。少女は再び目を閉じ、蓋の下から、一つの記憶を引っ張り出す。自分を友と呼んでくれた存在を、自分の我儘を叶えると約束してくれた、お人好しのことを。
「……リリム」
その名前を、呼んだ。誰よりも強い理不尽な力を持っているというのに、心にしんしんと雨を降らせる優しき魔王の名を。それを引き金に、彼女の姿が変わる。サラサラの髪は足元まで伸び、その頭には威厳を示すような捻れた二本の角。背には体を包んでも余るほどの大きな翼に、腰には太くもしなやかな尻尾。誰も知らない村の、一人の娘から、誰もが知る伝説の魔竜へと。
「それがあんたかい、カッコいいじゃないか」
その姿を見て、姉は静かに笑っていた。安心したように。
「……姉上、余は」
「分かってるさ。あんたはここに居るべきじゃぁないんだろう?」
その言葉と共に、彼女は立ち上がった。メレフに静かに歩み寄り、包み込むように、抱きしめる。巣立つ子を見送る親のように、少しだけ、名残惜しく。
「行ってくる、姉上」
「……おう、行ってこい。あんたの大切なものの為に」
その会話を最後に、姉の体がメレフから離れた。振り返ることなく、魔竜は小屋のドアへと歩み出す。本音を言えば、ここに居たい。何度も、振り返りたかった。けれど、それは友を、姉を裏切ることになるからと、彼女は扉に手をかける。
「姉上、必ず助けるからな」
覚悟のようにその言葉を発して、立て付けの悪い扉を彼女は開いた――
――暗い部屋で、彼女は目を覚ました。品質のいいベッドと棚だけが置かれた、広くはない部屋で。静かに体を起こし、ベッドから立ち上がる。そこで、彼女は部屋に自分のものではない魔力が満ちていることに気がついた。
「……これが、原因か?」
先程彼女が見ていた夢は、『夢』と称するにはあまりにもリアルで、自分が実際にそこに居たかのように彼女には思えた。
「面倒だな……」
黒い目を輝かせ、その魔力をじっと見つめる。そこには、確かに敵意が含まれていた……ただし、メレフだけではなく、この国の全てに対しての。確かにこの魔力のせいで、あの甘い夢の檻に閉じ込められたと考えて差し支えは無い。
「……そうだ、リリムは」
敵意に最も敏感なのは、彼女だ。ただ、今回は対処が何もされていない。つまり、リリムもそれの影響を受けている可能性が高いと、メレフは判断した。同時に、過去に囚われた彼女は、自分の力だけではその檻から脱出できないだろう、とも。
「行ってやらねばなるまい」
悠久の時を生きているが故の年の功、と言うものだろうか。結果から見れば、メレフのこの判断は正解だったと言える。
彼女が吹き荒れる魔力と共に部屋を飛び出したのは、別棟の酒場から、ちょうどガルム達が姿を消した頃だった。




