八十二話 おやすみ
内心を吐露し、安心しきってしまったのか、静かに寝息を立てるメレフを背負って、リリムは港の中で最も大きな施設に向かっていた。
「……遅くなりすぎたわね」
大きな扉に手をかけ、開く。昼に足を踏み入れた時の喧騒は、その広い酒場の中には存在しなかった。ただ鼻の奥をツンと刺激する発泡飲料の香りだけが、満ちていた。
「散らかってるわ……」
明かりも完全に消えた暗い床を小さな魔力で照らすと、その上には空瓶やグラス――あまり言及するべきではないかも仕入れないが、元は食べ物だったものまで、散乱していた。
「全くですよ、汚いったらありゃしない……」
闇の奥から聞こえた声に、リリムは視線を向けた。先ほどの照明魔法も同時に。
「眩し……」
そう言って顔を顰めたのは、リリムと同世代……あるいは少し下の、掃除道具を手に持った人竜族。赤い長髪を後ろで束ねたその姿は、少女にも見える……が、リリムは筋肉のつき方から、少年だと判断した。
「ご、ごめんなさい……」
「大丈夫です。ガルムから聞いてますよ、リリムさん。寝室はこっちです」
そう言うと彼は道具をその場に置き、リリムを導くように歩き始めた。彼女としては名前があるのなら聞きたかったのだが……
「一番奥がリリムさん、その手前がメレフさんの部屋です」
尋ねる暇を伺っているうちに、個室にたどり着いてしまった。酒場と繋がった別棟の、宿泊施設。そこをガルムが手配していてくれたのだった。
「……感謝しかないわね」
そんなことを呟いて、彼女はメレフの部屋の扉を開けた。中には柔らかそうなベッドに、小さな棚。宿泊するためだけの設備といった感じだが、その品質は高い。
「よいしょっと……」
そこに、大切な友人を横たわらせた。
「ん……」
メレフは猫のように体を丸めて、深く眠っていた。リリムがそっと頬を触れると、安心したような笑みを溢す。今の姿だけを見れば、彼女が七大魔竜とは思えない。それだけに……
「……ふざけてるわ」
実験というエゴでメレフの姉を奪い、彼女自身を魔竜へと変貌させた人々への、行き場のない怒りをリリムは抱いていた。
「あねうえ……」
寂しげな声で、メレフは寝言を漏らしていた。
「必ず、救うからね」
そう彼女に告げ、リリムは部屋を出た。廊下に立ち、足を向けた先は自身の個室――では無く、酒場だった。何故かと問われれば、眠れない気がしたから。闘技大会を終えた頃には確かに疲れを感じていたはずなのに、今の彼女の中には、疲労も眠気も存在しない。それは彼女が生物の枠組みから外れかけていることを暗に示していたが、そんなことをリリムは知るよしも無い。
暗い酒場に、リリムは再び足を踏み入れた。ものの数分前までは、昼の騒々しさを示すもので溢れていたそこは、すでに綺麗に片付けが済んでおり、人は誰も存在しない。
「流石の手際だね」
「褒め言葉よりも、何かものが欲しいかな」
「だから酒持ってきてやってるだろ? これからも上手く頼むよ、色々ね」
隅のテーブルで、小さな蝋燭の炎を頼りにそんな会話を交わす、目隠しをつけた人狼族と、赤い髪の人竜族の二人を除いて。
「……ただいま、ガルム」
一人で居るよりは、可能ならば誰かとともに居たい。リリムの体は、彼等の側に自然と動いていた。
「あ、おかえりリリムちゃん。随分遅くまで街を見てたみたいだね」
「ええ。心配かけたかしら」
「リリムちゃんは強いけど、少しは心配したさ」
リリムは少し、申し訳なかった。しかしそれはすぐに、撤回されることとなる。
「嘘だよ。ガルムはリリムさんのこと微塵も心配してなかった」
彼と話していた、赤髪の少年の言葉によって。
「おいおい、こういう時は口だけでも言っとかないといけないだろ……」
「失言だよ、それ」
彼の鋭い指摘に、ガルムはがっくりと肩を落としていた。どうやら二人は気の置けない友人のようで、リリムは少し微笑ましいと思っていた。
「紹介するね。彼の名前はキャナ。俺の相棒で、この施設の裏方管理人だよ。何でもできる良い子さ」
「だからと言って何でも押し付けて良いわけじゃ無いよ、ハリボテ管理人」
赤色の液体が入ったグラスを傾けながら、キャナは不満そうに告げた。一方ガルムはというと、全く悪びれる様子はない。言ってはみたものの、キャナもそれは諦めているようだった。
「……それで、リリムちゃんは寝ないの?」
ガルムからの問いを、頷きで肯定する。
「眠れる気がしなくて」
そう、言葉を付け加えながら。興味深そうに、ガルムの視線が――布で隠されては居るが、向けられていた。
「それはまたどうしてかな」
「……分からない。体が眠り方を忘れたみたいに、全く寝ようと思えないの」
そう告げるリリムの声は、少し不安を孕んでいた。当然だ。今まで当然のように行なっていた、睡眠という行為ができなくなっている……決して安定しているとは言えない彼女の心に不安をもたらすには、十分すぎるほど。
「なるほどな……」
考え込むように、ガルムは腕を組んだ。
「多分だけど、リリムちゃんの体は疲れをすぐに回復しちゃうんじゃ無いかな。疲れないから、極論休む必要は無いわけだ」
そこだけ聞けば、デメリットは無いように聞こえる。
「リリムちゃんに当てはまるか分かんないけど……そういうのって、多方命を削ってたり、とかさ。何かしらの強烈な代償を払ってることが多いんだよ。だから、あんまり良くは無いな」
「……そんなこと、言われても」
どうしようもない、というのがリリムの答えだ。
「睡眠魔法とかは、どうかな」
「……異常付与魔法というものにあれは分類されるから、自分にはかけられないの」
「そういえばそんな仕組みもあったな……」
その仕組みは、何人たりとも侵すことのできないものだ。いくらリリムでも、使っているものは魔法が故に、その決まりを超越はできないーー少なくとも、今は。
「だったら、僕がやろうか?」
そう言ったのは、キャナだった。澱みない指の動きで、空中に小さく魔法陣を描く。それは紛れもなく、睡眠魔法のもの。
「……良いんですか?」
「全然平気、得意な魔法だから」
「難しいのに……凄いですね」
リリムの言う通り、眠りを誘う魔法というのは、相手によって適正な魔力の使い方が変わる、繊細なものなのだ。それを得意と豪語する彼に、感心していた。
「……お願いしてみましょうかね」
「任せて」
すっと立ち上がると、キャナはリリムの背後に立った。
「失礼するね」
彼女の背に右手を触れさせ、術式を起動する。複雑な魔法陣の中に魔力が満ちていき、発動する直前――
「あれ」
魔法陣が、音を立てて砕け散った。キャナの術式が失敗したのではない。彼の魔力操作は、完璧だった。
「……ちょっと待って下さいね」
リリムが、自身の胸に手を置き、魔力を込める。一瞬強大な魔力が溢れたかと思うと、即座にそれは霧散していた。
「何したの?」
そう問うのは、ガルム。
「私の固有魔力は、全ての者を超越し、他者による自身への干渉を弾く、というもの。その対象は、私自身が無意識で判断しているの。だから、キャナ君の魔力を弾かずに受け入れるようにしたの。多分、これで良いはず」
彼女の言葉を聞き、キャナはもう一度魔力を解放し、睡眠魔法を起動させていく。
「ぅ……」
目に見えて、リリムの瞼が重くなっていた。キャナの魔力を、害意ではないと受け入れたのだ。こくり、こくりと彼女の頭は揺れていた。
「後でベッドまでは運んであげる。朝までは短いけど、ゆっくり休みなよ、リリムちゃん」
「ありがと……」
感謝の言葉を最後に、リリムの意識は眠りに落ちた。穏やかで、小さな寝息だけが酒場の闇に溶けてゆく。
「……一番の懸念点、クリアできちゃったんじゃないかな」
彼女が眠りについたのを確信してから、キャナが口を開いた。心底嬉しくてたまらないと言ったような表情で。
「そうだね、リリムちゃん以外なら、あの器があれば負けることはないさ」
同じく、異様な笑みを浮かべると共にガルムは目隠しを外し、放り投げた。その下に見えたのは、翡翠色の未熟な龍脈の目ではなく、メレフと同じ、漆黒の完成した瞳。
「キャナ、そっちの首尾はどうかな?」
「あの胡散臭い奴の指示通り、国全体に作用する睡眠魔法を起動済み。この魔王様の仲間達も、ぐっすりだよ」
二人の会話に、温度はない。冷たい声で、言葉を交わしていた。
「……上手くいきそうだな」
黒い瞳をキラリと輝かせて、ガルムが言った。
「この子が人を疑わない子で良かったね。国を潰すなんて計画、バレたら僕たちまとめて死んでるでしょ」
「だな、間違いない。危ない橋を渡った甲斐があったよ」
ガルムが、懐から小さな水晶を取り出して魔力を込める。
「犬畜生が、俺に何の用?」
苛立ちを含んだ声が、それから鳴った。声の主は、リリムを憎む者。
「リーデル、君の計画は上手くいくよ」
「……ははっ、そうかよ! 中々やるじゃん!」
水晶の向こうからは、心底嬉しそうな声が聞こえた。両手を叩き、歓喜を全身で示しているのが、音だけでも分かる。
「今からそっちに向かうよ。始めよう」
そう言いながら、ガルムは転移の魔法陣を描いていた。
「早く来いよ、ワンちゃん。一緒にこんな世界ぶっ壊してやろうぜ!」
悪魔の声に適当に答えを返しつつ、ガルムは眠りこけるリリムを背負って、魔法を起動させた。
「おやすみ、リリムちゃん。朝が来たら起こしてあげるよ。まぁ尤も――」
彼等の姿が、光の粒となって掻き消える。
「もう、朝が来ることは無いけどね」
恐ろしく冷たい声で、そんな言葉を残して。




