七十一話 大公錬金術師 生命のメルディラール
「いやー、助かった。お嬢さん、いい人だねえ!」
半壊した木の像の前であっけらかんと話すのは、つい先程まで掠れた声で助けを求めていた、誰か。長いウェーブのかかった紫の髪に、彫刻のような耽美な顔、床につくほどに長い白衣。その下には、種族を……人蜘蛛であることを表す蜘蛛の足が覗く。栄養の足りていなそうな細い腕の先には、星の装飾があしらわれた、黒い皮のグローブを身につけていた。
「……錬金術師か」
リリムは、その人物を、警戒していた。助けを求めていたがために、反射的に解放してしまったが、隠された通路の先という明らかに怪しい場所にいたそれを、警戒するなという方が無茶かもしれないが……
「ひとまず、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
人蜘蛛にそう尋ねたトーヤの両手は、腰に刺した大太刀に添えられている。不審な動きをすればいつでも刃を走らせることができる体勢――即ち、彼もリリムと同じく、警戒しているようだった。
「警戒されてるねぇ、怖い怖いっ……」
そんなことを言いつつ、人蜘蛛は大きく伸びをして見せた。まるで少しも意に介していないかのように。
「私はメルディラール。大公錬金術師、生命のメルディラールさ。性別は……今は男。戦いは苦手だ。どうか武器を下ろしてくれると助かるねぇ」
手袋の星の装飾を、六芒星に変えながら放たれたその言葉に、敵意は無かった。
「……トーヤ、ひとまず警戒を解いて大丈夫よ」
「承知」
リリムに促され、警戒を解いた彼を見て、メルディラールはにこりと笑顔を見せた。
「君ら強いねぇ。そこの鬼の……トーヤ、と呼ばれていたね。君はともかく……綺麗な髪のお嬢さん、君は一体何者かな? とんでもない魔力の量と質だ……私は言ったのだから、君の名前くらいは聞いてもいいかな?」
笑顔のまま、彼はそう言った。ただ、その視線は真っ直ぐ、リリムに注がれている。彼女の一挙一動を、観察しているようだった。
「……リリム=ロワ=エガリテです。よろしくお願いします、メルディラールさん」
もちろんそれを、リリム自身は気づいている。ただ、特に咎めることはしなかった。言葉と共に差し出されたリリムの右手を、メルディラールは不思議そうに見つめていた。上半身の人間の腕と、八本ある蜘蛛の足のうち、一番手前の二つを組み、考えているような素振りを見せる。
「……あぁ、握手というやつかな?」
合点が入ったかのように手をポンと鳴らすと、彼は同じように右手を出し、リリムと握手を交わした――
「っ……!」
その瞬間、メルディラールの長身が宙を舞った。リリムの細い腕が、彼の右の頬を撃ち抜いていたのだった。空気を切り裂く弾丸へと変わったその体は、部屋の中央、大きな木を模した像に激突し、止まる。
「……リリム様、一体何を⁉︎」
声を上げたのは、トーヤ。リリム自身も、何をやったのか分かっていないような顔だった。
「――は、すっ……すみません!」
ひとまず、自分が彼を殴ってしまったことは理解できたらしい。珍しく焦りの表情を見せながら、リリムはメルディラールの側へと駆け寄った。
「いや、謝らなくていい。キミではなく、私の落ち度だ」
ゆらりと体を起こしながら、メルディラールはリリムにそんな言葉を返す。彼女に撃ち抜かれた頬を、何度か触り、クククと少し不気味な笑みを浮かべていた。
「悪いね、私がこの術式を切るのを忘れていた」
メルディラールが、黒い手袋を外しながら言う。その下、彼の手のひらには、淡い光を放つ複雑な魔法陣が刻まれていた。
「よく使う術式は、一からの起動が面倒だからここに刻んでいたんだ。その中に分解の術式があるから、反応してしまったのだろうね? 熱された物に触れれば反射的に手を引くように、おそらくリリム君に備わった防衛機構のようなものだ……なにか、そうさせるような過去があったのだろうね。まぁ、気にする必要はないさ」
そんな説明をしているうちに、歪んでいた彼の顔が自然と元通りになる。錬金術を絡めた再生だろうか。小さな手鏡を取り出すと、メルディラールは自分の顔を見て、数度うんうんと頷いていた。
「ふむ、完璧に元通り。私のお気に入りの顔なんだ。とっても綺麗だろう?」
こちらの心情など考えず投げかけられた言葉に、リリムは頷くしか無かった――まぁ、実際綺麗な顔立ちではあるし、否定する理由は無いのだが。
「さて、聞きたいことがあるんだろう? そういう顔をしているよ、リリム君」
脱線しかけた話のレールを、メルディラールが元に戻した。誰のせいでそうなったかは、まぁ考えない方が楽だろう。
「……あ、はい。ここは一体、何なんですか?」
リリムの問いに、彼は一度腕を組んだ。
「ふむ、ここが何か……ねぇ」
それだけ言うと、メルディラールの口は閉じてしまった。答える気がないというわけではなく、純粋に、どう答えるべきかを迷っているようだった。
「一応私の保身のために、ここは私とは無関係な場所だということを先に明かしておく……そうじゃないと、君を敵に回すことになりそうだ」
彼の言葉に、リリムは頷く。自分を敵に回したくないであろうことは、彼女自身がよく分かっていた。逆に言えば、それさえやらなければ、真実を話してくれるということになる。故に、それ以上彼女は何も言わなかった。
「端的に言えば、国家転覆の根城……と言えるかな」
「……は?」
突拍子のないその言葉に、思わずリリムは硬直する。
「もう少し、詳しくお願いしても?」
その問いは、当然のものであったろう。
「別に構わないとも」
それだけ言うと彼は、懐から小さな盃を取り出した。親指程の大きさの、本当に小さな盃を。
「リリムちゃん、聖杯というものを君はご存知かな?」
「聖杯……ですか……」
「願いを叶える力を持つ、聖なる器。錬金術の終着点の一つ、だったはずです」
口籠るリリムに助け舟を出したのは、トーヤだった。
「おや、トーヤ君は錬金術に興味が?」
「たまたま、最近読んだ書物に錬金術について記されていただけですよ……ただ、聖杯は理論のみが提唱されただけで、作成は不可である。そう記されてもいましたが?」
訝しげな表情を浮かべる彼の指摘に、メルディラールはうんうんと頷く。
「その通り。ある天才が最近、理論上では可能であることを示したんだ。その試作品がこれさ」
彼の手から、リリムに向けて小さな盃が投げられる。
「……とっ」
両手で包み込むように、リリムはそれを受け取った。小さなサイズからは想像できないほどに重い。重いのだが……同時に、どこか不十分でもあるとリリムは感じた。
「なぜ聖杯が『理論上は』という扱いなのか。それは、作成に魂を使うからだね」
リリムが、頭の痛そうな表情を浮かべる。理解が及んでいないといったところだろうか。
「聖杯とは、器なんだ。死して、冥府に落ちる前の魂を宿すためのね。そして同時に、宿した魂を代償として、願いを実現する魔術式でもあるのさ。その試作品は、魂を宿す前の段階だ。まぁ、もちろん不可能なことはあるよ? 例えば死者の蘇生なんかだね。一度冥府に落ちた魂を呼び戻すことはできないとも」
「……それと、この部屋に一体どんな関係が?」
ひとまず、リリムは納得がいったらしかった。おそらく、先程リリムが感じた不足感は、魂が宿っていない故に、か。この説明を経てようやく、問いは最初のものへと戻る。
「ここは、ある人の計画のための、いくつかある施設の一つさ。それに使用する魔力を、闘技大会の舞台から、この木に蓄えているんだ。その計画とは、『この国を丸ごと材料に、聖杯を作ること』だ。故に、結果的に国家転覆につながる場所というわけだ」
それ以上は、彼は何も話さない。リリムの言葉を、待っているようだった。
「……その計画の詳細を、ご存じですか?」
リリムの目は、燃えていた。そんなことを、許せるはずがないと。
「残念ながら、君が求めているようなことは、私は知らないよ。強いて言えば、実行は三日後であるだろう、ということくらいかな」
「三日後……それだけ分かれば十分です」
そのまま黙ると、考え込むような素振りをリリムは見せた。
「おや、もしかして止める気かい?」
「もちろんです」
当然、リリムはそう返す。
「私は部外者です。ですが、ここまで聞いて、我関せず……そんなことは、私にはできません」
毅然と言い放ったリリムを、メルディラールは優しい笑みで、見つめていた。
「君は、私の可愛い後輩にどこか似ているね。改めて気に入ったよ。この生命のメルディラールが、手助けするとしよう」
そんな提案に怪訝な表情を浮かべるのは、リリムではなくトーヤだった。
「おや、まだトーヤ君は私を信用してくれないのかな?」
「……おや、そう見えますか?」
事実トーヤは、いつでも攻撃を仕掛けることが出来るように、魔力を構えていた。
「安心したまえよ。私は自分の興味が行動原理さ。リリムには実に興味をそそられる。それに、寝首を掻いたとしても、私程度に殺せるような存在じゃ無いとわかっているだろう?」
「確かに、一旦は信用するとしましょう」
その言葉と同時に、彼の纏っていた魔力が霧散する。それを見て、リリムは安心したようににこりと笑った。
「では改めて。よろしくお願いします、メルディラールさん」
「あぁ。よろしく頼むよ、優しい魔王のリリムちゃん」
しなやかな手と、細く角張った手とで、しっかりと握手が交わされる。リリムは既に、この国を渦巻く陰謀に、巻き込まれていたのだった。




