六話 失ったもの 残ったもの
随分と長い間、卵から孵った魔王は泣き叫んでいた。失ったものが余りにも大きく、幼い彼女の心はボロボロになっていた。
「いつまで泣いてんだろ……」
ふと、彼女は涙を止めた。きっかけは彼女自身にも分からない。涙が止まったのではなく枯れてしまったのかもしれない。ふらふらとした足取りで、地下の牢獄を後にする。暗い地下の長い廊下を歩いて行く。
「キアレ……」
自身の従者の名を呟いた。そう遠くない場所で、キアレの魔力を感じる。それだけが、今の彼女にとっての心の支えになっていた。長い廊下には、人間の兵士達がリリムのことを待ち構えていた。加減することなくあれだけの魔力を放出していれば、察知されても何らおかしくはない。狭い廊下に、数十人の兵士。その全員が、意識を失って倒れた。
「……」
少し悲しげな顔でそれらを見つめて、また歩き出す。彼女の圧に押されて、兵士達は気を失ってしまったのだ。
長い長い、どこまでも続く廊下を歩き続ける。明らかに、おかしい。廊下をいくら歩こうと、景色が全く変わらない。一度立ち止まり、リリムは呟いた。
「面白くないことするのね」
右足を、一歩強く踏み込む。右足を中心に魔法陣が展開され、黒い雷が放たれる。雷が壁を這う。叫び声が聞こえて、少し遠くに女騎士が倒れていた。視界にあった違和感が消えて、廊下の端が見えた。端の壁には、僅かにヒビが入っているように見えた。女騎士をふわりと乗り越え、その壁の前に立つ。壁にそっと手を触れると、ヒビが大きくなり、壁が砕け散った。中は牢屋で、キアレが縛られ、ぐったりしていた。目立った外傷は無く、純粋に気を失っているだけのようだ。息遣いが荒く、首枷と手錠が、彼女が呼吸するたびに首枷と手足を縛る縄が青く輝く。ラピスラで縄まで作れるのか、とリリムは少し感心した。
「キアレ、大丈夫……? 返事して……」
呼吸はしているし、外傷もない。ただ意識を失っているだけだと思いたいのに、どうしても不安がリリムにまとわりついて離れない。
「リリム……さ……ま……」
か細い声で、返事が聞こえた。
「良かったぁ……今解くから、動かないでね」
魔力を腕に集中させ、キアレを縛る枷を力任せに引きちぎる。魔力を封印するためのラピスラの枷が、リリムの魔力に耐えられず崩壊する。荒かったキアレの呼吸は、未だに荒いまま落ち着かない。リリムが首筋にそっと触れると、彼女の魔力が明らかに枯渇していた。枷に吸われ続けたのだろう。きっちりと絞められているメイド服のボタンを外し、首元を露出させる。
「ちょっと痛いけど、我慢して?」
優しく、キアレの首筋に嚙みつく。誰かに魔力を渡すには、一番効率の良い方法だ。キアレの呼吸が落ち着いてくる。もう少し、彼女の意識が戻るまでと、魔力を注ぎ続ける。
「……リリム様、もう大丈夫です、申し訳ありません……」
そんな言葉が聞こえて、首元から口を離す。リリムが、勢い良くキアレに抱き着いた。さっきまで止まっていた涙が、また溢れ出す。
「ばか……ばか! 何死にそうになってんのよ! 凄く……怖かったんだから……」
理不尽なことを言っているのは、リリム自身良く分かっていた。キアレも、自分と同じようにあの時に捕まってしまったのだ。そして、何もできずに今まで囚われていた以上、こんなことを言ってもしょうがないのに、言葉は口を飛び出していた。言ってすぐに、申し訳ない気持ちでいっぱいになって、それは溢れ出す涙をもっと激しくさせた。
「……申し訳ありません、心配をかけさせてしまって。私の力不足です」
リリムの言葉を否定せずに、キアレは彼女を優しく抱き返した。細く、綺麗な指で、リリムの頭を優しく撫でる。銀髪と白い指が絡み合う。静かに、ずっとずっと撫でる。されるがままに、リリムは泣き続けた。彼女を、失いたくない。狭い牢に響いていた少女の泣き声が止まった。
「もう、大丈夫ですか?」
キアレの問いに、リリムは静かに、胸の中で頷いた。そっと、二人の体が離れる。
「ありがとう、キアレ」
にっこりと笑った、その笑顔は強がりの笑顔なのがキアレにはよく分かった。自分を心配させないための彼女なりの気遣いだということが。振り返って、牢を後にしようとしたリリムを、もう一度、今度は後ろから抱きしめた。
「強がらなくて良いんですよ、私の前でくらい。私はリリム様の従者兼……親友なんですから」
静かに、そう耳元で囁いた。抱きしめるキアレの腕を、リリムが強く握る。振り払うことは無く、握るだけ。少しの間、リリムが動くことは無かった。
「ありがとう……行こう」
「はい。仰せのままに」
二人は牢から出て、階段へ向かった。ずんずんと進むリリムの姿をみて、キアレが問う。
「何か心辺りがあるのですか?」
「お父様の魔力を感じるの。 あんまり強くはないけれど……私とキアレだけが捕虜にされてて、お父様は殺されてるとは思えない」
そう言って、リリムはまた歩き出す。その言葉を少しも疑うことなく、静かにキアレはついていく。リリムが最初に捕まっていたのは、地下牢の一階。そこで、よく知っている魔力があった。その時ははっきりと分からなかったが、今はそれが自身の父のものであるとはっきりと断言できる。階段を焦りながらも、一歩一歩登っていく。そこも、今まで居たところと変わらず牢獄が連なっている。今までと違うのは、血生臭い匂いが薄く、一つ一つの牢が大きいことくらいか。一番奥の牢、明らかに厳重に塞がれている場所に二人は向かった。三重に閉められている扉にキアレが手をかけ、引いてみる。まぁ、予想通り開かなかった訳だが。
「鍵……どこにあるでしょうか」
扉は重く、分厚い。おまけに、あの青い嫌な輝きを放っていた。
「なんでもかんでもラピスラ製ね。まあ、素材としては一番都合良いのだろうけど……」
リリムが扉に触れると、扉は輝きを増す。キアレに手振りで、扉から離れるように指示すると、拳をぎゅっと握りしめる。それに自身の魔力を込めて、真っ直ぐに扉に叩きつけた。離れていたキアレも軽く跳びそうなほどの衝撃を伴って、魔王の拳は三重の扉全てを粉砕した。一歩、踏み出そうとしてリリムが足を止めた。
「どうかなさいましたか……?」
その姿を不思議そうにキアレが見つめる。
「どうかなさいましたか?」
ふるふる、と小さく首を振って、リリムは歩き出した。もしも、父が死んでいたら? 今まで感じていた魔力がただの残りカスだったとしたら? そんな最悪の妄想が頭によぎって、一瞬ここに入る勇気が出なかったのだ。それ故に、牢の中で彼女が直面した事実は余りにも残酷だった。
父親は、椅子に座っていた。全身傷だらけで、両腕は肘から下が欠損している。右足は通常曲がるはずの無い角度に折れ曲がっているし、王の証として誇っていた立派な角は、根元から折れて近くに落ちていた。
「お父様……今すぐ治しますね……」
そっと体に触れ、全身の酷い傷を癒していく。その効果は絶大で、なくなっていた両腕も、完全に元通りに治してしまうほど。でも、父親が、アンプルが目覚めることは無かった。
「お父様、怪我もちゃんと治したよ? 速く起きて?」
普段は父親にも敬語を使うリリムが、甘えたような声で、懇願する。
「……リリム様、アンプル様は」
言葉の続きが出てこない。
「ねえ、起きて帰ろう。またいつもみたいに笑ってよ。私、お父様の笑った顔凄く好きなんだよ?」
ぐずる子供のように、服の襟を掴んで揺する。声が、後の方になるにつれて震えていた。
「リリム様、アンプル様はもう」
また同じ場所で、言葉が詰まる。言えるはずがない。もう死んでいるなど。ただリリムもそれは心のどこかで分かっていたことだった。父を揺する手が止まりぽつりと一言呟いた。
「あんまりだよ」
最後の会話は、あの朝の短い会話。
「何にもお父様に伝えられてない。お母様が早くに亡くなってから、必死に育ててくれてありがとうも、いつかお父様を超える魔王になるんだってことも……ちゃんとエガリテを継ぐ姿も見せられたはずなのに……」
できるはずだったことを並べていく。悔しくて、ぎゅっと握りしめた拳をキアレがひったくるように手に取る。
「憤る気持ちは良く分かります。私も、凄く悔しいです。許せません。でもご、自分の体も大事になさってください。まだ貴女は生きなければならないでしょう」
握りしめた拳は、爪が肉に食い込んで血が流れだしていた。手のひらに溜まる血を見て、リリムは一つのことを思い出した。
「今から禁術を使うから、見なかったことにしてくれる?」
禁術、それは如何なる者も使用することを禁じられた魔法。使用禁止の理由は様々で、相応の危険が伴う。いつものキアレなら止めただろう。ただ、今の彼女に止める気は全くなかった。彼女は主を絶対として生きると決めたのだ。キアレは、リリムの問いに静かに頷いた。
「冥界に沈む力よ、我が装として、今一度この世に顕現せよ。魂変化・装」
リリムがそう唱えると、アンプルの体が光の粒となり、リリムとキアレの手元に集まっていく。それは、二本の薔薇の衣装を持つ大剣へと姿を変えた。リリムは黒、キアレは白の、重い大剣に。
「今のは?」
「魂変化・装。術者の血を媒体に被術者の力をそのまま武器に変える禁術よ。昔、書斎で読んだ記憶があったの」
アンプルが居た場所には、小さな角のかけらが落ちていた。リリムが拾い上げて魔力を込めると、それは首飾りへと姿を変えた。それをキアレに手渡す。
「お父様、どうか安らかにお眠りください」
リリムが胸に手を当て、そっと祈る。キアレも同じように、祈りを捧げていた。




