五十五話 戦火の後の休息
日が沈み、夜の帳が空を包み込んだ頃。プラドーラの戦いを鎮めたリリムはというと、綺麗に整備された広い湯殿に居た。
「ふわぁ……気持ち良い……」
湯船に浸かりそんな気の抜けた声をあげるのは、猫耳を外に向け、目を薄く開いたキャロル。魔力を使い果たした上にリーデルに体を奪われかける、とかなり負担がかかっている筈だが、すでに大方回復しているように見えた。それもこの湯浴みの効果だろう。僅かに、癒しの魔力が感じられた。
「ほんとに、何から何までありがとうございます……」
癒しの湯の温かみを感じながら、自身の妹の隣で彼女と同じように蕩ける錬金術師に、リリムはそう礼を告げた。
「んー、別に気にしなくて良いよ? 別に礼を言われるようなことはしてないからさ」
「気にしますよ、感謝しか無いです」
今リリム達がここに居るのは、アンジュの厚意からだった。一日ゆっくりパシフィストで休み、翌日の朝にエガリテへと向かう乗り物まで準備してくれる、という話にリリムが甘えさせてもらったのだ。そこまで施して貰って、礼を受け入れて貰えないのは些かもやもやするものがリリムの中にはあった。
「まぁ一応、どういたしまして……って言っとこうかな」
リリムの意思を汲んでくれたのか、アンジュは柔らかな笑顔と共にそう言った。
「この次は何するの?」
アンジュが、ついでにといった様子で聞き返す。
「何しましょうかねぇ……」
ぐっと体を伸ばしつつ、リリムは答える。最初に訪ねた国がここだったのは、元々交流のあった国だから。最初に協力を求めるならばここだろうと、そんな考えからでもあった。
「とりあえず、一旦エガリテに戻って考えます。たとえ他の国に行って、私の意思に賛同してもらえたとして、国ができていないと意味ないですからね」
「ちゃんと考えてるなぁ……」
そんな感嘆の声を漏らし、満足したのかアンジュは湯船から出る。リリム達姉妹も、それに続く事にした。
等間隔に明かりの灯った廊下を、リリムとキャロルは歩いていた。見に纏う衣服はいつも着ているものではなく、アンジュが用意してくれたものだった。
キャロルのものは、丈の短いズボンに長いブーツ、そこに茶色のパーカーを合わせたもの。リリムはというと、長いブーツはキャロルと同じ。そこに白いミニスカートと黒いトップス、そして少し暗い、落ち着いた赤色のロングコートといった様子だった。
「あ、ここにいらっしゃいましたか」
二人の背後から声をかけたのは、腕の中に黒い小動物……メアを抱えたディアナだった。リリムの姿を認めると、メアはディアナの腕から飛び出てリリムの頭に跳び乗る。
「おとっと……危ない。ディアナさん、もう動いても大丈夫なんですか?」
随分とあの戦いで傷ついていたはずなのに、とリリムは心配混じりで尋ねる。
「ご心配には及びません。私はアンジュ様さえ健在ならすぐに治りますから。話は変わりますが、服の着心地はどうでしょうか。一応お二人に合うと思ったものを見繕ったのですが……」
「大丈夫です。これ、なんか魔力が籠められてますよね。なんだか温かい魔力で、とっても着心地良いですよ」
「喜んで頂けたようで良かったです。その服はアンジュ様が趣味で作っていた物で、恐らくその魔力が籠っているものかと」
言われてみれば、確かに彼女の魔力に似ているかもしれない。そんなことを考えながら、部屋を案内してくれるというディアナの後ろへと着いて行く。キャロルは、リリムの頭の上のメアに興味深々、といった感じだった。
「こちらです。お疲れでしょうし、ごゆっくりお休みください。何かあったら呼んで頂けると、すぐに向かいます」
廊下の突き当たりにある広い部屋へとリリム達を送り届け、ディアナは腰から深く一礼。まだやることがあるのか、リリムが礼を言う前に廊下を駆けて行った。
「お礼は……明日言うか……」
部屋の中心に置かれたソファに座り、肩の力を抜く。目の前のテーブルに置かれた紅茶を飲みながらベッドの方へと目を向けると、その上でキャロルがメアを抱きしめ、撫でていた。何か言葉を交わしているようでもあった。
「――それで、リリムさんを地下に連れて行った訳なんですよ」
「ふむふむ、それでそれで?」
会話に聞き耳を立ててみると、そんな声が聞こえた。どうやら、リリムとメアが出会った時からクロートを倒すまでの話をしているようだ。そんな時、リリム達の部屋の扉が数度、コンコンと叩かれた。
「リリムちゃん、ちょっと良いかな」
そう呼びかける声は、アンジュのもの。ソファから立ち上がり、リリムは扉を開いた。
「どうしました?」
「リリムちゃんさえ良ければちょっと話し相手になってもらおうかなと思って。暇なんだよね……」
「良いですよ」
リリムの即答に、アンジュは一瞬硬直する。恐らく、そんな二つ返事で承諾されるとは思っていなかったのだろう。
「ありがと。ちょっと着いて来て。見せたいものもあるからさ」
アンジュに連れられてリリムがやって来たのは、少し奥の部屋。メアと出会った夜にアンジュと話していた、無数の本が収められた、あの天井の高い部屋だった。その時と違うのは、奥の方で青髪のメイドが本を読んでいたことだろうか。余程集中しているのか、リリムには気づいていないようだった。
「座って待ってて。見せたい物、持ってくるから」
そう言うと、アンジュは本棚の奥の方へと消えていった。彼女に言われた通りに柔らかいソファに座る。相変わらず本がいっぱいだなと、エガリテの城の書斎よりも多いのかな、なんてことを部屋を見渡しながらリリムは考えていた。頁をめくる音が数度聞こえたほどの短い時間の後、アンジュはリリムの元へと戻って来た。その手に抱えられていたのは、黒く塗られた小さな木箱。それを、リリムの目の前へと置いた。
「開けてみて」
促されるがままに、リリムはその箱に手を伸ばす。微かに、魔力による封印が施されていた。一瞬迷ったが、その封印を解き、箱を開ける。
「これって?」
中に入っていたのは、澄んだ空のような色の指輪。宿っているのは、何処か知っている魔力だが、リリムにはそれに見覚えは無かった。
「知らないか……」
少し残念そうな顔をアンジュは浮かべつつ、その指輪について話し始めた。
「一年と少しくらい前かな。リリムちゃんのお父さんがね、一度パシフィストに来たんだよ。その時に預かった物なんだ。『もうすぐ娘が国を継ぐから、その時に渡して欲しい。もしもの事があるかもしれないから、信用できる君に託す』って……本当に、もしもの事が起こるなんて思ってなかったけどさ……」
おもむろにその指輪を、アンジュは箱から拾い上げた。同時にリリムの右の手を取り、細い人差し指にそれを嵌める。
「どう?」
「どうと言われましても……」
リリムには、特に何も感じられなかった。わざわざ父が、もしもに備えてアンジュに託すほど、リリムに渡したかった物。絶対に何かがあるはずなのに、それに気付けない自分が、リリムは嫌だった。
「何か無い? 例えば、リリムちゃんの家に伝わる魔法的な……」
そんな雰囲気を察したのか、アンジュが助け船を出す。記憶の彼方から、一つだけ、思い当たる節をリリムは思い出した。
「導くは天に近き世界」
彼女が呟いたのは、エガリテ王家に存在する、一つの家訓。民を導く者として、辿り着く先は、天界の如き幸せな国であれ、という意味を込めたもの。その言葉が、鍵だった。
空色の指輪が、魔力を帯びて激しく輝き始めた。リリムの意思では止まらず、彼女の魔力を天井ーー正確には空へと放出し続ける。
「……アンジュさん、建物壊したらごめんなさい」
「え、それってどういう――」
彼女の言葉の終わりを待つ事なく、それは空より飛来した。黒に塗りつぶされた空を切り裂くように、純白の光が真っ直ぐと、リリムの背後へ伸びる。直後、その光が実態を持つ物となり、そこへと突き刺さった。
淡い魔力を纏う純白の大剣が、そこにはあった。リリムの背丈の五倍はあろうかという巨大な剣が。狙ったかのように、この書斎にちょうど収まっていた。
「これがリリムちゃんのお父さんからの贈り物……」
大剣に手を触れながら、アンジュは目を輝かせていた。研究者が故の性と言ったところだろうか。
「神聖剣セレスティア……」
「そういう名前なの?」
初めて見るはずのその大剣を、リリムは何故か知っていた。記憶に一欠片の存在すらない、その大剣を、何処か懐かしいとリリムは感じていた。彼女が人差し指を手前に引き寄せると、純白の剣はその姿を消した。少し残念そうな顔をするアンジュに向けて、一つ、あることを改めて謝る。
「ごめんなさい、床壊しちゃいました」
リリムが視線を向ける先は、先程セレスティアが刺さっていた場所。確かに、大きな穴が空いていた。
「そのくらい大丈夫だよ。すぐに直せるしね」
落ちている木片をそこに投げ、アンジュが魔力を込める。それだけで、まるで何も無かったように元通りになる。自分にはできないその錬金術に、リリムは感嘆の溜息を漏らした。
「お姉様、凄い音したけど大丈夫……?」
部屋の扉がゆっくりと開き、そこからキャロルが顔を出す。どうやらさっきの轟音を心配してくれているようだった。
「大丈夫よ。ごめんね、心配させて」
彼女の答えに、ホッとしたような笑みをキャロルは浮かべる。
「……そろそろ夜も遅くなるし、みんな寝よっか。疲れてるでしょ?」
アンジュのそんな提案を拒否する者は、そこには居なかった。姉妹は元の部屋に戻り、床に就く。久しぶりの平穏の夜が、静かにゆっくりと更けて行く。




