五話 人間の悪意 魔物の願い
暗い。動けない。そして臭い。これが、目を覚ましたリリムが感じたことだった。ひとまず現状を確認しなければ、何もできない。今の彼女は、真っ暗な部屋で、椅子に縛り付けられていた。右肩から下には重さが無く、それは未だに能力が使えていないことを意味していた。おまけに、痛みが左の翼の付け根辺りに疼く。焼け付くような鈍い痛み。右腕を斬り落とされたときと同じような痛み。裸足の足には、ひんやりとした床の冷たさが伝わってくる。魔力を使えないかは試したが、首にかけられた枷が全てを吸収していく。その度に怪しく、青く光るそれは、ラピスラの原石で作られていることをリリムに悟らせた。
「さすがに原石製だと封じられちゃうか……何もできない」
ぽつりと、そう呟いた。彼女の思考のほとんどは、自分の置かれている状況よりも、従者たちの心配だった。あの三人は無事に逃げられただろうか。キアレは、どうしているだろうか。そんなことを考えていると、遠くから足音が聞こえてきた。暗闇の中に、コツコツと乾いた足音が響く。鍵を開ける音がして、足音がすぐ目の前まで近づき。止まった。
「よぉ、元気か? 魔物なのに夜目が効かねえのか。俺のこと見えてるか?」
「魔力が使えないと見えないのよ……ダスト、どうして貴方が生きているの!」
リリムにとって不快感を引き出す声。姿が見えずとも、はっきりと分かる。ただ、彼はリリムの容赦無い攻撃で死んだはずだった。
「聖騎士様ってすげえな、死んでもすぐなら蘇生できるんだと。まあ、そんなことはどうでもいい」
部屋の明かりが着いた。ただっぴろい空間に、いくつもの死体が転がっていた。先程感じたあの腐敗臭はこれか、とリリムは理解した。そして今からダストが何をしようとしているのかも。
「俺な、弱い者いじめも大好きだけどさ、俺のこと見下してる奴が苦しんでるのを見るのも大好きなんだよなぁ!」
ケヒャヒャ、と気味の悪い笑い声をあげる。リリムの顎を持ち、その紫紺の双眸を覗き込んだ。その頭に、謎の器具を無理やり装着させる。眼帯のようなそれは、リリムの視界の半分を奪った。
「魔物ってさ、周りの魔力吸って回復できんだろ? この部屋、めっちゃ魔力濃ゆいんだぜ」
何を言いたいのか分からない。でも一瞬でその真意は分かった。左目に、差すような痛み。眼帯から何かが突き出て、彼女の左目を抉る。ミキサーのようにグルグルと回る、眼帯から突き出る何かが、延々と左目と、その付近の肉をグチャグチャにかき混ぜていく。
「あがあああ――っ!」
今まで感じたことの無い、気の狂いそうな痛み。リリムの叫び声が、部屋に響き渡る。ただ抉るだけならば一瞬で終わった。ただ回復し続ける魔物としての体質が、リリムに無限に続く苦しみを味合わせた。
「まだやるぞ? これだけじゃダメだ」
その言葉は、リリムに聞こえていたのだろうか。巨大なペンチで、リリムの肉を引きちぎっていく。その度に、鋭い悲鳴が上がる。回復するたびに、肉がぶちぶちと音を立てて、千切られる。ただ、これはリリムに降りかかった苦しみの一部に過ぎなかった。口の中に鋭い棘の玉を放り込んだり、猛毒を持つ蛇をリリムの傍に放ち襲わせたり、単純に全身の骨をゆっくりと砕いたり。魔力がある限りの不死という魔族の特徴を最大限に活かした、様々な責め苦に、リリムの心は徐々に壊されていった。
「もう……いっそのこと殺してよ……」
それは、随分と長い間続いた。最初は痛みに声を上げ、泣き叫んでいた彼女も、いまはもううわごとのようにその言葉を繰り返すばかり。痛みに慣れてしまったのか、もう叫び声も上げることは無かった。彼女の頬には、涙の跡がくっきりと残っていた。殺して、殺してと、呟きだけが部屋に響く。
「面白くなくなっちまったお前に、いいプレゼントだ」
ダストがそう言って、リリムの首枷に鎖を繋げ、椅子から開放する。腕の自由は相変わらず無い。彼に曳かれながら、その後ろをリリムはついて行った。途中、知っているような魔力を感じたが、思考が上手くまとまらない。部屋の外、真っ暗な廊下を歩き続ける。窓が無い辺りを見ると地下室なのだろうか。そのまま更に地下へ、階段を下っていく。さっきの部屋よりも酷い腐敗臭ち、血の匂い。鼻の奥をつんとさす匂いに、思わずえずいた。地下に広がっていたのは、闘技場のような場所。その中心に、二本の柱が立っていた。柱の間には、鈍く光る刃があった。ギロチンというものだろう。
「リリ……ム……?」
ギロチン台に固定されている誰かが言った。
「カル!」
うわごとを繰り返す彼女が、親友の名を呼んだ。台に繋がれている彼女は、リリムのように苦しめられたのだろうか。体中痣だらけで、自慢の白い翼の片翼は、深紅に染まっていた。ダストが、これ見よがしに、ギロチン台に繋がれたロープを引っ張って見せた。刃が、スルスルと上がっていく。
「やめて、やめて!」
カルが怯えて、声を荒げる。ダストはロープをリリムの口に咥えさせた。落としたらカルは死ぬ。リリムは歯を食いしばって、ロープが落ちないように踏ん張った。ロープは重い。
「今から丸一日堪え切れたら、二人共開放してやるよ」
ダストはそう言って、居なくなった。一時間も経たないうちに、リリムの口から出血、口の横辺りから血が垂れていた。
「ごめん……私のせいでごめん……」
カルは自分のせいでこうなったと思っているのだろうか。でも、逆の立場なら彼女も同じことをしただろうと、リリムは何も彼女を恨んではいなかった。何もできないカルは、せめてと言うようにリリムを励まし続けた。特に何か変わったことがあったことがあったわけではない。リリムは刃を落とさぬよう耐え、カルは、応援し続けた。
長い時間が経った。ダストが、二人の前に戻って来た。
「ほんとに丸一日堪えたのかよ、きっしょ……」
「速く、開放して」
カルの言葉を聞き、はいはい、とリリムの口からロープを取った。
「おっと、手が滑った」
ロープが彼の腕から離れる。自由になった刃が、自身の重みで落下する。それは、誰にも止められることなく、カルの首を切断した。カルに苦痛を与えることなく、一瞬で。無慈悲に。
「開放する訳ねえだろ、都合の良いことばかり信用してんじゃねぇよ!」
ケヒャヒャと、あの気味の悪い声を挙げながらダストが言った。リリムは、全てを呪った。彼の言う通り、都合が良いことを信じた自分を。ダストという人間を。そして、こんな苦しみを創り出してしまったこの世界を。
「……して」
「あ?」
聞き取れないほど小さな声で、リリムがぼそりと呟いた。
「どうして」
眼帯がひとりでに外れて、落ちる。その左目があった場所はぽっかりと抉れていた。
「どうしてどうしてどうして! 私達は人間と寄り添おうとしたのに! なのにあなたたちは私たちの意思を踏みにじって……絶対に、絶対に許さない!」
声を荒げる彼女の左目には、いつの間にか深紅の瞳が納まっていた。
「許さないとか言ってるけどさぁ、今のお前、今大したことはでき――」
その言葉の続きは、発されることは無かった。鎖を力任せに引きちぎって、リリムがダストの首を掴んで、投げ飛ばす。吹き飛ぶ彼に追いついて、追撃の踵落としを腹にめり込ませた。血を吐くほどの衝撃で地面に叩きつけられたダストの顔は、怯えていた。
「今の私が、何?」
踵を、ぐりぐりとあばら骨にめり込ませる。その度に悲鳴が上がる。だが、リリムがそれを緩めることは無かった。
「なぜそんなに動ける……!」
ラピスラの原石の首枷がつけられているのに、リリムは涼しい顔だった。次の瞬間、首枷が激しい音を立てて砕けた。それと同時に、おぞましいほどの魔力が溢れ出す。ダストは自分の行いを理解した。エガリテの襲撃、リリムへの度重なる責め苦、そしてカルの殺害。この三つが、魔王の卵の殻を破らせてしまったのだと。
「質問の答え以外を喋ることは許さない。大人しく答えなさい」
断れば死ぬのは分かっている。従っても生き残れるのかは分からないが、従う以外の選択肢はダストに残されていなかった。
「なぜエガリテを襲撃した?」
「お前に負けたのが悔しくて……でもお前には勝てないから、地獄を見せようと思ってやった……」
質問はそれ一つだけだった。短い沈黙。リリムが、左腕を水平に払った。手刀のように。それに付随し、魔力の刃が薙ぎ払われる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」
怯えて、呪文のように繰り返されるその言葉を遮るように、リリムがダストを掴み、投げた。
「冥府でカル達に詫びなさい」
投げ飛ばしたそれに向かって、魔力を放つ。ダストが内側から膨れ上がり、破裂した。血と肉片の雨が降り注ぐ。一部が頬にかかる。
「気持ち悪い……」
リリムがそう呟き、頬に着いた肉片を払う。それと同時に、もう動くことのない親友の傍へ歩み寄った。彼女の足元から影が広がり、親友を吞み込んだ。リリムの欠損していた右腕と左の片翼が再生する。再生したそれらには、わずかに彼女の魔力が流れていた。
「貴女はせめて、私の中で……」
生きて欲しい、という言葉は続かなかった。
「ごめん……救えなくてごめんなさい……」
とめどなく、瞳から涙が溢れ出す。幼い魔王の泣き叫ぶ声が、ただっぴろい地下室にこだましていた。