四十六話 突入
「……そろそろ頃合いかな」
漆黒の巨壁のすぐ近くの小さな建物に、そんな小さな呟きが漏れた。それをきっかけに、建物内のメンバーがそれぞれ、思い思いの準備を始めた。キャロルは屋根の上で一人、ざわつく胸を抑え、聳え立つ壁をぼんやりと眺めていた。
「猫嬢、これを持っていきな」
「っ……トニクさんでしたか……これは?」
ぼんやりとした意識の中、突然飛び込んできた言葉に驚きのあまり一瞬キャロルの背筋がピンと伸びる。相手を確認してその緊張をほぐすと同時に、トニクが自身に差し出す物――青色の水晶を耳栓のようにした小さな加工品――を見て、小首を傾げていた。
「これを耳に嵌めてみな」
言われるがままに、水晶を頭部の右側、大きくピンと立った猫耳にぐっと押し込む。まるで図ったかのように、それは少しの違和感もなくそこにすっぽりと収まった。嵌めているはずなのに、何もそこにないかのように音は聞こえる。何なら重さを感じることもない。本当に何に使うものなのか、キャロルには皆目見当がつかなかった。
『あー、あー……猫嬢、聞こえてるか?』
前触れ無く、突然テクニの声が耳元で響いた。もちろんテクニはキャロルの目の前に居るが、耳元で声が響くほどの距離ではない。困惑する表情を浮かべるキャロルを見て、彼は豪快に笑っていた。
「すげぇだろ? パシフィスト一の技術屋の俺にかかれば、こんなもの朝飯前ってものよ。この戦いで役に立つだろうから、使ってくれ。既に全員に渡してある」
「……助かります。凄いですね、テクニさん」
自画自賛のつもりで凄いだろと尋ねたにも関わらず、キャロルの返答が余りにもまっすぐでテクニは思わず目を逸らした。
「……猫嬢、昨日は大将なんて言っちまったけどよ、あんまり気負いすぎるんじゃ無いぞ。言いたいことはそれだけだ。お互い頑張ろうな」
少しだけ気まずくなった雰囲気をかき消すかのようにキャロルの頭を撫でながらそう言うと、さっさと建物の中へと戻って行ってしまった。しばらく一人で、それまでと同じようにぼんやりと壁を見つめる。たださっきとは違うのは、胸のざわめきが落ち着いていたこと。
「……気負いすぎるな、か。確かにそうかも」
テクニの言葉をもう一度、自分の口で言う。ただただ自分にそう言い聞かせるように。気負う必要などどこにもない。戦いの仲間は皆強いのだから、自分が心配する必要などないと。
「皆は強い。吾輩が気に掛ける必要なんてない」
深呼吸と共にその言葉を自身の胸に刻み、屋根からふわりと飛び降りる。そこには既に、キャロル以外のメンバーは揃っていた。
「ごめんなさい、待たせましたか?」
「いえ、こちらも先程集まったところですので」
ディアナがそうは返してくれたものの、待たせてしまったのは間違いないなと軽く詫びる。ただ全員に構わないと一蹴されてしまったのだが。
「キャロル、何か作戦とかあるの?」
リズが、自分の背負った大きな棺桶を降ろしながら尋ねる。作戦など、昨夜寝れないうちにいくらでも考えた。どうするかと、考えて考えて……
「本丸突入は吾輩とトニクさんの二人。他の皆には陽動を任せます。ただし、リズちゃんは戦わずに後ろから援護をしてほしいかな。吾輩達の方が時間かかるかもしれないし、その時に一旦撤退する場所を確保しなきゃいけないしね。あとは昨日言った通り吾輩達の戦況を大きく変えられる切り札でもあるからね」
キャロルの作戦では、自分達が国王を鎮めるまでの間、陽動側には少し戦況を引っ搔き回しては逃げて、を繰り返して欲しい。こちらの消耗を抑えつつ、あちらの注意を大きく引くことが何よりも重要である。
「私は後方支援と……分かった」
少しずれた目隠しをぐっと抑えて元の位置に戻しつつリズが腕を組み、眉間にしわを寄せる。恐らく彼女なりに後方支援でやることを考えているのだろう。
「まぁ、上手くやるよ」
何か浮かんだのか、リズは親指をぐっと立て、キャロルの方へと向けていた。行動の真意は何となくしか掴めなかったが、おおかた『任せておいてよ』というものだろう。他のメンバーに目を向けると、皆何かを待っているかのようにキャロルを見つめていた。
「吾輩達の目的は、アナト君達のお父様の洗脳を解くこと。戦って勝つことじゃありません。自分の命を最優先に、死ぬと思ったら迷わず一旦逃げてください」
キャロルが自身の目の前に、そっと手を伸ばす。他の六人もその上に手を乗せる。全員がこの行為の意味を、理由を知っていた訳ではない。ただその体は、自然とそう動いていた。
「必ず全員、生きてここに戻ること! それじゃあ、出発!」
彼女の明るい声での宣言と共に、その場に居た全員が散る。最初にアナトとテリスが壁の中に飛び込み、少し間を置いて双子の後にディアナが駆ける。更にその後ろに大きな鎚を背負ったテクニが追尾していた。リズはというと、人形へと変えた棺桶に乗り、高い城壁の上へと上っている。恐らくそこから支援するのだろう。
キャロルとトニクは、機を静かに待っていた。中にいた無数の兵の注目が、突入した者たちへと集まるのを。
「……うまくやれそうか?」
気負いすぎないと決めたのにもかかわらず、結局張り詰めたような表情を浮かべるキャロルを見かねて、トニクは尋ねた。まだ騒ぎが大きくなるまでは時間がかかりそうという判断の元。
「分かりません……お姉様は吾輩に任せると言っていました。恐らく吾輩の強さを信用してくれているんだと思います。ただ、吾輩はそんなに強いのか自信が持てなくて……」
「まぁ身近にあんな化け物が居たらそうもなるよな……」
キャロル自身の強さは、間違いなく『強い』と自信を持って言える強さなのだ。膨大な魔力量に、十七歳で到達できるとは思えないほどの、卓越した精霊術。そして先日迷宮で見せた、激情をきっかけとした爆発力。はっきり言って、そんじょそこらの敵では、キャロルの相手にはならないだろう。
ただそれでも、彼女は自信を持てないでいたのだ。あの酒場でリリムに出会うまではまともに全力を出すような戦闘を経験して来ることはなかったというのが一つ。リリムと出会って以降の戦いが、強者との連戦すぎたというのがもう一つ。最後に、今最も身近にいる存在――リリムの強さが圧倒的すぎることが一つ。
「まぁ、俺からすればキャロルちゃんだって十分化け物に片足くらいは突っ込んでると思うぞ? 少なくとも魔王様が俺たちのことを任せるのに相応しいと判断するのに力不足だとは俺は思わないな……この言葉、無責任だと思って少し嫌いなんだけど、キャロルちゃんは強いから自信持ってくれ」
少し詰まりながらも、彼女が自信を持てるようにと、トニクは言葉を紡いでいた。その様子を見ていると、キャロルの張り詰めたような表情も少しずつ和らいでいるようで、柔らかい笑顔が零れていた。それを見て、トニクも安心したように笑う。もうこの子を自分が励ます必要は無いなと。
「……そういえば気になったことが一つあるんだけど良いか?」
「何でしょう……?」
城壁の中に意識を向けながら、二人は待ち時間の緊張を紛らわせるために会話を続けた。
「魔王様のことなんだけどさ、ずっとあの人の視線っていうか……なんか見られてるような気がするんだよな。何か知らないか?」
そのことか、とキャロルは思った。そしてそれと同時に、よく気が付いたな、とも。キャロルは精霊術を極めた影響で、人よりも断然そういった魔力の流れに敏感で、リリムが自分たちのことをどこかから見守っていることについては気が付いていた。トニクも気づいているとは思わなかったが……恐らく彼も魔力の流れを見極めるのに長けているのだろう。
「昨日の夕刻から、ずっとお姉様は吾輩達のことを見てますよ。恐らくお姉様のほうはすぐに終わっちゃったんでしょうね」
「やっぱりか……終わってんなら来てくれれば良いのに」
そう言ってトニクは口を尖らせる。その気持ちは良く分かる。あの人がいれば、こんなに迷う必要も、自信を持てずに怯える必要も無いのだ。ただ、それではダメということもキャロルは分かっていた。
「吾輩達だけで解決してほしいんでしょうね。エガリテを再建するなら、お姉様が居ない時だって多いでしょうし、そんな時でも対処できなきゃいけないですから。お姉様頼りになっちゃいけないんです」
「……それもそうか。じゃあこの戦いで魔王様の力に期待するのは無理そうか」
そう呟いたトニクの表情は、覚悟を決めたような、集中するような、とても凛々しいものだった。
「まぁ、誰かが死にそうになったらすぐにでも飛んできますよ。お姉様はそんな人です」
そんな状況にはならないと思いますけど、と付け加え、キャロルは笑顔を見せる。決戦前にしては柔らかい空気が、二人の間には満ちていた。
「……追え! たかだか四人だ! 全員捉えよ!」
城壁の中から、微かにそんな声が聞こえてきた。耳を澄ましてみると、魔力や武器ががぶつかるような音と、悲鳴のようなものが入り混じって聞こえてくる。一瞬、キャロルの体が固まる。出所の分からない恐怖が、彼女のすぐそばに這いよっていた。
「……行けるか?」
固まるキャロルの手を握り、トニクは一言そう言った。たったそれだけの、短い言葉が彼女の恐怖を溶かしていく。
「……はい。行けます!」
言葉を返したキャロルの胸に、恐怖は残って居なかった。二人は混沌とした戦場の中に駆けだした。ただ真っ直ぐに、王の元を目指して。




