三十八話 死を越えて
先程まで無機質な部屋にいたはずのリリムは、綺麗な花畑にいた。エガリテ近郊の、あの不思議な花畑に。そんなはずが無いのに。
「……なんで?」
リリムの脳内には無数の疑問符が浮かんでいた。さっきまでは機械人形と戦っていたはず。自分と全く同じ強さのそれから、もう少しで勝利をもぎ取れる時に心臓部を貫かれて……
「私、死んだのか」
自身が置かれている状況を思い出し、リリムはその場に座りこんだ。死した魂は冥府へ行く。それがこの世界の原則。そこに行くまでの幻覚のようなものなのだろうと、リリムはなんとなくではあるが現実を受け入れていた。
「……お父様、怒るかな。何こんな早く死んでるんだって」
「何あんな奴に負けてるんだって怒る」
後ろから聞こえた声に、思わずリリムは振り返った。優しく包み込むような深みのある、低い、優しい声。もう聞けないと思っていた、リリムの大好きな人の声。
「お父様!」
リリムの隣に、彼女の父親は――アンプル=ロワ=エガリテは――並んで座った。自身を見つめるその優しい瞳に、リリムの胸に、じんわりと暖かいものが浮かんでいた。
「ごめんなさい。私、死んじゃいました……」
申し訳なさそうに言うリリムを、アンプルは豪快に笑い飛ばした。ポカンとする彼女の様子を見て、アンプルが詳しく説明を始めた。
「まず、お前はまだ死んじゃいない。今のお前は仮死状態だ。魂だけがこの空間に居る。この空間は、俺の魂の副産物だ。リリム、俺のこと武器にしたろだろう?」
リリムは、いつも使っているあの漆黒の大剣を思い返していた。
「そこに俺の力がまだ残ってるってわけだ。この前の、お前の決心の時にお前が見たのも、これと同じだ」
エガリテを、世界作り直すと決心した時に見た、あの夢のようなものをリリムは思い返す。確かにそれも、今と同じような感覚だった。
「その力を使えば、お前を仮死状態から生き返らせることもできるんだ。ただしあの大剣はもう壊れてしまうけどな……まぁ、お前はこんなところで止まっていられないだろう?」
リリムは、深く頷く。目の前の父と約束したのだ。全てが共存できる世界のためにも、こんなところで止まっていられるはずが無い。
「ただ、このまま返せばお前はまた死ぬ可能性が高い。あの機械人形は強いからな」
「でも、どうしたら……」
打つ手なしと言ったような顔を浮かべるリリムの頭を、アンプルが大きな手のひらで優しく撫でる。
「大丈夫だ。お前の固有魔力と向き合え。お前の純然自由の女王は、全てに縛られないなんて陳腐な能力じゃぁ無いはずだ。お前は、歴代エガリテ随一の天才なのだから」
父に言われたその言葉は、とても嬉しく、心地よく……ちょっとだけ痛いものだった。ただ今なら、その褒め言葉を素直に受け取れる。天才だったのなら……なんて、もうリリムは考えない。
リリムは父の言う通りに、固有魔力に向き合う事にした。真っ直ぐと立ち上がり、瞳を閉じる。膨大な魔力を解放し、溢れさせ続ける。その状態で、リリムは自問自答を繰り返す。固有魔力というよりは、自分と向き合うと言った方が正しいだろうか。自分は一体何なのか。何のために戦うのか。どんな未来を求めるのか。その未来のために必要な力は? 繰り返す問いの中で、リリムの意識は段々と透明になって行く。問いも、答えも、不思議と出てこない。体がふわふわとした、どこか不思議な感覚に、リリムは包まれていた。
「私の力は……」
リリムの口からそんな言葉が漏れた時、彼女から溢れる魔力全てがピタリと止まった。彼女自身はゆっくりと、力が抜けるように仰向けに倒れる。呼吸は荒く、額には汗をかいている。それでも表情はどこか爽やかで、満足しているように見えた。
「リリム、本当に強くなったな……」
「そうでしょう? 私、強くなったんですよ」
娘の成長に声を振るわせるアンプルに、リリムは得意げに言葉を返す。
「お前の力の真髄、掴んだか?」
父からの問いに、リリムはこくこくと頷く。嬉しそうに、アンプルは笑っていた。それ以上は、彼は何も言わない。寝転がり、息を整えるリリムの側に、静かな笑みを浮かべながら、座っていた。
「ねぇ、お父様。お母様ってどんな人だったの?」
今しか聞けないと思い、リリムは幼い頃から気になっていた問いを父にぶつける。リリムは、自身の母のことをあまり知らない。知っているのは、彼女が人間で、リリムを産んですぐに亡くなってしまったこと、そして長い時を生きた父が、生涯でたった一人愛した女性だったということだけだった。
「……一人でなんでもやろうとして、たくさん背負って背負って、潰れて泣いてしまうような。そんな人だったよ。優しくて、強くて、そして脆い。そんな人だったからこそ、支えたいと思えたな……お前と、よく似ていたよ」
アンプルはそれ以上語らなかった。遠くを見つめて、過去に思いを馳せるような表情を浮かべていた。何も知らないが、母と似ていると言われ、リリムはどこか嬉しかった。
「そろそろお別れだ、リリム。俺の残った力も、もうすぐ尽きるみたいだ」
彼の言葉の通りに、少しずつ世界の色が薄まっていた。
「じゃあ、今度こそ本当にさよならだな。次会う時は、お前が寿命で逝った時だ」
半分冗談っぽく、アンプルは言った。ただその言葉は、リリムへの願いでもあった。彼女自身も、それをしっかりと理解していた。
「お父様、わざわざ手を煩わせて、ごめんなさい」
そう言ったリリムの華奢な体を、アンプルの巨躯が優しく抱きしめた。
「謝るな。親として、自分の子に何かをしてやれるってのは、最高に名誉な事なんだ」
優しい言葉に、いつの間にかリリムはしゃくりあげるほどに泣いていた。十六歳にして、父との三度目の別れ。泣くなと言う方が無理だ。アンプルはそれを、泣き止むまでしっかりと受け止めていた。
「……もう大丈夫。ありがとう、お父様」
しばらく後、ゆっくりと深呼吸をして、リリムはそう言った。父の腕から離れ、にっこりと笑顔を見せる。
「リリム、これからお前は長い時を生きるはずだ。どう生きようとお前の自由。ただ一つだけ約束してくれ」
同じく笑顔を見せる父の言葉に、リリムは耳を傾ける。
「間違ってもいい。逃げてもいい。ただ明日の自分に誇れないようなことだけはするな」
「はい、お父様」
娘のはっきりとした返事に、アンプルは満足そうに頷いた。
ちょうど、世界は限界を迎えたようだ。リリムの視界が一瞬暗転し、花畑から無機質な部屋へと戻る。別れは言えなかったが、彼女にとっては満足だった。現状を把握しようとふと顔を下に向けると、胸に深々と刃が突き立てられているのが見えた。どうやらあの空間にいた時間は、現実とは独立しているらしい。胸に刺さる刃からは、不思議と痛みを感じなかった。右手でその刃を握り、砕く。その持ち主、リリムの姿をした機械人形が、驚いた顔をしていた。
『死んだはず……』
「ええ、一度死んだわ。だってあなた強いんだもの」
殺したはずの相手が生き返っているという、到底受け入れ難い現実に、機械人形の動きが一瞬完全に固まる。
『……一度死んでも戻ってくるなら、もう一度殺すまで。侵入者は、排除する』
一瞬の沈黙を挟んで、機械人形は言った。それはリリムに勝てるという自信から出る言葉だった。その自信に向け、リリムは魔力を解き放つ。死ぬ直前に弾けたはずの左目はいつの間にか修復されており、煌々と輝いていた。元々が規格外の、異常な魔力。それが自身と向き合ったことでさらに増していた。
『あの一瞬に一体何が……?』
機械人形は疑問を口にしながらも、リリムへと攻撃を仕掛けてきた。リリムに止めを刺す要因となった黒い雷を纏い、神速の一撃をリリムへ打ち込む。それをリリムは、真正面から受け止めた。さっきまでとは明らかに違う、リリムの底の見えない魔力に機械人形は大きく距離を取る。
「逃げないでよ」
それに即座に追いつき、背後に回り込む。そのまま、機械人形の肩を掴み、地に叩きつける。間髪入れずに追撃しようとするリリムを見て、機械人形は一つの魔法を唱えた。
『禁術 帝王の時間』
その影響力が故に封印された、古代の禁術。世界全ての時間が止まる……はずだった。止まったはずの時の中で、機械人形の目の前にリリムが立っていた。
「あなたに罪は無いけれど、先に進むために必要なの。ごめんね」
魔力のこもったリリムの右手が、機械人形の頭部を正確に、一瞬で撃ち抜いていた。
頭部を破壊された機械人形は、機能を停止した。体が少しずつ塵に変わり、魔力へ変わり、そして消えていく。元々この部屋に集積していた重苦しい魔力も、完全に消失していた。そこに残されていたのは、灰色の、濁った宝石の埋め込まれた鍵。これが下層への鍵だろう。
「リリム様、ご無事でしたか!」
自身を呼ぶ声が聞こえ、リリムは振り返る。完全な密室となっていた部屋は、いつの間にか元通りに通路が繋がっていた。そこから、ディアナが駆け寄ってくる。
「中の様子、全く分からないので心配していましたよ……というか、なんだか強くなられました?」
そんな事を言って、ディアナは首を傾げる。
「いろいろありまして、強くなりましたよ」
「あれ以上強くなって、どうするおつもりですか……」
リリムの答えに、ディアナはそう笑いながら言う。それを見ると、リリムもなぜだか笑みが溢れていた。
「さて、行きましょうか。みんなを探さないと」
「そうですね。皆様もリリム様のような目に遭われていたら大変です」
二人は軽やかに――リリムはその背に持つ翼で、ディアナは自身の固有魔力で――迷宮を進み始めた。
リリムの固有魔力『純然自由の女王』それは全てを超越する能力。王だけに許された力である。




