三十二話 力無き者は 力無き故にそれを恐れて
――百年と少し昔の、ある集落での事だった。そこはある山奥にある、人間だけで作られた、余所者を嫌う排他的な場所だった。集落の雰囲気自体はのどかで、住民同士の仲も良い。少女は、そんな場所で生まれた。彼女は、特筆するような事も無く、ただ素直に一人の子供として成長した。
彼女の人生が、普通の道から変わったのは、八歳の誕生日を迎えた日だった。その日彼女が目覚めると、夜のように温かな黒色だった両目が、深い海のような青色に染まっていた。
彼女の親はそれを大変喜び、その日のうちに彼女は集落で一番大きな屋敷へと連れてこられ、預けられた。そこで始まった生活は、何か欲しいものを大人に言えば手に入る暮らし……といえば聞こえは良いが、外に出る事や誰かと関わることは許されないものであった。八歳という、活力の有り余る年齢の少女にとって、その生活は退屈以外のなんでも無かった。
「貴女は選ばれたのです。蛇神様の巫女として」
外に出たい、友達と遊びたいと言うと、大人は皆こう言った。その生活が二十日も経った頃には、少女はもう何も望まなくなった。何を望んでも、どこか心に穴が空いたようにつまらなかったから。もう彼女の一日は、朝起きて、大人が勝手に運んでくる食事を摂り、眠る。何も特別なことのない、代わり映えのない一日へと変わっていた。そんな生活がずっと続いた。一年も経たぬうちに、彼女の髪からはすっかりと色が抜け、瞳には光が宿っていなかった。肌は儚さを感じさせるほどに色白く、四肢は人形のように細くなっていた。
次に特別なことが起きたのは、軟禁生活が始まってちょうど四年、十二歳の誕生日だった。その日は、屋敷の中、彼女の居る部屋の外は慌ただしい足音がずっと鳴っていた。
「いやぁ、今回の蛇神様はどんなものを恵んでくださるのかねぇ」
「今回は前回の巫女よりも上玉だって村長の爺さんが言ってたよ」
そんな声も、聞こえていた。少女にとっては全て等しく、ただの五月蝿い音にしか聞こえていなかったが。
その日の夜のことだった。四年振りに、彼女の部屋の扉が開いた。長く白い髭を蓄えた老人と、若い女性がそこに立っていた。
「参りましょう、蛇神様の巫女」
嗄れた声で、老人が言った。少女には、意味は分からない。女性にされるがまま、純白のゆったりした衣に着替えさせられる。床に着くほどに長く伸びた白髪も丁寧に束ね、大きな飾りをそこに取り付けられる。虚な瞳を、黒い布が覆う。
「私の手を」
暗闇の中自分に触れた手を取り、少女は女性と老人に連れられ歩き出した。行き先は、集落の真ん中にある大きな広場。松明が燃える音がする中、彼女は静かに広場の真ん中に座らされた。
「蛇神様 蛇神様 巫女を贄とし我らに祝福を」
老人が、そう言った。その声は少しずつ、集落全体に広がっていく。少女の周りの声が全てそれに変わった時、彼女の耳には何かが這うような音が、微かに聞こえた。その音は少しずつ大きくなり、何かを押しつぶす音も同時に聴こえてくる。周りの人々が歓喜するような声が、少女には聞こえていた。
何かが這うような音は、彼女の目の前で止まった。小さな家程度ならゆうに丸呑みできそうなほどに大きな口を持つ、真っ白な大蛇が少女の前に居た。彼女を見つめ、大きな舌をちろちろと動かしていた。
「さあ巫女よ、その身を蛇神様に捧げるのです。見えなくても大丈夫。貴女は蛇神様の一部になるのです。身を委ねなさい。そうする事で、私たち集落は蛇神様から恵みをいただく。私たちはずっと昔から、そう生きてきた」
少女を連れてきた女性が、そう言った。少女には、なぜか全てが見えていた。自分を見つめる白い大蛇も、周りの人々の欲望に満ちた醜い笑顔も。大蛇の口が自分の側にゆっくりと近づいてきていること、その行為は自分を喰らうためである事も。
「身を捧げる……どうして私、食べられなきゃいけないの……?」
死がすぐ側に迫ってきたからだろうか。軟禁生活のうちに失われたはずの自我が、彼女の中にふと舞い戻ってきていた。彼女の体は、無意識に動いていた。ゆらりと立ち上がり、走り出す。細い脚では、大した速度は無い。それでも、欲に塗れた愚か者達の虚をつくには十分であった。
獲物から逃げられた大蛇は、集落の人や家を巻き込みながらその巨体をゆっくりと躍動させる。それに触れられたものが、須く朽ちていく。走る少女の耳には、壊される家々の轟音と、朽ちていく人々の罵詈雑言と悲鳴が聞こえていた。少女にとってそれは、もう同じ人間の言葉とは思えなかった。ただがむしゃらに走り続けた。彼女が足を止めたのは、集落の端に辿り着いた時だった。集落を囲む木の塀にぶつかり、走る脚は止まった。そもそも細い脚には、もう力は残っていなかった。
「嫌だ……死にたく無い……」
振り返ると、大蛇が少女と同じ深い青色の瞳で、彼女を見つめていた。ただ彼女の中にあった意志は、生きたいということだけだった。その意志が、何も知らぬ彼女の体を動かした。
少女が右腕を空に掲げると、淡い光がそこから空に放たれる。刹那のうちに、巨大な、白い剣が暗い空に創り上げられていた。大蛇が大きな口を限界まで広げ、その下顎を地面にめり込ませ、地面ごと彼女を飲み込もうと動き出したのに対して、彼女はその右腕を振り下ろした。その動きに合わせて、空に浮かぶ大剣もゆっくりと縦に振り下ろされる。大蛇の口が彼女を飲み込む直前、その刃が大蛇の頭を両断した。速度ではなく、重さと力で押し切るように斬られた断面はグロテスクで、当然大量の血が流れ出した。返り血を浴びて、少女の真っ白な服は鮮やかな深紅に染まっていた。自分が大蛇を殺したという事に未だ自覚を持てず、呆然と彼女は立っていた。
「化け物っ……」
ふと、そんな声が彼女に聞こえた。声の主は、一人の青年だった。その後ろに、あの老人が居る。生き残ったのは彼らだけだろうか。老人は、少女を見るなり目を見開き、何かを早口で捲し立てて居た。ただその言葉の意味を理解するのを、彼女の脳が拒否して居た。老人が左手に持つ杖を荒ぶらせながら、少女に詰め寄る。そのまま老人は、右腕で彼女の頬を殴った。その拍子に少女の目隠しが外れ、綺麗な瞳が露わになった。その瞬間、老人の体が一瞬の内に朽ち果て、崩れた。
「ひっ……」
一番怯えて居たのは、その様子を見ていた青年ではなく、少女自身だった。思わず青年の方にも、その視線を向けた。向けてしまった。彼も、老人と同じように朽ちてしまった。血を浴びすぎたのが原因か、それとも蛇神様の巫女なるものに選ばれたのが原因か。少女は、大蛇の能力を少し違う形で受け継いでいた。少女は自身の力を恐れ、集落の片隅で一人泣いていた――
「……って言うのが私が幼い頃経験した事です。しばらく後、私は自分の固有魔力で、蛇神の能力を封じる目隠しと、私を閉じ込める人形を創って、私自身を縛りました。本当は自殺しようと思ったのですが、不思議と上手くいかず……寿命で死ぬ事もなく、気がつけば人間から精霊になっていた訳です」
自らを縛る鎖を外し、棺桶の縁に座る少女の話に、リリムは静かに聞き入っていた。
「……大変だったのね。わざわざ話させて……思い出させて悪かったわ」
謝るリリムに対し、少女は別に構わないと笑顔を見せた。そしてすぐに、その笑顔は寂しそうな顔に変わる。
「私は、見るもの全てを朽ち果てさせる化け物です。それでも尚、私のことを受け入れてくれるのですか……?」
リリムは何も言わず、少女の前に立った。彼女の頭に巻きつく黒い布を、手早く外す。目隠しを外された少女は慌てたように手を振り回しながら、目をぎゅっと閉じていた。
「返してください! じゃないと貴女まで……」
叫ぶ少女の肩に、リリムは優しく手を触れた。
「私は貴女を受け入れる。だから貴女も私を信じて。私は死なない。その瞳を見せて」
根拠はどこにもないのに、少女にとってリリムの言葉は不思議と信じられるものだった。恐る恐る、その瞳を開ける。そこには、笑顔を浮かべるリリムが写っていた。
「どうして……?」
「この程度じゃ私には効かないわよ。私のこと、信じてくれるのね。とっても、綺麗な眼ね」
少女は思わず、リリムに飛びついていた。今までの長い時間の中で、初めて自分の全てを受け入れてくれたことが、あまりにも嬉しかったのだった。
「この身、この力。貴女の為に尽くすことを誓います……これを、付けておいてください」
一旦落ち着いた少女が、青い指輪をリリムへ手渡す。
「精霊術の召喚を代行してくれる指輪です。一応精霊としての契約なので、慣れるまで使ってください……そろそろ、この世界も時間みたいですね」
空間全体が少し震え、決して小さくない亀裂が至る所に走っているのがリリムには見えていた。一度、少女を強く抱きしめる。
「現実の私を、よろしくお願いします」
「任せて。貴女も、たまには出てきて良いのよ」
その会話を最後に、鎖に満ちた世界は崩壊した。
リリムが目を開くと、そこには辺りを動き回る、胴体の棺桶に少女の入った人形だった。リリムが目を覚ました事に気づいて、彼女の元へと少女は近づく。
「……出来た? 私、あの人の精霊じゃなくなった?」
少女はそわそわしながらリリムへ尋ねる。リリムは一度ふわりと飛び、少女と同じ高さに浮かぶ。
「私はリリム=ロワ=エガリテよ。今から貴女は私の精霊。よろしくね。名前は……リズにしましょう」
少女は、その言葉を聞き眩しいほどの笑顔を浮かべた。その笑顔にリリムも思わず笑みがこぼれる。
「うん! よろしく、リリム!」
元気な声が、荒野の真ん中で響いていた。




