三十一話 鎖に満ちた世界で
「あなたは私を怖がらない、嬉しい! 遊ぼう!」
絡繰りの棺桶に縛り付けられた少女は、口元だけでもわかるほどに満面の笑みでそう言った。彼女の纏う魔力はどこか異質で、そして大きなものだった。
「……付き合っても良いけれど、その前に貴女が何者なのか教えてくれるかしら?」
リリムの目には、彼女は自分に対して敵意を持っているようには見えなかった。ただただ無邪気に、楽しい時間を追い求める幼い子供のように思えた。リリムにとって、少し話をしてみたいと思わせる何かが彼女にはあった。
「私は精霊。それ以外何も分からない。あの悪魔の人は、私を束縛の棺桶少女って呼ぶの。あの人は私を呼んでくれないし、遊んでくれない。楽しくない。私が呼ばれるときは、決まって誰かの命を奪わなきゃいけない……」
少女はリリムの問いに答えた。言葉を発していくたびに、満面の笑みだった少女の顔は少しずつ曇っていた。彼女の心は、どこまでも自分に正直で、そしてやはり幼い。聞いていないのに、立場としては敵なのに――そんなことを理解してはいないのかもしれないが――リリムに無意識に助けを求めるかのように自身の心情を吐露していた。
リリムは、お節介だ。それをしっかりと自分で理解している。そんな彼女にとって、今自分が相対している少女の言葉は、どうしても手を差し伸べてあげたいという意思を芽生えさせるのに十分であった。きっとこのままでは、彼女は歪んで、壊れてしまうだろう。
「貴女、主人を変える気は無いかしら?」
「……えっ?」
少しの時間を置いて、リリムから飛び出した言葉に、少女は気の抜けた声を漏らした。リリムの中では、これが一番良い方法なのでは無いかと思った。リーデルがまんまと逃げおおせたが故に、彼自身に少女を解放させることはできない。何より、この大きな戦力となるであろう少女をリーデルが手放すとは思えなかった。
「……変えたい。あの人は嫌い。でも、契約の変更なんて」
主の意志なき契約の変更、即ち契約の上書きは、精霊術の中でも、卓越した一部の術師しか使用できない。精霊術師ではないリリムには、できない。そんなことは分かりきっている。リリムがやろうとしているのは、普通の方法では無いのだ。
「今からやるのは、『隷属の儀』っていう古い魔法よ。結果は契約を上書きして主人を変更するってものだけど、過程が違うの。貴女の中に一つの精神世界を創製して、そこで私との繋がりを作るの。その間は貴女にも少し負担がかかるけど……それでも良いならやるわよ?」
「やる。やって欲しい」
少女の返答は速く、リーデルの精霊という縛りからどうにか逃れたいという意志が滲み出ていた。
「任せなさい」
少女からの期待を込めた言葉に、リリムは自信を持って答える。その声を聞いて根拠のない安心を得たのか、少女の口角が少し上がった。
リリムが地面に手を着き、魔力を込める。そこを中心として、複雑な、青い魔法陣が地面に広がっていく。その中心に立つように、少女を誘導した。リリムを少しも疑わず、言われるがままに少女はその中心へと移動した。
「それじゃあやるよ。少しだけ、我慢してね」
少女は目隠しの下で、静かに眼を閉じた。リリムが胸の前で手を合わせ、祈る。少女の魔力とリリムの魔力が、ひっくり返した器から溢れる水のように、際限なく魔法陣の中に溢れ出し、溶け合っていく。濃く、重い魔力がそこに満ちきった時、リリムの意思は少しずつ、現実から外れていった。
鎖が触れ合う音が聞こえ、リリムは眼を開いた。彼女の視界に飛び込んできたのは、目が痛くなるほどに真っ赤な空間。足元には無数の鎖が絡み合っている。遠くから絶え間なく、微かな悲鳴が聞こえているように感じられた。ここが少女の精神世界。創るのはリリムだが、あくまでもこの空間の主はあの少女である。少女の深層の記憶に刻みつけられたものが空間の形を決めるのだ。
「……あの子、一体何があったのかしら」
少し考えてみたものの、答えは出ないと判断し、リリムはその思考をすぐに止めた。不安定で歩き難い鎖の床を少し歩いた先で、彼女はお目当てのものと邂逅した。大きな車輪の足、細く関節の多い腕、そして不気味な顔のついた、棺桶の胴を持つ絡繰り人形。ただ、その棺桶は開いていなかった。これこそが、リリムがこの空間で探していた存在。人形はリリムの姿を認めると、低い唸り声のようなものを上げていた。
「さて、やりましょうか」
リリムの声に反応して、先程までとは対照的に人形が金切り声を上げた。それを合図にしたかのように、両者の魔力がぶつかり合う。今回はいつもの戦闘とは違い、リリムも最初から魔力を全開に解き放っている。その規格外の魔力量に押されて、人形の巨体が、風に煽られた枯れ葉のように空中へと舞い上がった。リリムが人形の場所へと追いつき、その細い腕を掴んで、地面へと叩きつける。無数に絡まる鎖全体が、大きく揺れた。
「魔王の魔弾」
そのまま空中から、無数の黒い魔弾の雨が降り注ぐ。何故リリムがここまで攻撃的なのか。それにはもちろん、ちゃんとした理由があった。
『隷属の儀』は、被術者の精神世界において、その者の精神体――今回の場合はこの人形と、おそらくその中にいるであろう少女――と対話し、認められる必要がある。そのために、戦闘するつもりなら一度打ち負かさなければまともに対話ができないのだ。
魔弾の雨が人形に降り注いだ直後、反撃と言わんばかりに人形の腕の先から鎖が伸び、リリムの右腕に絡みつく。人形が鎖でリリムを引き寄せる。リリムは敢えて、それに逆らうことはしなかった。引き寄せられる勢いを乗せて、人形の左腕の付け根の辺りを蹴り込む。木材が割れるような乾いた音を立てて、細い腕が胴体と引き離される。痛みを訴えるかのように、人形は大きな叫び声をあげた。声自体が質量を持っているかのような激しい音圧に、リリムは少し距離をとった。
「仕切り直しか……まだやる気みたいだしね」
欠けた四つの車輪を駆動させ、人形はその巨体を起こした。地面に落ちた左腕を、魔弾を受けて穴だらけの右腕で拾い上げ、乱暴に肩に押し付ける。無いはずの肉が掻き回される音がして、一度離れた左腕はまた、持ち主と繋がる。人形の全身には、無数の孔が空いていた。それでも中心の棺桶は不自然に無傷で、瞳はギラギラとリリムを睨みつけていた。
「ニンギョウアソビ」
初めて、あの人形が意味のある言葉を発した。言葉と共に、胴体の棺桶が開く。その中は、深い深い闇。底の見えないその中から一人、リリムのよく知る人物が現れた。綺麗な蒼髪に、琥珀色の瞳、そして狼のような耳を持つ綺麗な女性。少なくとも見た目は、キアレと全く同じであった。
「氷華・蒼桜葩」
空間に、無数の小さな氷の花びらが舞う。その数はおそらく、億を容易に越える。キアレと同じ見た目を持つ『何か』が、リリムの側に踏み込む。リリムと同じ、色だけが対照的な大剣を、そのしなやかな体躯に見合わぬ速度で叩きつける。リリムはそれを、同じく大剣を持って受け止めていた。
「裂け、氷華」
空を舞う蒼き花びらが、速度をあげた。『何か』とリリムの剣戟の響きが起こる度に、弾かれた『何か』の隙を補い、意志を持つかのようにリリムへと飛ぶ。その花びらのサポートがあって尚、『何か』とリリムとの攻防は互角とは到底言えるものでは無かった。
「どう真似たのか知らないけど、見た目と固有魔力が同じでも、私の大事な部下の方がずっと強いわね」
右肩から左腰にかけて、斜めに、リリムの大剣が『何か』の体を引き裂いた。そこから血が流れることはなく、それらはどろりと溶け、小さな、紅い綿のようなものに変わった。
「……ニンギョウアソビ モウイチド」
人形が、胴体の重い扉を開いた。さっきと同じく、その中は闇で満たされている。リリムが地を蹴った。一度見た技である以上、何かを警戒する必要はない。例え本人じゃ無いとしても、自分と親密な人を斬るのは、リリムにとっては嫌だった。リリムが大剣を、すれ違いさまに振るう。瞬く間に人形の両腕が、胴体の棺桶から離分した。そのまま攻撃の手を緩めることなく、人形の頭を掴んで、鎖の地面へと叩きつけた。
元々魔弾に撃ち抜かれ、孔だらけだった人形の全身が限界を迎え、四つの車輪が砕け散る。残ったのは、頭部だけがついた大きな棺桶だけだった。リリムがその蓋に手をかけ、棺桶を開ける。さっきまであった、中を包む闇は消え、現実と同じように、目隠しをされた少女が鎖で縛り付けられていた。彼女は静かに、眠っているように見えた。
「ソノコニサワラナイデ クルシメナイデ」
リリムが少女に手を伸ばした時、そんな声が聞こえた。人形の切実な声だった。
「……大丈夫、私はこの子を自由にするために来たの。信じて」
「ヒトハミンナ ソウヤッテ」
人形は、抗議の声をあげていた。
「お人形さん、この人は私に用があるみたいだから」
それを嗜めるように、綺麗な声がした。縛られた少女が、言葉を発していた。
「こんな体勢で失礼します。少し起き上がるのが大変でして」
現実の幼い少女とは違い、丁寧な彼女に、リリムは内心驚いていた。それを察したのか、少女は言葉を続ける。
「現実の私は、過去の記憶を無意識に封じています。故に、同じ私でもここまで乖離があるんです。お人形さんの先程の態度も、それが関係しています。その記憶を、今からお話します。それでもなお、私を受け入れ、自由にしていただけると言うのなら、私は貴女への隷属を誓います」
少し不安そうな顔をして、少女は言った。
「話して。私はなんでも受け入れる世界を作るの。だから絶対に拒まないわ」
自信に満ちたリリムの声に、少女は不安をかき消されたのだろうか。小さな顔に、少しだけ笑みがこぼれていた。




