十八話 その手を食む
「三百五十八、三百五十九……」
闇へと続く長い階段を、リリムはトントンとリズム良く下っていく。壁に掛けられ、微かに燃える松明だけが明かりだった。段数を数えているのには、特に理由はない。ただ単純な、リリムの気まぐれである。その数歩先を、闇色の魔犬が歩いていた。
「もう少しで最下層です」
先を歩く魔犬、メアがそう言った。こんな地下深くでメアの主はなにをする気なのか、リリムは自分の好奇心半分でここに来ていた。もう半分はあの反応からして悪夢を見せている者がいると気が付いていないアンジュへの手助けのためだった。
「メア、なんであんなことやってたの?」
階段を下っているだけなのがあまりにも退屈で、リリムはそう尋ねた。
「昔、ボクが力を使い果たして消えそうな時に助けてもらったんです。名前もつけて貰って……それからは悪い事と分かっていても目を背けて、従い続けてたんです」
命を救われたという恩は、あまりにも大きいのだろう。恩返しのためだという歪んだ逃げ道をつくるための大義名分にもなりうる。メアの言葉には後悔の意思が含まれているようにリリムは感じた。
「名前もその人からもらったのね」
リリムからの問いに、メアは無言で頷き肯定する。それを見て、彼女は少し気合を入れた。名前をつけたということは、その主は魔王の資格を持つものであるということ。さっさと終わらせるつもりだったが、思ったよりも手間がかかりそうだと、そう考えていた。
思考がそこに終着した時、階段が終わる。その先には、淡い青色に輝く、重そうな扉。この世界で一番頑丈な素材の扉だった。
「あの……ご主人はボクを助けてくれたんです。だから、きっと悪い人じゃないはずなんです……きっと今は一時の気の迷いなんだと思うんです、だから……」
「止めてあげたいんでしょう? もちろんよ。私だって話も聞かずに潰すつもりはないわ」
扉の前での、メアの切実な思いに、リリムは当然のように答える。メアの言葉は、落ち着いた思考から出たものではなく、希望に近かった。それを否定することは、リリムにはできない。
メアが小さな前足で、扉を叩く。乾いた音が、地下に響く。少しすると、扉が重たい音を立てて開いた。扉の奥には明るい巨大な空間が広がっていてる。あまりの眩しさに、リリムは一瞬目をぎゅっと瞑った。その空間の中心には、巨大な生まれたての人間の赤子を模した像のようなものが、部屋の至る所から伸びる無数の管に繋がれて配置されていた。壁には信じられない量の本が乱雑に並べられた本棚があり、床にはたくさんの文字が書き込まれた紙切れや何かの空の容器が散らかっている。
「ご主人様、今戻りました!」
虚空にメアの声がこだまする。本棚の奥のほうから、微かに応える声が聞こえたような気がした。メアがそこに走っていく。リリムもその後ろに付いていく。念のため、臨戦態勢を保ったまま。先程声が聞こえたあたりの場所には紙切れと本棚の山ができていてその中からうめき声が聞こえる。メアがその山をかき分ける。
「ご主人様、何やってるんですか……」
山を全てかき分けると、その下から耳長の妖精の細身の男が現れた。紫紺の髪はぼさぼさで手入れはされておらず、それと同じ色の瞳は怪しく輝いていた。本来透き通るはずの羽は濁り、肌の色は薄くくすんでおり、瞳の下には濃ゆい隈が刻まれている。あまり健康そうとは思えない見た目だった。
「悪い、少し本を引っ張り出したら下敷きにされてそのまま眠気がな……」
頭をボリボリとかきむしりながら、メアの質問に対して男は答えた。
「メア、彼女は?」
男はリリムの姿を認め、メアに尋ねた。その雰囲気は柔らかく、傍に居たリリムには、この男が本当に悪夢から負のエネルギーを回収するように命じたとは思えなかった。
「リリム=ロワ=エガリテと申します。メア君のことを見つけてしまって、少し興味があったのでついてきてしまいました」
目的を聞きだすために、一旦リリムはそうごまかした。
「なるほどね。僕はクロート・ザックだ。興味を持ってくれるとは嬉しい、是非とも見て行ってくれたまえ!」
嬉しそうに、そして得意気彼は言った。褒められた子どもかのような無邪気な顔だった。ますます、リリムはクロートが本当に命じたのか信用できなくなる。
「いやぁ、リリム君は実に良いタイミングで来たねぇ。ちょうど一番大きなものが完成するところなんだよ」
クロートがそう言って、リリムの手を引く。そのままに付いていくと、さっき見かけた赤子を模した像の元へと連れていかれた。
「さてと、メア、最後のエネルギーを渡してくれ。それで完成するんだ」
クロートがメアに向けて手を伸ばす。対するメアは、リリムのすぐそばから動こうとしなかった。
「先に教えてください……何のためにこんな事してるんですか? 人の夢っていうやすらぎの時間を歪めて」
覚悟を決めたような、芯のある声でメアは言った。クロートは一瞬驚いたような顔をして、すぐに落ち着いた表情を取り戻した。
「ボクを助けてくれたときはあんなに優しかったじゃないですか、それなのにこんな事するなんて……間違っていると思わないんですかっ……」
メアは必死に訴える。自身を助けてくれた主が、これ以上間違った道に進んでほしくないから。その訴えを踏みにじるかのような、乾いた笑い声がただっぴろい空間に木霊した。
「やっぱりお前は馬鹿だなぁ。まだ気づいていないのか。お前を助けた時って、お前たち魔犬の群れがモンスターに襲われて壊滅してた時の話か? まだ救世主に見えているのか?」
一瞬で、クロートの纏う雰囲気が変わった。先までの柔らかい雰囲気は微塵も残っていない。まるでゴミを見るかのような冷ややかな目で、メアのことを見ていた。
「救世主に見えていたってどういう……」
「僕の野望のためにお前の固有魔力が必要だっただけの話だが? お前が持つ負のエネルギーを回収する力が。そのためにわざわざお前の群れを壊滅させ、お前だけを助けてやったんだよ。お前にとって俺は救世主に見えただろう?」
その会話からは、断片的な情報しか得られない。でも、その数少ない情報だけでもメアがクロートのことを正したいと思っていた理由と、そのクロートはどうしようもない歪んだ人なんだということが、リリムには伝わった。彼女の足元で、メアは啞然と立ち尽くしていた。
「お前みたいな馬鹿に分かるように言ってやるよ。お前の家族たちを殺したのは僕の従えたモンスター。お前の力が必要だから、その力を僕のために無条件に振るってくれるように、依存させるためにわざわざ助けるのを演出してやったんだ。これで分かったか?」
メアの小さな体は、震えていた。それは恐らく怒りと、裏切られたことへの悲しみからだろう。聞いていただけのリリムでさえも、クロートに対して憤りを感じていたのだから。
「それで、さっきの質問に答えると、僕の目的は僕の忠実な部下を作り上げることだ。その手段というのがだね……」
「もういい」
したり顔で説明を始めようとしたクロートの言葉を、メアが遮った。
「リリムさん、お願いします。手を出さないでください」
きっと彼にとって大切なものをかけた戦いなのだろう。リリムは少しだけ間をおいて、頷き距離を取った。それを見たメアは戦闘態勢を取った。全身の毛を逆立たせ、低くうなり声を上げる。それを見て、クロートは深くため息をついた。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないか。僕のために役立てたと思えば光栄だろう?」
どこまでも自己中心的なクロートの発言に、戦闘の幕が上がる。メアの背後に、五つの魔法陣が浮かんだ。そこから魔法が放たれるのを止めようと、クロートが何か玉のようなものを投げ飛ばす。それは蛇に姿を変え、メアへととびかかった。それを飛び退いて交わしながら、メアは黒く濁った触手のようなもので蛇を貫いた。きっとこれが、負のエネルギーというものなのだろうと、見守っていたリリムは感じた。メアの背後の魔法陣は、少しずつ輝きを増していく。
「させるか……」
クロートが今度は、自分の足元にそっと触れた。一瞬の間をおいて、メアの足元に巨大な、何かの口が現れる。それを察知して、メアは強い風を吹かせて飛び上がる。
「上に逃げるしかないもんな?」
それを見越していたと言わんばかりに、クロートが球体を投げる。それはさっきの蛇のものとは比べ物にならないほどに巨大だった。そしてやはりそれは姿を変えた。今回は蛇ではなく、魔犬の群れに。一瞬ためらいながらも、メアは自分を中心に濁った触手を全方位に放った。耳を劈く悲鳴を上げて、魔犬の群れは全て触手に貫かれる。飛び散る血の飛沫と肉片、そして網のような触手に紛れて、メアの体はクロートのすぐ後ろにあった。
「喰らえ、大魔法……!」
「メア、地に伏せろ」
五つの魔法陣から魔法が放たれようとした時に、クロートが呟いたその一言。メアの体は地に押し付けられる。背中の魔法陣も、メアの魔力の乱れに巻き込まれ、消えてしまった。
「勝ったと思っただろう? その勝利を確信したものが壊れるの、大好きなんだよな」
メアの瞳からは、涙が流れだしていた。クロートが足を上げ、メアを踏みつけようとする。その足を、リリムが蹴り、弾いた。クロートが距離を取ると同時に、メアはなんとか立ち上がった。ふらふらの彼を抱えて、リリムは言った。
「目の前で死なれるのは流石に見過ごせないの。手を出してごめんね?」
彼女の腕の中で、メアは泣いた。
「恨みを晴らしたいんです、でも、ボクじゃできないから……リリムさん、助けてください……」
さっきは手を出すなと言って、今度は助けて。都合の良いことしか言っていないと、メアは自分を呪った。リリムはメアをそっと降ろし、クロートの方へと向き直った。
「任せなさい」
自信満々にそう言って。




