十四話 道中での遭遇
朝が訪れた、妖精の森。温かい日差しと、小さな青い鳥の鳴き声でリリムは目を覚ました。
「お姉様、おはよう」
キャロルが、リリムのすぐ側に座っていた。パランが、その上にちょこんと乗っている。
「おはよ……」
寝転がったまま、ふわふわした言葉でリリムが答えた。巨木の中の部屋には、リリムとキャロルの二人だけ。それに気がついて、彼女は体を起こした。きょろきょろと見回すも、やっぱり二人しかいない。
「みんなもうオベイロンさんと行っちゃったよ? リーディアさん、昨日迷惑かけたからって張り切ってた」
別に気にしなくて良いのにな、と思いながら、窓の外を眺める。天気は快晴。リリムの気分も不思議と高揚する。リリムは大きく背筋を伸ばした。その懐に、パランが潜り込んだ。
「今日こそパシフィストに行くんでしょ。吾輩がお供するよ」
リリム一人だとすぐいろんなことに首を突っ込んじゃいそうだから、一人では行かせられないとは、彼女は言わない。リリムの方は、そんなキャロルの気遣いにはてんで気づいていない様子だった。
「そうだね、行こうか」
部屋に置いてあった、葉っぱ型のメモにパシフィストへ行ってくると書き置きを残して、二人は巨木から出た。森はいつもと同じように、相変わらず静かで、綺麗だった。
「パシフィストまで、飛んでいくの?」
妹の問いに、リリムは小さく頷いた。頷いた後で、そういえば、キャロルはどうやってついてくるつもりなのだろうかとリリムは思った。そんな疑問は、すぐに解消された。キャロルが両手を組み、祈る。
「おいで、ニコ」
彼女の呼ぶ声に応えるように、どこからともなく、立派な角をもつ、豪華な鞍の付いた白馬が現れた。キャロルがその背中に跨り、首筋を撫でる。
「白の精霊馬……初めて見た」
精霊馬は元来、人里離れた静かな場所にしか現れない。そもそも精霊術師でないと警戒され、近づくことさえもできない。その中でも特に、純粋な魔力が高いとされる白毛種ならばたとえ精霊術師だったとしてもなかなか気を許してはもらえない。ということが、リリムの、と言うよりもみんなが知っている知識だった。
「えへへ、凄いでしょ。ニコって言うんだ」
キャロルが胸を張って、したり顔。ニコと呼ばれた白馬も、フンと鼻を鳴らして、威張っているようだった。
「それじゃあ、行きましょうか」
リリムが翼を大きく広げて、大地を蹴る。彼女の姿は瞬く間に消えた。キャロルもそれに合わせて、ニコの手綱を握りしめる。精霊馬も、その逞しい足で大地を蹴った。二人と一匹は妖精の森と広い草原を抜けた。彼女たちが、昨日の山脈までたどり着くのにそう時間はかからなかった。
山脈の上空は相も変わらず得体の知れない、大きな魔力が包んでいて、昨日よりも空気が冷たく、激しく風が吹き荒れていた。
「寒っ……!」
キャロルがそうこぼした。確かに寒い。今いる場所が高山だから、という理由もあるが、それを加味したとしても、異常なまでに気温が低かった。だんだんと、山脈の上空を吹き荒れる風が強くなっていく。その風の方向は、ある一点に集中していた。空の一点に、小さな空間のひずみができている。空気がその一点に吸い込まれて、その結果、この暴風が起こっている、といった感じだった。
「……お姉様、吾輩嫌な予感する」
魔力の気配に敏感な彼女の嫌な予感は捨て置けない。一旦、二人は動きを止めた。空気の吸い込まれていく一点を、リリムは注意深く見つめる。
「……二日連続で止まる気は無いのだけど」
その一点のひずみを中心に、空間にヒビが入る。
「キャロル、気を付けて」
短く、リリムが警戒を促す。ヒビはだんだんと大きくなり、空間が砕けた。空に、裂け目ができる。そこから、真っ黒に塗りつぶされた巨人が這い出てきた。全身が出て来た瞬間、その裂け目は閉じ、跡形もなく消えてしまった。
「亜空間の獣……面倒ね」
こことは違う世界に潜む、漆黒の巨人のモンスター。本来、ここに現れるはずのない獣。魔力の濃ゆい場所にしか現れないはずだし、そもそも亜空間の獣など、本にしか載っていない太古の存在のはずだった。それが、リリムの前に現れた。
「お姉様、どうする?」
少しだけ自信を無くしたかのような、恐れているかのような、元気のない声でキャロルが聞いた。リリムにだって、何が起こっているのかは分からない。
「どうするとは言っても……」
虚空より大剣を取り出し、右腕で構える。
「戦わなきゃいけないみたいね。できれば、なるべく傷をつけずに帰してあげたいところね……」
リリムは今、考えていた。どうにかして、巨人になるべくダメージを与えることなく亜空間に送り返す方法を。彼の――あのモンスターに性別があるのかは分からないのだが――その魔力は安定しておらず、激しく乱れていた。怯えているのか、興奮しているのか……少なくとも、友好的ではなさそうだった。キャロルが何かを察知して、ニコの手綱を握る。白い影は、高速でリリムから遠ざかった。
「……あまり傷つけたくはないのよ、とは言っても通じないのかしらね」
リリムが、自身を魔王たらしめる理由、彼女の強さの根幹である、規格外の魔力を解き放つ。深紅の左目が煌々と輝き、漆黒の翼が肥大化する。彼女の魔力にあてられ、空間が激しく震える。その魔力は巨人の意識をリリムに集中させるのには過剰とも言える量だった。
『――ッ』
顔のところがぱっかりと割れ、口のようなものが現れる。そこから、耳を劈くかののような叫び声が放たれる。その声は不気味で、離れたところに避難したキャロルが、思わず耳を塞いでしまうほどだった。リリムのことを敵として認識したようだった。巨人もリリムに対抗してか魔力を開放してみせた。二つの魔力がぶつかり合い、景色が歪む。時間はまだ朝だというのに、二つの巨大な魔力に塗りつぶされて、空は暗くなっていた。
「ニコ……もう少し離れよう」
自身のいる場所はまだ危険だと感じて、キャロルはもう少しだけ、リリムと巨人から距離を取った。リリムはしっかりとそれを確認してから、大剣を振り上げた。巨人はそれに対抗して、大きな腕を振り上げた。彼女が剣を振り下ろすよりも先に、その巨大な腕が彼女を撃ちぬいた。小さな体が吹き飛び、山肌に叩きつけられる。山肌が大きくへこみ、ぶつかったのがリリムという小さな少女だとは思えないほど、巨大なクレーターが出来上がる。そのまま、巨人は何度も何度も、両腕でそのクレーターの中心を殴り続けた。巨人が一発殴るたびに、少しずつ山が崩れていく。巨人の動きが止まるころには、山脈だったはずの場所は、山はすべて消えて、ただの更地になっていた。
「……もう終わり?」
クレーターの中心から、リリムは立ち上がった。巨人の肉体が示す、大きな膂力と魔力で何度も殴られたにも関わらず、全くといっていいほど彼女には傷がついていなかった。一瞬戸惑ったような素振りを見せて、巨人はもう一度リリムに殴りかかった。未知の現象に怯えたように、恐怖を振り払うように、がむしゃらに。ただ、その巨人の腕はリリムに届く前に、止まった。彼女の前で、何か透明な壁にぶつかったかのように。
「もうやめなさい。あなたを傷つけたくは無いの」
巨人は何が起こっているのか理解ができていないのか、何度も何度もリリムに殴りかかる。しかしそれも、さっきと同じように見えない壁に阻まれる。リリムに拳は、届かない。このからくりは単純。魔力を自分の体に纏わせるという、この世界の戦闘においての基本的な防御術。ただそれも、規格外の魔力を持つ彼女がそれをやると、如何なるものよりも硬い鎧になるのだった。その魔力を大剣にも纏わせて、一度だけ振り下ろした。彼女からすると、大剣を真っすぐに振り下ろしただけ。単純に、敵意も、殺意も無い。斬撃を放つなどはしていない。それなのに、戦闘を遠くから見守っていたキャロルと、振り下ろされた側の巨人には、巨人の体が刻まれたかのような幻覚が見えた。もちろん、そんなことは無く、彼女の魔力が見せた幻なのだが。
「もう、やめるわよね?」
静かに、リリムが言った。赤子に言い聞かせる母親のように。彼の荒れた感情を慰撫するかのように。幻覚から解き放たれた巨人の魔力は、落ち着いていた。
「ア……ト……」
巨人が、何か言葉を発しているように思えた。ただ、感謝を述べているのはなんとなくリリムには伝わった。巨人は右手を振り上げ、そのまま斜めにゆっくりと降ろした。空間に、紙を破ったかのような歪な裂け目ができる。彼はそのままそこに入って行った。しばらくするとその裂け目も消えて、まるで何もなかったかのように、また静かに風が吹き始めた。彼がいたことを証明するのは、派手に壊れ、更地になってしまった山脈くらいだった。
「はぁ……怖かった……」
ニコに乗ったキャロルが、リリムのすぐそばまで来た。巻き込まれないように、少し離れた場所に避難していたようだ。その言葉を聞いて、リリムは少し笑った。
「別に巻き込んだりしないのに……まあいいわ。行きましょ」
彼女たちはまた、空を駆け始めた。元は山脈だった更地を越え、走って、走って。二人が目的地であるパシフィストに辿り着いたのは、昼を回ったころだった。




