百三十八話 狭間の主
――自分に、上手くやれるだろうか。
開け放った宿の窓枠に腰掛け、リリムは一人、そんなことを考える。真祖の吸血種との密約を交わし、チエーリアへ戻ってきた時には既に陽の光は姿を消し、夜の帷が優しく街を包み込んでいた。
「迎神の儀の最中に、厄災の封印を解く……おそらく止めに来るであろう風の魔竜の相手はミアさんがやってくれる……」
柔らかな夜の風を背に受けながら、彼女は一人、自身の役目を反芻していた。
「ミアさんが足止めをしている間に、私は嫉妬の厄災を器から引き剥がす。なるべく早く、器を傷つけないように……」
独り言を呟く間、彼女の足は忙しなくパタパタと揺れ、一定のリズムで壁を鳴らす。
「私なら、できる……いや、私じゃなきゃ務まらない。そうよね」
虚空へ投げかけた彼女の問い答える声はなく、代わりに聞こえたのは規則的に時を刻む、部屋に置かれた柱時計の秒針の音と、控えめな寝息の音。普段なら間髪を容れず肯定を飛ばすであろう彼女の従者は、既に眠りについているのであった。
「もう、日も変わっているものね」
リリムはそれに少しの寂しさを感じながらも、しょうがないか、と諦め交じりのため息を漏らす。キアレはただ、生命の維持に必要なだけの睡眠をとっているだけに過ぎず、むしろ普段の働きを考えれば休養の時間は短すぎると言っても良いのではないだろうか。
「……きっとまた、キアレには無理をさせてしまうわ」
落ち着かないのか、部屋の中を理由もなく歩き回りながら、リリムはそんな呟きを漏らす。彼女のその声を最後に、部屋には彼女の足音以外の物音が聞こえなくなった。
「――ん?」
そう、文字通り何も。つい先程まで、微かに聞こえていた従者の寝息も、一秒おきに規則的に時を刻んでいた時計の秒針でさえも。
「キアレ、居る?」
えも言えぬ不安感に襲われて、リリムは思わずそんな呟きを漏らしていた。同時に、魔力による探知網を無意識のうちに研ぎ澄ませながら。
「誰も、居ないの?」
返答がない、どころか彼女の魔力探知に反応するものは、何もなかった。彼女の魔力による探知網は、言わずもがな広大であり、ゆうに彼女が滞在している街をカバーすることができるだろう。それでも、彼女は自分以外の存在を感じることができなかったのである。
「一体、なんだって言うのかしら。私だけ、別の世界に飛ばされたみたいじゃない」
ひどい孤独を感じながらも、リリムの心は不思議と落ち着いていた。無論、平常時よりもわずかに心音のペースは早まっているものの、冷静な判断ができる程度には。
「ひとまず、転移を試してみましょう。発動できるなら、それが一番手っ取り早いわ」
リリムの右の手のひらには、既に魔法陣が刻まれていた。それを目の前へ放り投げると共に、僅かに魔力を注ぎ込む。動力を得て、完成した魔法陣が効力を発揮せんとしたその瞬間――
「三途へ命が舞い降りるとは……死の間際か、あるいは――」
背後から自分以外の声が聞こえて、リリムの全身は一瞬の硬直を得る。それに連鎖して、彼女の作り上げた魔法陣が、耳障りな音を立てて砕け散った。
そのカケラがまとわりつくことなどお構いなしに振り向いた彼女が見たのは、そこに立つ者の姿。
黒く長い髪と、それと同じ色を基調とした着物を纏う、リリムが僅かに見上げる程度の体躯を持つ、おそらく人間の女がそこにはいた。
「何者、かしら? 無闇な争いは避けたいし、敵意は無いと助かるんだけれど」
背筋を伝う冷たさを感じながら、リリム=ロワ=エガリテはそれへ問う。軽く握られた彼女の拳には、既に魔力が纏われていた。
自身の魔力探知に引っかかっていない、それだけで、リリムが警戒するには十分すぎる理由があった。
「――もし、そこの御仁。今の言葉は私に向けられたものか?」
目の前の女のその言葉は、余りにも気の抜けた声で発されていた。
「え、えぇ。そうよ?」
それに釣られて、リリムの警戒の糸も僅かに緩んでいた。
「ふむ……迷い込んだ上に私が見えるとは、珍しい人も居たものだ」
女は顎に指先を当て、リリムの顔をじっと覗き込む。何か言いたげなその視線に、リリムは一度黙ってみることを選択させられた。
「もしかして――私たちはどこかで会ったことがあるか?」
その質問に、どのような意図があったのかをリリムが知る由は無い。自身へ投げかけられた問いへの回答を出すために、彼女は一瞬思考を巡らせる。だが、いくら記憶の本棚を漁ってみても、彼女のことは見つからない。
「……いいえ。私が忘れたわけじゃなければ、今回が初対面になるはずよ。貴女みたいな綺麗な人、早々忘れるとは思わないもの」
「そうか。嬉しいことを行ってくれる」
柔らかな声音と共に、彼女の腰のあたりから垂れた獣の尾が静かに揺れる。ふと、リリムが視線を彼女の頭部へ向けてみると、髪色と同化した、狼のような耳も僅かに揺らめいていた。
目の前に立つ『何者か』に対し、リリムの警戒は緩まない。恐らく敵意はないのだろうが、彼女の正体を、目的を知るまでは完全に違うとは言い切れない。加えて、従者と離れ離れになっている状況も、リリムの緊張を加速させていた。
「それで、私が何者かだったな」
魔王の視線を向けられた状態で。それを意に介すことも無く女は話し始めた。
「私の名は奈落。幽世と現世の渡し守をしている一介の狼人族に過ぎない」
身体的特徴は、確かにリリムのよく知る狼人族と合致する。だが、リリムの興味の矛先を向けられたのはそこではなく――
「幽世と現世の渡し守……その言葉に従うなら、私は今その狭間に居るのかしら?」
当然のように告げられた、不穏な言葉であった。彼女の問いに、奈落と名乗った女は首を横に振った。
「この空間はただ、私が組み上げたプライベートルームのようなものだ。私の力で作っている故、通常他人が入ってくることはなく、だからこそプライベートルームとして成立しているのだが……」
言葉の途中で、奈落の視線がリリムの顔を見据える。敵意はやはり含まれていないが、温かみもまるでないその視線に、自然とリリムの背筋は強張る。
「まさか、こんな辺境の街で私の結界を越えてくる者が居るとは思わなかった。是非避ければ、名前を聞いてもいいだろうか」
そう告げる奈落の顔は、一切の他意が含まれていない爽やかな笑顔だった。
「……リリム=ロワ=エガリテよ。ここから西の方にある、エガリテの王をやっているの」
「これは、王様だったか……」
リリムの軽い自己紹介を聞き、奈落は数歩身を引いた後、自身の着物が崩れていないかを慌てて整える。
「粗相をしていないだろうか。打ち首のようなことをされるのは困ってしまうのだが……」
狼耳をぺたんと倒し、毛並みのいい尻尾も力なく垂らした姿でそう告げる奈落へ、リリムは小さな笑みを零していた。
「そんなことしないわよ。それに、かしこまった場でもないのに、粗相なんて気にしなくていいわ。第一、私はそういうことを気にするタイプじゃないもの」
リリムのその返答に対し、奈落は静かに胸を撫で下ろす。
「それは良かった……まだこの国でもやることがあるのに、こんなところで死んでしまっては困るからな」
自分の命が危険じゃないと分かった途端、奈落の尻尾が静かに揺れ出す。その俗っぽい、等身大な姿にリリムの中にあった警戒や不安といった負の感情は、すっかりどこかへと流れ去ってしまっていた。
「リリム殿は王族……という事であれば、この国へ来たのは私と同じく、迎神の儀への参加が目的だろうか」
「そうよ。招待を受けて来たのだけれど、少し早く着きすぎちゃって」
「やはりか。私と同じだな」
短い、他愛もない雑談のような会話の中でリリムには、奈落の『同じ』という言葉にどこか力が入っているように聞こえた。
「私は少々縁あって、ある組織に所属していてな。その首領からのお遣いで、風神様のところまで会いに来たという訳だ。まさか道中で貴女のような強者と知り合うことが出来るとは思っていなかったが……」
爽やかな笑顔のまま、奈落はそんなことを口にする。腰に刺された彼女の獲物であろう、一本の太刀の上で、その指が一定のリズムを刻む。
「是非お手合わせを願いたいところではあるが、今はその時間ではなさそうだ。リリム殿も戻らなければ、もうすぐ夜が明けてしまう」
言葉と共に一瞬溢れた殺気を抑え、奈落は少し残念そうに言う。いつの間にか、彼女の腰に刺さっていたはずの太刀は空気に溶けるように消えていた。
「助かったわ。手合わせ、模擬戦といった類のものは得意じゃないの……」
奈落が刃を納めてくれた姿に、リリムはふぅ、と安堵のため息を漏らす。たとえ命のやり取りではなくても、彼女は自身の魔力を、刃を他人へ向けることを苦手としていた。それはおそらく、彼女の根底にある優しさが由来だろう。
「ところで、どうやってここから戻ればいいのかしら?」
会話に区切りがついたと判断し、リリムは奈落へ問う。返ってきた答えは、至極単純なものだった。
「先程リリム殿が使おうとしていた転移魔法で戻ることができる。特に魔力を妨害するような場所でもないからな」
その答えに従い、リリムは自身の手の中に魔法陣を組み上げる。常人とは比較にならない程に早く、正確に組み上げられたその術式は既に効果を発揮せんとしていた。
「目的が同じなら、また出会うだろう。良い縁で結ばれていることを願う」
「ええ。また会いましょう、奈落さん」
簡潔な別れの会話を交わした直後、滞留した時の狭間に魔王の魔力が迸り、眩い白光があたりを包む。
「リリム=ロワ=エガリテ……覚えておこう」
それが収まった頃には既に、狭間の世界には魔王の姿は存在しなかった。




