百三十五話 月下の薔薇教会
眩いほどの陽光に照らされた、チエーリアの街並み。その一角――人気の無い路地裏に、魔王は居た。再会した友人と、その者の間に生まれた話を進めるために。
「――そうだね、こんな所で立ち話も悪い。此方の拠点に案内しよう」
リリムの眼前で羽ばたきながら、一羽の蝙蝠がそう告げる。それは小さな体を動かし、空中に魔法陣を組み上げながらの発言でもあった。
「私をいきなり拠点に呼び込んでも平気なんですか?」
忙しなく全身を動かすミアに対して、リリム=ロワ=エガリテは問いかける。協力をすると持ち掛けたのはリリムであり、彼女とミアはつい先ほどが初対面である。そんな存在を拠点といった大切な場所に引き入れるのは随分と思い切った判断ではないか――とリリムは考えていたのである。
「魔王様はジュエリアの友人だろう? 此方はジュエリアの人を見る目を信用しているからね。この子が友人として接する相手とすれば、もう十二分に信頼に値すると感じているよ。あとは、此方のことを信用してもらう意図もあるとも」
全く揺らぎのない声には、ミアのジュエリアに対する全幅の信頼が見て取れた。それに、重要な場所を晒すことで信用を得る手段とするそのやり方も合理的と言えるだろう。リリムは腕を組み、納得したような小さな声を漏らしていた。
「それに」
ミアの言葉にオマケを付け足すように発されたジュエリアの声に、リリムの顔がふと上がる。
「その溢れ出る善人の気配に対して警戒しろと言う方が難しいと私は思いますよ?」
「そうだね、まさか此方の動機を聞いてあそこまで切ない顔をされると思わなかったよ」
二人によって笑い交じりに告げられたその言葉に、リリムは少々困惑の表情を浮かべざるを得なかった。
「そ、そうでしょうか……?」
決してリリムは善人として自分を見せていた訳でもなければ、ミアの言うように表情に出していたつもりもない。だが――
「だからこそ、だよ。素で見えるからこそ、此方は魔王様を信用に値すると判断した。それは君の立派な武器だと此方は思う」
「なるほど……」
リリムは納得したような声を漏らしながらも、その表情はどこか納得できていないように見えた。そんな彼女を横目に、ミアは魔法陣を組み上げていく。
「そんなことを聞くのであれば、そちらこそ一人でこんなことに首を突っ込んで平気なのかな。少なくとも安全とは言えないであろうことなのだが」
「はい、その点については全く問題ありませんよ」
ミアからの問いに返されたリリムの声はとても自然なもので、当然というようなものだった。
「一番頼りになる従者が私のことをずっと見ていてくれていますから。キアレ、そうでしょう?」
リリムがそんな言葉を口から発すると同時に、路地裏の入り口から一つの足音が鳴る。リリムが向けた視線の先にあったのは、彼女の大切な親友にして従者である狼の姿だった――二本の尾をだらんと垂らし、耳をぺたんと倒して、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべていたが。
「完全に気配は殺していたはずなのですが……」
「気配は実際感じなかったわ。ただの勘よ」
小さな胸を張り、リリムは笑顔でそう告げる。
「それよりも、何をそんなに萎れているのよ」
「……リリム様を信じると言ったにも関わらず、結局こうやってついてきてしまって、申し訳ないと思いまして」
高い身長を折り、尾を垂らすキアレの頭にリリムは手を伸ばし、優しく撫でる。まるで愛犬を愛でるかのように、頭頂部から頬にかけて優しく、ゆっくりと。
「別に良いのよ、そんなこと。むしろ私のことを大切にしてくれてるってことじゃない? とても嬉しいわ、ありがとう」
にこやかに、穏やかな声でリリムは従者へと感謝の言葉を告げる。それは紛れもない本心であり、萎れたキアレの調子を戻すのには十分過ぎるものだった。
「……いえ、主に害無きよう守るのは従者の役目。私には過ぎた言葉でございます」
数秒前まで垂れていた二本の尾を左右にゆっくりと振り、畳まれた耳をピンとのばしながら、キアレは一転して笑顔を取り戻していた。
それもまた、リリムの善性の証明と言っても良いのかもしれない。
「ずっと見ていてくれたなら、説明は要らないかしら?」
リリムから投げかけられた問いに、キアレは首を真っ直ぐ縦に振る。
「不要です。話題が話題なのでもう少し早く姿を見せようかとも思ったのですが、こうなってしまいました」
そう答えながらキアレは主の愛撫からその身を引き、ジュエリアの前へ向き直る。
「私、名をキアレ・ウルフェリルと申します。リリム=ロワ=エガリテ様の忠犬でございます。よろしくお願いします、ジュエリア様」
「えぇ、よろしくお願いしますわ」
柔らかい笑顔と共に短く、簡潔な自己紹介を済ませ、キアレとジュエリアは挨拶を交わす。特に何の問題もなく会話をする二人を見て、リリムはこっそり胸を撫で下ろしていた。
そんな彼女ら三人の間に、パタパタと一羽の蝙蝠が舞い降りる。
「キアレ殿、だね。此方達の会話を聞いていたにも関わらずその姿を見せ、尚且つ先程の対応をしていたと考えると、君も協力者として考えてもいいのかな」
「……もしも違うと答えたら?」
ミアからの問いにそう言葉を返すキアレの顔は、ジュエリアへ向けていた柔らかなものとは一転、凍てつく氷のように冷たい瞳を含んだものだった。尾をピンと張り、軽く背を屈めて僅かに魔力を放つその姿は威嚇する獣のよう。
「そうだね、相手によってはここで消すと言いたいところだが……君は些か強い。そう簡単に消させてくれないだろうし、何より魔王殿を敵に回したくは無い。今回に限っては見なかったことにするだろう。彼女の前では此方など吹けば飛ぶような存在だろうからね」
「ふむ、なるほど……」
ミアの答えに満足したのか、キアレの纏う魔力がふわりと霧散する。
「私はリリム様の従者に過ぎません。リリム様が協力すると言うのなら、それに従うのみです。試すような物言いと無礼を、申し訳ございませんでした」
先の挑戦的な発言は、彼女なりの牽制のようなものだったらしい。魔王の忠犬は腰を直角に深く折り曲げ、謝罪の言葉と共に現在の自分の立ち位置をはっきりと宣言していた。
「構わないとも。むしろその対応こそ従者としては正しいものだろう? 羨ましい限りだね」
キキキと甲高い鳴き声を漏らすミアの背後には、妖しく輝く魔法陣が組み上げられていた。
「では行こうか」
彼女の声に反応して、紫紺の魔法陣が更に輝きを増す。転移の術式が、静かに起動された――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一瞬体にまとわりついた浮遊感が消えたのを確認し、リリムは恐る恐る瞼を開く。そんな彼女の視界に飛び込んで来たのは、つい数秒前までとは全く違う場所。月の輝く夜空の下、至る所に薔薇の装飾が施された、扉に魔法陣が刻まれた教会が彼女の前に鎮座していた。
「……ここが、ミアさんの拠点」
確認するかのようなリリムの声に、返答は無い。不思議に思った彼女が振り向くと、そこにいたのはキアレただ一人。
「……いらっしゃいませんね」
共に来たはずの蝙蝠も、ジュエリアも今の彼女らの傍にはその姿が無かった。
「とりあえず行きましょうか。あの人の拠点らしいし、中に入れば見つかると思うわ」
「承知いたしました」
キアレが、リリムの提案に一切の異論を唱えることは無い。主を先導するように前に立ち、教会の扉へ手をかける。その時、一瞬彼女の動きが完全に静止する。
「……リリム様、ご注意を」
手をかけたまま、キアレはそう告げる。全身に魔力を纏って。
「分かってるわ」
キアレの忠告が告げられた時には既に、リリムもその体に魔力を纏い、臨戦態勢を整えていた。
「では、行きます」
キアレの確認するような言葉と共に、大きな扉が一気に押し開けられる。刹那、そこから一つの影が飛び出す。それはリリムと同程度の背丈に、深紅と琥珀色の瞳を持つ、メイド服を身に纏う黒髪の少女のもの。
「侵入者は、死ね!」
敵意を一切隠すことない発言と共に、少女の腕に背丈を越える程の凶悪な獲物が握られ、リリムの首筋めがけて振り抜かれる。その姿を視認しながら、魔王は一切の動きを見せない。彼女は、信用していた。
それに応えるように、刃はリリムの体に届くことなく、氷を纏った狼の爪に引き止められていた。
「な……」
襲撃者たる少女の顔に、一瞬驚愕の表情が浮かぶ。それは明確な隙であり、キアレがそれを逃すはずもない。少女の獲物ごと引き裂く勢いで、キアレの爪が振りぬかれる――それが届く寸前で、少女はおおよそ人間には不可能であろう体のしなやかさを見せ、凶爪を躱しながら飛び退いた。
「今のを避けますか」
そう呟くキアレの顔にも、驚きの表情が浮かんでいた。
「アンタら、強いのね」
ギリ、と少女の口元から歯軋りの音が漏れる。その歯は、一眼見れば印象に残るほどに鋭く尖っていた。
「私達は招待されたのですが……」
「証拠がないじゃん。そんなでっち上げで通すわけない」
蝙蝠からの招待状は、襲撃と共に開かれたのだった――




