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百三十二話 騒々しい来訪者

 静かな、静かな夜を越えて、チエーリアの街に温かな日差しが訪れる。街のもの全てが平等に享受した静寂を小鳥の鳴き声が破り、徐々に街に活気という名の炎が燃え始める。


「……いい天気」


 そんなチエーリアの街の様子を、リリム=ロワ=エガリテは穏やかな表情を浮かべて見下ろしていた。足を組み、指を絡めて弄りながら彼女は朝の訪れを歓迎する。


「やっぱり朝日って綺麗……シルフさんもそう思いませんか?」


 リリムはおもむろに、そんな言葉を口にしていた。言葉の矛先は、自分の左肩――そこに体を預けて静かな寝息を立てる、魔竜と同じ名を持つ有羽族(セイレーン)。ただその問いかけに対して、答えが返ってくることは無かった。

 静かに竜の尾を揺らしながら顎に手を当て、小さくうめき声のようなものをリリムは上げる。


「今日は何をしようかしら……」


 そんなことを一切意に介すことはなく、リリムは訪れた一日で何をしようかと考え込む。いつも通り優しい表情をして、思考を脳内で繰り広げる彼女の前髪に、柔らかい風が吹きつける。それに彼女は一瞬目を細めながらも、特にそれ以上の反応を示すことはない。


「やること、ないの?」


 リリムの思考に、少し低いところから聞こえて来た一つの声が割り込む。彼女がその声の主を探そうと目線を下げてみれば、ものの数秒で探し物は視界へと収まる。

 すやすや眠るシルフの膝上に、一羽の小鳥が翡翠色の美しい翼で小さな体を包み込み、ぴょんぴょんと跳ねていたのである。


「テンペスト……そうね。風神様に直々に招待されたからって早く来ちゃったけれど、正直なところあまりやることが思いつかないわ。観光でもするべきかしら……」


 小さなため息を漏らし、リリムはシルフへそう告げる。


「なるほどね……観光、いいと思うよ? この街はいろんな魅力に満ちてるからね。もし必要なら、この子に言えば――」


 彼が言葉の途中で翼を揺らし、シルフの頭の上へと静かに飛び乗る。


「当然、案内も請け負ってくれるはずだよ」


 リリムには、彼が形の変わるはずのない口角の端を上げて笑っているように見えた。


「ひとまずは、彼が起きてからかしらね……」


 魔王は風に揺らされた自身の綺麗な銀髪を指先で静かに整えながら、穏やかな一日の始まりを過ごしていた。左肩にかかる重みに少し微笑み、ただ街全体が目を覚ますのを待っていた。


「……ここにいらっしゃいましたか」


 唐突に背後から聞こえてきた声に、リリムは軽く振り返る。そこに居たのは、彼女に限りない忠誠心を捧げる忠犬、キアレだった。胸を撫で下ろすような仕草を見せ、彼女は小さくため息を吐く。


「おはよう、キアレ。少し眠れなくて、時間を潰してたのよ……もしかして、心配かけたかしら?」


 昨夜、リリムはキアレに対して何かを伝える手段を何も残すことなく部屋を出ていた。キアレの仕草や彼女の置かれた状況から、もしかして……という不安がリリムの脳内に過る。


「少しだけ。リリム様の魔力はずっと感じていたのですぐ近くに居たのは分かりましたが……はい、少しだけ心配しました」

「……ごめんね。これに関しては全面的に私が悪いわ」


 若干俯きながら、リリムは従者へと謝罪の言葉を口にする。そんな彼女の様子に、キアレはくすりと、穏やかな笑みを浮かべていた。


「まぁ、同時にリリム様に限っては万が一のことなど起こるはずがないと思っていましたよ」


 それは、誰よりも主を信用しているキアレだからこそ言う事の出来る発言だった。


「……すっかり朝ですね。お眠りになられましたか?」


 故に、既にキアレの言葉はリリムに対する別の心配へと移り変わっていた。


「ええ、もちろん。しっかりと眠ったうえで目が覚めたから時間を潰してたのよ。ただ、部屋を出ることくらいは伝えておくべきだったと反省しているわ。本当にごめんね」


 言葉と共に下げられた主の頭をキアレは優しく撫でつつ、安心したような笑みを浮かべていた。街を包み込む朝日のような暖かさのように穏やかな時間が、チエーリア最上の宿の屋根の上で過ぎていく。


「――レ、姉様ぁぁぁ!」


 そんな中、平和という名の静寂を突き破る大声が、唐突に街を襲った。


「何かしら」


 その大声は、そう遠くない空から響いたものであった。リリムがそちらへと視線を向けてみれば、青空から彼女らの元へと、何かの影が高速で飛来して来ていた。それが一体何なのかは、リリムの目にはまだ判別ができない。


「あれは――」


 リリムが対処のために左肩の重みをどうにかしようと手を動かしたその瞬間、周囲の空気が僅かに冷え込む。


「リリム様、私にお任せください」


 主の動きを制止し、キアレがその飛来する影へと飛び出していたのである。彼女の瞳は、何かの確証に満ちているようにリリムには見えた。


「分かった、任せるわ」


 そんな彼女の背中を見送り、リリムは自身の周囲に小さな魔法を組み上げる。任せるとは言ったものの、万が一に備えて彼女は自身に体を預けるシルフを守るためにも。

 そんな主を横目に、狼は大きく跳躍する。標的は、無論高空より飛来する一つの影。このまま放っておけば主へと直撃するであろうその飛来物を処理するべく、彼女は一切の迷いなく空を駆け抜ける。高空に咲かせる氷の花を足場に、軽やかに。


()()()()()、止まりなさい!」


 キアレの腕が、空を切り裂く影を空中で抱き留める。空間に衝撃が走るほどの威力をその身に受けたにも拘わらず、彼女は氷の足場の上で一切の反動を見せずにその勢いを殺しきっていた。

 キアレの腕の中に納まっていたのは、有羽族の街であるはずのチエーリアには異物と言ってもいい、一人の人狼族(ウェアウルフ)が納まっていた。


「キアレ()()! 久しぶりね!」


 快活という言葉が似合う、はきはきとした声がキアレの腕の中で鳴る。


「相変わらずこの街に居たんですね」

「そうよ! 本当はある程度お世話になったら旅にでも出ようと思ったけれど、とっても居心地が良いの!」


 キアレと同じく狼の耳に、腰から伸びる毛並みのいい尻尾。彼女よりも一回り幼い――リリムと同程度の容姿と背丈に似合う、明るい桃色の髪を揺らしながら、エイプリルと呼ばれた人狼族は左右に尻尾を揺らして満面の笑みを浮かべていた。

 

「ねぇねぇ、キアレ姉様が居るってことは()()()も居るの?」


 先ほど街を切り裂いた大声が噓のように鈴のような可愛らしい声を彼女は漏らす。その変わりようは、エイプリルの声によって搔き消された、朝を告げる鳥のさえずりがまた聞こえるようになるほどだった。


「勿論ですよ。私はリリム様の傍にありますから。あちらで貴女の襲撃に少し驚いていらっしゃいますよ」


 キアレが手で示す先には、言葉の通り少々驚いた表情を浮かべるリリムの姿があった。


「……え、あれ!? めちゃくちゃ美人さんになっちゃってる……ねぇねぇ話したいんだけど、降ろして!」


 腕の中でぴょこぴょこと跳ねる妹の要望に答えるためか、キアレは氷花の階段をとんとんと子気味良いリズムで降りていく。


「只今戻りました、リリム様。念の為、紹介致しますね。彼女は――」

「リリムちゃん、久しぶりぃ!」


 キアレの言葉を遮り、エイプリルの腕がリリムを包み込む。当然、彼女に体を預けるシルフごと。


「ひ、久しぶりね……」


 リリムは押しの強いエイプリルの行動に少々困惑しながらも、彼女の肩をしっかりと抱き返していた。


「……私が元々所属していた特殊部隊である九尾隊の二番手、つまり私の妹である、シアトリカル・エイプリルです。少々勢いのあるところは昔から変わっていませんね……」


 呆れたようなため息と共に、キアレの首が数度振られる。


「すごーい、髪ふわっふわ……爪綺麗だし、なんかいい匂いする……」


 そんな言葉を漏らしながら、エイプリルはリリム=ロワ=エガリテという存在を腕の中でしっかりと堪能していた。


「エイプリル、その辺りに。いくらリリム様のお心が広いとはいえ、迷惑ですよ」


 そうキアレが苦言を呈すると共に、彼女の手によってエイプリルがリリムから引きはがされる。


「力ずくは酷いよキアレ姉様ぁ!」


 エイプリルの口から情けない声で、そんな言葉が発される。引きはがされ、キアレに抱えられたままじたばたと抵抗する素振りを見せる彼女の姿を、リリムは苦笑と共に見守っていた。驚きこそすれ、特段迷惑ではなかったけれど……などと、内心思いながら。


「……相変わらずキアレ姉様はリリムちゃんにべったりなんだね。何というか、安心したよ」


 突然抵抗をやめると共に、エイプリルはそんな言葉をぽつりと漏らしていた。


「当然です。私はリリム様にこの心も、体も捧げているのですから」


 キアレは胸を張って、エイプリルの独り言にそう言葉を向けていた。一切の迷いなく放たれた従者の言葉が、リリムにとっては嬉しいものだった。リリムの尾がゆっくりと左右に揺れ、徐々に街の活気が高まっていく。


「もしかして、リリムちゃんたちは今日お暇だったりする? 多分迎神の儀の為に来たんだろうけど、ちょっと時間あるよね?」


 エイプリルの問いかけに対し、リリムとキアレは同時に頷く。


「じゃあさ、一緒に街回らない? 案内してあげる!」


 ちょうど、リリムは今日一日はそうするつもりだった。ならばエイプリルの提案は願ったり叶ったりというものである。


「ありがとう。任せるわ」


 ――と、言う訳で。リリム=ロワ=エガリテの、チエーリアでの一日は、騒々しい来訪者と共に始まるのだった。

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