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百三十一話 月下に鳴る

 草木も眠る丑三つ時。チエーリアの街にもまた、静けさと柔らかな月光が、眠りを運んで来ていた。無数に立ち並ぶ家々の窓に灯る明かりは既になく、ただその街にあったのは吹き続ける柔らかなそよ風の音だけ。


「……ん」


 リリム=ロワ=エガリテもまた、その静けさの中に居た。手配された宿の一室に備え付けられた、質のいいベッドにその身を預けて穏やかな呼吸を彼女は繰り返す。

 窓から差し込む月光に照らされたその寝顔は呼吸と同じように心底穏やかで、思わず心を奪われる程に美しい。誰もその様を見ることが叶わないことが勿体ない程であった。


「すぅ……」


 ――誰も、というのは間違いであり、正確にはその資格を持ち得る者が一人だけ存在していた。尤も、その人物もまた微睡みの奥にその身を預けていたのだが。

 リリムの隣のベッドにその大きな体を預けて、彼女もまた静かな呼吸を繰り返す。

 エガリテ再建を決意してからの彼女たちに久々に訪れた、休息の時間。それは何人にも侵されてはならない、神聖な時間でもあった。


「ん……?」


 唯一、彼女らのどちらかが目を覚まさない限りは、その静寂が破られる事は無い。たった今、その唯一の事象が発生していた。


「まだ、一時半じゃない……」


 半身を起こし、微睡みから現実へと彼女は舞い戻っていた。壁にかけられた時計に目線を向け、リリムは呟く。


「はぁ……変な時間に目を覚ましてしまったわ」


 流石に早すぎると、もう一度眠りにつくために目を閉じてみるも、つい先ほどまでそこに居たはずの眠気はもう、何処か遥か遠くへと旅立ってしまっていた。


「どうしたものかしら……」


 欠伸すらも出ない程に覚醒してしまった意識の中で、リリムは考える。横に目線を向けてみれば、そこには従者が静かに眠っており、起きる気配を微塵も感じさせない。


「……まぁ、起きたところで話相手になってもらうのも少し心が無いかしら」


 リリム=ロワ=エガリテと違って、キアレは普通の命である。当然休息は必要であるし、それが無ければ壊れてしまう。彼女はリリムの良き理解者ではあるものの、同じ領域に立てている訳ではない。

 彼の魔王としても、大切な従者はそんな領域に足を踏み入れて欲しくは無かった。


「本でも……読みましょうか」


 ベッドから降りると、リリムは窓辺に置かれた小さな椅子に腰掛ける。虚空から一冊の小説を手に取り、ページをめくり始めた。差し込む月光が大きな窓から差し込み、彼女の横顔を暗闇の中に照らし上げる。

 ぺらぺらと乾いた紙の音が部屋に響き、まだ遠い朝への時間がゆっくり、ゆっくりと過ぎていく。


 ――一体、どれほどの時間が経ったのだろうか。リリムの捲ったページは数センチの厚みを生み出し、窓の外の夜空に浮かぶ月が、少しだけ厚い雲にその身を隠してしまった頃、ふと彼女は顔を上げた。


「……何、かしら」


 一体何故か、その答えは窓の外から聞こえてくる音に会った。彼女はぱたんと本を閉じ、静かに窓を開く。穏やかな寝息を立てる従者を起こすことが無いように。

 そこから部屋に舞い込んで来たのは、静かなそよ風の音と、()()()()()()()()()()()()()()()()()と、()()()()()

 加えて、その音源は自身の部屋の上方……現在彼女が居る建物の屋根の上から聞こえてきているようにリリムには感じられた。


「こんな時間に一体誰が……」


 リリムは一瞬部屋のベッドに目線を向け、眠りの浅いキアレを起こしてしまっていないか気を向ける。


「……ん、ん」


 寝返りと共に、狼は変わらず静かな寝息を立てていた。


「良かったわ。少し様子を見てくるから……安心して寝てていいからね」


 返答の無い呟きを口にして、リリムは窓辺に足を掛ける。この姿をキアレに見られれば、少々苦言を呈されてしまうだろうな……と一瞬苦笑いを浮かべると、彼女は軽くそこを蹴り、夜空へと飛び出した。

 相変わらず自身の体を包める程に大きな翼で空気を掴み、魔王は優雅に空を走る。目的地は無論、宿の屋上。


「――彼女について、どう思う?」

「ボクは良い子だと思うよ。凄く。忙しいであろうなか、わざわざこの街に来てくれて嬉しいね」


 漂う音の波の中で、話し声が聞こえる。その声は、リリムにとってどちらも聞き覚えのあるものだった。ぽろん、ぽろんと響く綺麗な音にリリムはどこか心を揺らされながら、その声の発生源にその姿を見せる。


「……おや」


 真夜中の来訪者に、会話を交わしていた二人の意識がそちらへと吸い込まれる。


「リリムさん……一体こんな夜中に何を……」

「……ほら、やっぱり夜中の演奏はあまり良くないってボクは言っただろう? きっと起こしてしまったんじゃないかな」


 来訪者の姿が若き魔王だったことを確認し、二人組……正確には一人と一匹――チエーリア四大貴族が一人、シルフ・テンペストとその家系の守護獣たる小鳥、テンペストはそんな会話を繰り広げる。


「……す、すみません。起こしてしまいましたか……?」


 申し訳なさそうにシルフが謝罪の声を口にする。ただ、その謝罪は的外れなものだった――彼が知る機会が無かった以上、仕方のないことではあるのだが。


「いえいえ。この歌に起こされた訳ではなく、たまたま起きてしまった時に聞こえて来ただけですので、そんな……」

「……だってよ。良かったじゃん」


 テンペストがリリムの返答を聞き、シルフの頭上で彼の髪を乱しながらそう声を掛ける。


「そう、でしたか……」


 安心したようなため息を吐くと、シルフはその腕の中に握っていた小さな竪琴をしまい込む。話相手にでもなってくれるのだろうか。もしもそうなら、リリムとしては願ったり叶ったりなものではあった。


「こんな時間に起きてしまって、眠たくないんですか?」


 シルフが口にした疑問は、尤もなものであった。リリムが確認していない以上正確な時間は分からないが、既に時計の針は一時半を回っていた事は確かである。眠たくないかというのは当然の疑問だろう。


「えぇと……そう長くは眠ることができない体質なんです。寝ても数時間と経たずに目が覚めてしまって……なので、眠気は特にはないんです」だ

 長く眠ることができないのではなく、そもそも眠気がほぼ存在しないというのが正確なのだが、今それを口にする必要はどもにないだろうと、言わないことにしたのである。


「そうなんですね……僕もあまり眠れない体質なので、少し親近感が沸きます」


 どうやらシルフもまた、彼女とは別の、睡眠とは縁の遠い生活を過ごしているようだった。


「それに、最近緊張しているせいで眠れなくて……」


 確かに、昼とは違って彼の目元にはうっすらと隈が浮かび上がっている。彼女の憶測にはなるが、化粧などで隠していたのだろうか。


「何か、緊張するようなことが直近であるんですか?」


 リリムの中に、そんな興味が沸く。夜明けまではまだ遠い。ならば聞いてしまってもいいだろうと、彼女は問うことにしたのである。


「……私は、迎神の儀の巫女代理という話をお昼にしたでしょう? 一年に一回だし、人も多いし……本当は人の前に出るのもあまり得意じゃないんです。ただ私しかやれる人がいない以上、私がやらなきゃいけないんです」


 他にやれる人がいない――その発言が、リリムの心の琴線に触れた。規模は違えど、他にやれる者のないものへと臨んでいるのは、同じであった。故に、リリムの中で元々低くなかった――寧ろ、かなり高い彼への評価が更に引き上がる。


「彼は昔から迎神の儀の巫女を果たしてくれてたんだ。同じ名を持つ巫女ってことでシルフ様にも気に入られてるんだ。ただそのせいで少し気負ってる所もあるかなってボクは思うよ。もう少し気を抜いてほしいなってね」


 シルフの頭の上で、小鳥は相も変わらず彼の髪を嘴で啄みながらそう苦言混じりの言葉を漏らす。


「私にも、なんとなくですがその重圧は分かりますよ。誰にも任せられない役目って、時々辛くなりますよね。でも任せられないから、その辛さをどうにも他の人と共有するのもなかなか難しいですし……」

「……そうなんですよ。本当は他の人に任せたいんですけど、素養が無ければ巫女にはなれませんし、私が巫女をやらなきゃ、あの儀式が立ち行かない……一年に一度の大切なものですから、成功させなきゃ」


 シルフは目線を自分の手元に落とし、徐々に声の勢いを落としながら呟く。萎れた花のように弱弱しい彼の姿に、リリムは思わず手を伸ばしていた。

 細く、しなやかな指をシルフの頭に置き、優しく撫でる。まるで弟を慈しむ姉のように、柔らかく、温かく。


「……お疲れ様です。その、部外者である私がこう踏み込んだことを言っていいものかは分かりませんが、今年の儀式は私がついてますので、少し安心して気を抜いてみてもいいと思いますよ」

「……そうですね。ありがとうございます」


 一度の風と共に厚い雲が流れ、月明かりが二人の元へと差し込み、その姿を照らす。


「もう少し、お話してもいいでしょうか。リリムさんと話してると、気が緩んで楽になります」

「もちろんです。私も少し暇ですから」


 役目を背負うもの同士、波長が合うところがあったのだろう。一度魔王のことを恐れたことなども忘れて、シルフとリリムは夜空の下、静かに談笑を始めるのであった。



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