百三十話 揺るぎない忠誠心をここに
チエーリアの枢軸、ニアミィナとの親睦を軽く深めた後、一体何度目になるのか、リリム=ロワ=エガリテは有羽族の街を歩いていた。相も変わらず、シルフという案内人に先導されながら。
「もうすぐニアの手配してくれた宿に着きます。あと少しだけ、歩いてくださいね」
「分かりました。観光気分なので、歩くのは全然平気です」
このシルフの言葉は恐らく、一日中移動し続けたリリムのことを気遣ってのものだろう。
「リリムさん達を案内する宿はエリアテンペストに建てられた宿の中でも特に私が自信を持ってオススメする場所です。元々エドマは雪山でありながら活火山でもあったそうでして、その名残で温泉が湧くんです。それを各部屋に準備していまして、それから――」
シルフが瞳を輝かせ、さぞ楽しそうに話し始めると同時に何かに気が付いたように口を噤む。一体どうしたのかとリリムが視線を向けるも、彼は彼女と目線を合わせようとしなかった。
「すみません、少しテンションが上がってしまって自慢のようなものを……別に聞かれた訳でもないのに……」
バツが悪そうに目を逸らす彼に対してリリムの抱いた感情は、言ってしまえば『そんなことか』程度のものだった。
全くと言っていい程リリムはそんなことを気にはしていないし、恐らく彼女の従者も同じだろう。ただのシルフの思い過ごしではあるものの、そう遠くない場所から気まずさの足音が迫ってきていた。
「興味を惹かれたので、是非続きをお願いしてもいいでしょうか?」
その足音を打ち払ったのは他でもないリリム――ではなく、彼女の後ろに立つ人狼族、キアレであった。
気まずくなることを見越しての助け舟代わりの発言のようにも思えるが、恐らくその言葉には噓はないだろう。振り向いたリリムの視界の端に映った、軽く振られるキアレの尾がその良い証拠だと言える。
「――はい! でしたら少しお話させていただきますね!」
だがキアレの言葉が気遣いか、本音かどうかなどは些細な話である。彼女の言葉によりシルフが必要以上に気分を落とす必要も無く、故に気まずさが姿を見せることも無い。
キアレの行動は結果として、リリムに安堵の深い呼吸を齎すに至ったのであった。
シルフの案内と、これから厄介になる宿の説明を聞きながら街をしばらく進むうちに、リリムの視界の奥に目的地は姿を見せた。
「……と、細かな所まで設計して造られた最上級の宿屋なんです!」
「なるほど……勉強になります」
暖かな色のレンガで組み上げられた大きな建物の前でシルフは説明を締め、それを聞いていたキアレは小さなメモ帳をぱたんと閉じた。
「漸く到着ですね。ここがエリアテンペスト最上の宿、ホテルヴォワヤージュです。どうぞごゆっくりお過ごしください」
建物の扉を潜り抜け、シルフはリリムとキアレを最奥の広い部屋へ案内し、その役割を全うする。
「一つ下の階層に私の職場兼私室もありますので、何かあればお申し付けください」
その言葉と共にゆっくりと扉を閉める姿を残して、シルフはチエーリアへ訪れた魔王、リリム=ロワ=エガリテの案内人という役目を完全に完遂したのであった。
「……本当に良いお方でしたね」
内装をきょろきょろと見渡し、何かを探すような動作を見せながら、キアレは主へとそう言葉を投げかける。
「そうね」
リリムはそんな彼女の様子を一瞥し、部屋に備え付けられたベッドへと腰掛けると、力の抜けたため息をふぅっと漏らす。疲労とはまた別種の何かの重みを肩に感じながら、リリムもまた部屋の内装を眺めていた。
「なるほど、最上の宿と豪語するだけあるわね……」
細かな装飾が施された壁紙や家具の数々に、恐らく拘られているであろう照明の明るさ……そこに加えて自身が腰掛けるベッドの感触などから、リリムは感嘆のため息を漏らしていた。
「同意見です。盗聴器といった類も見当たりませんし、入念に清掃等もされているんでしょうね」
「……さっきのは、そんなところを見てたのね」
自分と従者との着眼点の違いに苦笑を見せながら、リリムは勢い良く全身をベッドへと預ける。
「大事な事ですから。リリム様には前科がありますし――」
「分かってる。私のための行動なんでしょう? 感謝してるわ」
従者の言葉を遮り、軽く目を閉じてリリムは感謝の言葉を告げていた。主から返された言葉と、気を抜いたように見える今の姿に、キアレはそれ以上の追及を行うことは無かった。
ほぼ丸一日移動のみだったにも関わらず、既にエガリテを出てから三つの出会いをリリムは果たしている。彼女はベッドに身を預けたまま、彼らのことを静かに思い返していた。
「シルフさんに、エリルさん、ニアさん……」
壁にかけられた時計のみが規則正しく音を立て、それに合わせて魔王の頭も小さく揺れる。それはすぐそばにキアレという存在があるからこそ出る、リリム=ロワ=エガリテの少女の姿であった。
「リリム様」
「なにかしら……」
キアレからの呼びかけに対する声も、いつもに比べ――元々あるとはあまり言えないが、覇気がない。今の彼女の姿を見て、最強の魔王であるとは信じる者は居ないと言っても過言では無い。
「どうせなら、一度温泉に入ってみませんか。色々あってお疲れでしょうし、明日からの気分転換も兼ねてはどうでしょう?」
キアレから、そんな提案が口にされる。
「……そうしましょうか」
ゆっくりと体を起こすと、リリムは深い頷きと共にその提案を肯定するのだった。竜の尾を、大きく揺らしながら。
そこからの行動は早いもので、キアレが提案してから僅か数分後には既に、リリムは部屋に備え付けられた温泉の湯船に、長い髪を結わえて肩まで浸かっていた。
「んんっ……力が抜ける……」
「今日も一日、お疲れさまです」
その隣では、キアレが同じく髪を束ねて、当然のように温泉の温かみを堪能している。
「キアレの方こそ、お疲れさま。いつもありがとう」
「労いのお言葉、痛み入ります」
リリムとは違い、キアレは一切気を緩めていないように見える姿勢と言葉を保ったまま、両手を頭上へ伸ばしてため息をつく。彼女もまた、彼女なりにリラックスしているのだった。
「成長の差を感じるわ」
彼女の一連の動作と共に揺れる、高い身長に合わせて成長しきった肉体を見ながら、リリムは小声でそう呟く。そのまま顔を半分湯船に沈めると、彼女は不満そうにぷくぷくと泡を立てていた。
「どうか、しましたか……?」
そんな彼女の顔を覗き込み、きょとんとした表情を浮かべたままキアレが問う。まるで自分が原因であるとは分かっていないようだった。
「……大したことじゃないわ。ただ、私の体ってこれ以上成長するのかなぁと思ってね」
リリムの口から溢れたのは、不満と疑問の入り混じった言葉。水面を揺らし、水中に寝転がるように体勢を変えて、彼女はどこか遠くを見つめていた。
「リリム様は魔族、多くの種が入り混じる血統ですからね……」
キアレも体勢を変え、ぷかぷかと漂う主をその腕の中に抱きとめる。
「それもあるし、私の体はあの出来事からどうもおかしくなっちゃってるみたいだし……正直なところ、少し怖いわ」
それは、一切の隠し事が無いリリム=ロワ=エガリテの本音。長い時間を共にした従者の前だからこそ出る、足踏みで止まって前に進めない彼女の姿であった。
「リリム様」
名前を呼ばれて、リリムはキアレの腕の中でゆっくりと目線を上げる。その瞳の奥は、僅かに震えているようにキアレには見えた。それ故に、狼の腕の力は強まる。
「……私には、リリム様の背負うその恐怖は察するに余りあるもの故に、無責任な事は言えません。ですが、これだけは確かと言えるものがあります」
キアレの腕に竜の尾を巻き付けながら、リリムは静かに彼女の言葉に耳を傾ける。
「この先、リリム様がどうあろうとも私は貴女の傍にあります。例えリリム様が怪物になってしまっても、キアレ・ウルフェリルはリリム=ロワ=エガリテ様の忠実なる僕で在り続けます」
柔らかな笑顔と共に、キアレはリリムの顔を覗き込んでいた。その奥にあったのは、言葉の通り揺るぎない忠誠心。
「……知ってるわ。貴女は私の、私だけの従者だもの。でもありがとう。少し安心したわ」
キアレにとってのリリムがそうであるように、リリムにとってもまた、従者たる彼女の存在は誰よりも大切で、かけがえのない存在であった。
キアレの無駄のない筋肉の着いた長い腕に抱きしめられたまま、リリムは穏やかな笑みを浮かべていた。一定のリズムを正確に刻んでいた彼女の心音が、少しずつその速度を落としていく。
「……少し、眠たくなってきたわ」
「承知いたしました。ではそろそろあがりましょうか」
久々にやってきた――というよりは、リラックスの結果生まれたというのが正しいか、忍び寄る眠気に、リリムはその身を任せるのだった。




