百二十七話 恐怖をその身に
数刻前まで豪雪が吹き荒んでいたとは思えないほどに穏やかな日差しが差し込む、世界最高峰。
雪の積もったその山中、どういうわけか白い化粧を受け付けていない登山道を、リリム=ロワ=エガリテは踏破せんと歩いていた。肩に風神の使い魔を、背後に風神と同じ名を持つ、少々背の低い少女然とした少年を連れて。
「ふむ……なかなかしっかりとした魔法が掛けられてるわね。こまめに掛け直されてる痕跡もある……」
リリムが口の端から漏らしたのは、その不自然な光景についてだった。
彼女は特に誰かに反応を求めることはなく、道の端から雪を拾い上げ、手の中で何かを形作っていた。長く、太い竜の尾をゆっくりと左右に振りながら。
「……リリムさん、なんだか楽しそうですね」
「エガリテではここまで雪が積もることもありませんから、物珍しいのかもしれませんね」
リリムの後に続く二名は、彼女の姿にそんな感想を交わしていた。
「あんなに桁外れの魔力を持って、さっきは大人びた雰囲気さえ感じました。ですが今はなんというか……無邪気で、子供っぽいと言いますか」
今のリリムは、王としての姿ではなく、ただ一人の可憐な少女の姿を見せていた。
シルフの目に映ったのは、ハリボテの穏やかな仮面を被り、俯こうとする顔を必死に上げて恐る恐る胸を張る姿ではない。ただ現状を楽しむ、子供が彼には見えていた。
「子供っぽいのではありません。あの方はまだ子供です。本来受けるはずの無い苦難を世界に背負わされ、それでも世界の為に歩みを進めるだけの、脆い子供です」
下唇を軽く噛みながら、キアレはシルフへそう語っていた。話しながらも、彼女が大地に一歩を踏み出す旅に空気が凍てつき、登山道に霜が走る。
彼女にしては珍しく、感情がそのまま外部へと放出されていた。
「……なるほど、あの二つの姿は生まれ持ったものでは無いんですね。部外者が踏み込んだような物言いをして、申し訳ありません」
「――いえ。シルフ様はリリム様に何があったのかは知りません。あの方の二面性を持つ姿に先ほどの感想を抱くのは、何ら不思議なことではありません」
シルフ・テンペストは、キアレが告げるように何も知らない。リリム=ロワ=エガリテに何があったのか、何のために彼女は歩んで行くのか、世界をどうしたいのか――その全てを、一切を知らない。それでも彼は、それ以上踏み込むことは決してなかった。
リリムにとって大した人物でも無い自分がそれを聞く資格も必要も無いと、彼はそれ以上この話題に口を開くことはなかった。
「少なくとも、良い人だと僕は思います。私の名前についての誤解が解けてから謝られるまでも早かったですし。それに私は職業柄色んな人を見るんですが、リリムさんは善人のオーラといいますか、何と言いますか……溢れてます」
「言いたいことは分かります。余り相応しい言葉が浮かばず上手く言葉にできませんが、リリム様は善いお方です」
キアレとシルフは、そんな雑談を交わしながらリリムという若人を数歩後ろで見守りながら歩みを進めていた。そんな二人に対してリリム本人はというと、ウキウキといった言葉がぴったりな様子で登山道を迷いなく進んでいく。
「――二人とも、歩くのが遅いわよ?」
振り返って、そんなことを口にしながら。道を進む彼女の手のひらには、雪で作られた小さなうさぎの人形が収まっていた。
「リリム様がお早いのですよ」
魔王などという称号は、決してその姿には似つかわしくない。それを実感し、キアレの頬は僅かに緩んでいた。
「綺麗に創りますね……」
少し早足で魔王に歩みを合わせつつ、シルフは感心の言葉を漏らしていた。彼の言葉に、やはり無邪気にリリムは笑って見せる。
「昔からこういう細かい作業、得意なんです」
笑顔を浮かべたまま、リリムは自身の手の中に存在する、雪で創ったうさぎにふっと息を吹き込む。魔王の息吹を吹き込まれたそれは、一瞬の時の空白を挟んで動き出す――何気ない短い動作で、彼の魔王様は一つの命を創り出していた。
「……え」
当然のように行われたその行為に、シルフは息を吞む。
「どうか、しましたか?」
一瞬動きの止まったシルフの顔を、リリムは膝に手を当てじっと覗き込む。
「そんなことまで、できてしまうんですか……?」
「……そんなこと?」
「命を造り出す、なんて――神の領域に足を踏み入れちゃってるじゃないですか……!」
シルフのその指摘は尤もなものであった。一連の行為は、リリム=ロワ=エガリテにとっては、ただの気まぐれで行ったもの。しかし命を創り上げるというその行為は、シルフが指摘する通りに神の領域を侵すものであると言っても過言では無かった。
「……そうですね」
ふぅ、とリリムの口の端からため息が溢れ出る。先の行為は、常人から外れ他人とはかけ離れた力を得た存在に――平たく言ってしまえば、化け物となった彼女の能力を示すものであり、同時に一般人には理解できない行為であった。
「本当に、こんなことが――」
シルフの口からも、リリムと同じようにため息が漏れていた。彼は命を得て数十秒の雪うさぎを手のうちに収め、何度も頷く。小さな命がぴょこぴょこと跳ねる姿を眺め、彼は口を閉ざした。小さな肩を、僅かに震わせながら。
「……ぁ、の」
静寂の中リリムが口を開くと共に、雪がまた空に舞い始める。ただし、それは自然の現象ではない。彼女はシルフの体の震えに気が付いていた――彼が、その震えを抑えようとしていることも。それに痛みを叫ぶ彼女の心が、辺りの気候を揺らしていたのである。
リリム=ロワ=エガリテは魔王である。この世界で最も強く、最も優しく、そして儚い『最強』の存在。圧倒的すぎたその力は、時に無自覚の恐怖を生み出す。
「どう、しました?」
それは、自然の摂理の一つといっても過言ではない。圧倒的な力の差は、本能的な恐怖を掻きたてるものなのである。現に、シルフ・テンペストは眼前の少女に恐怖を抱いていた。
だが同時に、彼の理性がそれを抑えようとしていたのだ。その根底にあるのは、ただそれだけで怯えるのは失礼だろう、といった彼なりの優しさである。
「……いえ」
今まで彼女は、恐れられるということを経験していない。ただそれは、今まで彼女が出会って来た存在が、良くも悪くも普通の存在とはかけ離れていたが故である。
「何でも、ありません……」
リリムは、自身の力が桁外れであることを誰よりも理解していた。理解していたからこそ、その力が恐怖を引き起こすものであると認識していたのである。
だが、脳内で理解していたとしても現実を突きつけられるのは、違った。抉られた彼女の心を示すように、雪の勢いが増し始めていく――
「リリム様」
――揺らぐリリムの首元に、ひんやりとした細い指が触れられていた。
「キアレ……」
いつでも、揺らぐ魔王を引き戻すのは彼女の忠犬であった。キアレは両手を首に添え、リリムの瞳を真っ直ぐと見据える。
「……ごめん、ありがとう」
彼女らの間に、特に言葉が交わされることはない。それでも、リリムの思考を凪に引き戻すには十分だった。
「……ごめんなさい、リリムさん。どうしても怖くて……ごめんなさい」
一瞬吹き荒れた雪が晴れ、穏やかな気候の中でシルフは謝罪の言葉を口にしていた。
「いえ、謝らないでください……シルフさんは、悪くありませんから」
互いに一度ずつ頭を下げ、一行は止まった歩みを再開する。少々どんよりとした雰囲気を引き連れながら。
「……はー、暗い暗い。嫌だねぇ」
ここまで黙り込んでいた風神の使い魔テンペストが、リリムの肩に留まったまま呆れたようなため息と共に口を開く。
「……大丈夫かい? かなり狼狽えていたけれど」
軽い調子から裏返るように落ち着いた声で、テンペストはリリムへと問いかける。
「大丈夫。シルフさんが恐れていたのは私じゃなくて、私の力についてだから……それは、私が魔王に成った以上受け入れなければならないことだもの」
リリムは静かに、テンペストの問いに落ち着いた声色でそう答える。
「そう。強い子だね」
揺らがないリリムの目をテンペストは見据え、ぱたぱたとキアレの元へと飛び立つ。
「キアレちゃん、このペースだと日が暮れちゃうよ。リリムちゃんとシルフ君のこと、乗せてってあげられる?」
やはり肩に留まりながら、テンペストはキアレへそう助言する。
「……その程度でしたら、お安い御用です」
当然というように頷き、キアレはその場で黒狼へと姿を変えた。一度身震いして毛並みを整えると、美しい顔立ちを数歩先の主へ向ける。
「リリム様、シルフ様、どうぞ」
二本の尻尾を器用に伸ばし、彼女は二人を捕まえてゆっくりと背に乗せる。
「ありがとう、ございます……」
「ありがとう、キアレ」
「では、揺れにご注意を」
瞬間、キアレは雪山を蹴り走り出す。いつもより遥かに速度を落とし、背に乗った気まずい二人のことを気遣いながら、全く揺らさぬように登山道を抜けていく。
しばらくの時間をおいて山頂を削って造られた街に一行が辿り着いた時には、テンペストの予想通りに、太陽は山脈の奥へと姿を隠していた。夜の寒さが顔を出し始めた頃、リリム=ロワ=エガリテは足を踏み入れる――新たなる物語の舞台、有羽族の国、チエーリアへと。




