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百二十六話 シルフという名

 エドマという名を持つ、この世界最高峰の雪山、その麓。強風と豪雪の吹き付ける、小さなとある丸太小屋に、緊張が走る。部屋に備え付けられた暖炉がぱちぱちと火花を立て、温かな空気を造り続けている――だというのに、そこの空気はひどく張りつめていた。


「えぇっと……どうされましたか?」


 暖炉の前に設置された、柔らかそうなソファに腰掛けた、少年とも少女とも言い切れない存在こそが、この張りつめた空気を造り出す発言をした者本人であった。


「今、何て?」


 ソファの目の前に立ち、リリム=ロワ=エガリテは問う。両の拳をぐっと握り、竜の尾をピンと伸ばした彼女の影が、暖炉の炎に揺らぐ。一度緩んだはずの警戒のような意志が、彼女の中で燻ぶっていた。


「何、とは……?」


 彼女の声に対しての返答は、困惑に満ちていた。言葉を探すように揺れたその頭を、背後から凍てつく空気が縛り上げる。


「ひ――」

「後ろを失礼致します。リリム様のご質問にお答えを」


 冷気を纏う刃を突きつけながら、既にキアレが行動の選択肢を奪っていた。無論、普段の彼女ならばこんな強硬手段に出るはずがない。彼女は危害を加える存在に対しては冷酷無比ではあるものの、何の関係もない存在にはむしろ優しいと言える。

 ただ、今の彼女は思わずそうしてしまう程に動揺していたのである。


「……今、名前を何を言ったのかを聞いているんです」


 余りにも言葉足らず過ぎた先の質問の主題をはっきりとさせながら、リリムは改めて問い直す。その答えこそが、この緊張した空間を生み出した元凶。


「し、シルフ……です……」


 彼女がチエーリアで出会うはずの風神の名は、シルフ・フリューゲル。今、リリムの目の前に居るのは、それと同じ名を持つ存在。それに意識を向けぬことなど、とてもではないが、彼女には無理な相談だった。


「な、なんなんですか……?」


 シルフの口から漏れた声は、掠れていた。真正面に立つ少女は自身に強烈な魔力を向け、首元には構えられた氷の刃。

 この状況で怯えずにいられるのは、それこそ神のような常人とはかけ離れた存在か、気狂いのような存在か……兎も角、現在の様子から察するに、風神と同じ名を持つ存在は一般人に近しいのだろう。


「……ぁ、ご、ごめんなさい! キアレ、拘束を解いて!」


 その姿に、リリムはふと落ち着きを取り戻した。慌てて謝罪の言葉を告げながら、従者に開放を命ずる。その背の翼、尾はしなしなと力を失い、しおれていた。


「失礼致しました――」


 主に命じられた事で、従者も同じく落ち着きを取り戻していた。シルフを圧していた冷気を纏う気配がコロッと緩み、いつもの穏やかな彼女のものへと変わる。そのままソファの前に移動したかと思うと、深々と彼女は頭を下げた。

 そこに言葉はなく、姿勢のみ。それでも彼女の中にある確かな謝罪の意思を感じたのか、シルフは特に、何かを追求するようなことは無かった。


「えぇ、と……い、一体なにが……?」


 代わりに、やはり困惑しているように見えた。

 リリムを含めた三人の間に、困惑と謝罪と、マイナスな感情が入り混じった気まずい空気が出来上がる。


「……ふ、あははは!」


 陽気な笑い声でその空気を吹き飛ばしたのは、一連の流れを遠巻きに見つめていた、風神の使い魔である、テンペストという名の小鳥。一同の視線が、一斉に彼に吸われていた。


「て、テンペスト様……?」


 喋る小鳥といった存在を目にして、シルフが開口一番に放った言葉は、それだった。テンペストの存在を認知しているかのようなその発言に、リリムの彼に向けられた視線は一層強まる。


「いやぁ。まさかそんなに動揺するとは思わないじゃん。あぁ面白いもの見れた。少し黙ってて正解だったぁ」


 口ぶりから察するに、彼は全部を知っているのだろう。しかも、その上で自分の娯楽のために傍観に回っていたらしい。その二点で、リリムの中で彼における信用が一気に揺らいでいた。


「えーっと、じゃあちょっとお互いにボクが紹介をしてあげよう」

 

 そんな言葉を告げ、テンペストは三人の間にぱたぱたと移動し、空中で制止する。彼の魔王様にじっとりとした目線を向けられているにも関わらず、それを一切気にしていないかのように。


「まず、こっちのとんでもない魔力の持ち主がリリム=ロワ=エガリテちゃん。エガリテ国から、招待を受けてはるばる迎神の儀に参加するために来てくれた魔王様」


 テンペストからの紹介を受け、リリムはもう一度シルフに頭を下げる。今度は謝罪ではなく、交流を始めるための浅い、明るい感情を込めた礼。


「よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします……確かに、凄い魔力……」


 二人の間に交わされた挨拶を見て、テンペストは小さな首をうんうんと、満足そうに縦に振る。その姿はどうもこの状況を楽しんでいるように、リリムには見えた。

 鳥なので表情ははっきりしないものの、おそらく楽しそうな顔を見せながら、テンペストは再び口を開く。


「こっちの背の高いイケメンなメイドさんはリリムちゃんのメイドさんで、キアレちゃん。ファミリーネームは聞いてないや」


 若干適当な紹介に、キアレは一歩足を踏み出した。丁寧すぎる、指導書のような姿勢で丁寧に腰を曲げ、一度礼をするその横顔は、部屋の暖炉とは対照的に、燃え尽きたかのように明るさが無い。 


「キアレ・ウルフェリルと申します。先ほどはたいへん失礼致しました。申し訳ございません……」


 その顔を造り出したのは、紛れもなく先程の出来事だろう。


「いえいえ、特に怪我とははしていませんし……そう申し訳なさそうにせずとも……悪いのは黙っていたテンペスト様な気もしますし?」


 シルフが整った顔立ちをくしゃっと崩して見せた、綺麗な笑顔には特にマイナスの感情は含まれていない。

 それに安心したような、嫋やかな笑みをキアレは浮かべる。


「で、リリムちゃんとキアレちゃんが凄く困惑してるこの子が、シルフ君。本名シルフ・テンペスト。キミたちは勘違いしていたけれど、風神様とは別人で、四大貴族の子だよ」


 三人の紹介を終え、一仕事やり終えたかのようにテンペストはリリムの肩へと飛び乗る。そんな彼を、リリムは人差し指と中指でつまんで持ち上げる――その顔に、不満を露わにして。


「……どうしたのさぁ?」

「なんで、知ってて黙ってたのかしら?」

「そ、そうですよ! 私、すっごく怖かったんですけど!」


 リリムとシルフ、二人の抗議をテンペストは少々面倒くさそうに顔を背けながら聞く。


「ボクは紹介しよーと思ってたんだよ? 勝手に話を進めて、勝手にあんなことを始めたのはキミだろう?」

「……さっき、黙っておいて正解だったって言ってたわよね」


 一瞬確かにそうだ……と納得しかけて、リリムは彼の先の言葉を思い出す。その指摘に、テンペストは肩を竦める――とはいえ、姿は鳥なのでそれはあくまでリリムにはそう見えただけ、なのだが。


「まぁ、今はそれについては良いわ。四大貴族って何か、教えてくれる?」


 おそらく、自分が聞かない限りこの鳥は教えてくれない。リリムはそう考え、しっかりと疑問を口にした。


「四大貴族は呼んで名のごとく、チエーリアを治める四つの家系のことさ。風神様の、四つの使い魔がそれぞれ守護する家系で、シュトルム家、トルメンタ家、オラージュ家、そしてボクが守護するテンペスト家が存在するよ」

「……なるほど、そしてシルフさんはテンペスト家と」


 リリムの言葉に、テンペストは深く頷く。


「シルフ君は良い子でさ、迎神の儀の巫女もやってくれてるんだ。男の子なのに」


 さらっと、リリムがどちらか断定しかねていたシルフの性別が確定される。


「確かに綺麗な顔立ちですけど……巫女?」


 そして、またもやリリムの中に疑問が浮かぶ。


「迎神の儀は、四大貴族出身の一人の巫女さんが歌と舞踊で風神様をおもてなしするのがしきたりなんです。なんでも風神様は、可愛い子が居るとやる気を出してくれるらしくて……」

「それはまた、風神様も随分俗っぽい……」


 リリムの口から漏れた言葉に、シルフは少し微笑みを見せていた。


「でも、私以外の四大貴族の方たちに女性が生まれなくて……なので、一番女性に顔立ちの近い私が、巫女の代わりを務めているという訳なんです」


 彼自身が告げるように、その顔立ちは女性寄りで、その上で体格も華奢なものであった。確かに女性と言われれば、疑うことなく受け入れることができるだろう。


「そして、彼はチエーリアの案内人まで務めてるってワケ。働き者だよね。ボクは普通に尊敬しちゃうよ」

「いえいえ、ただ迷う人が多いのと、ただチエーリアをもっと盛り上げたいだけですし……そんなに尊敬されるようなことでは……」

「その考え方でその行動ができることは、十分尊敬に値することだと思いますよ。私も凄いと思います」


 最初の緊張が噓のように、丸太小屋の中には穏やかな空気が生まれている。窓の外では、既に雪が止んでいた。

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