百八話 男
動揺に、リリムの瞳の奥が揺らぐ。震える視線の先に映るは、彼女の作り上げた領域の中央で魔力に縛られ、十字架のように磔にされた光の魔竜の――否、光の魔竜セレスティア・クローリーを自称する何者かの姿。
「……ぁーあ、バレちゃった」
その存在を、果たして彼女と呼んで良いものだろうか――ともかく、セレスティアを名乗る者の上がった口角から漏れた声の調子には、つい数秒前までの傲慢さは無い。魔竜の尊大な口ぶりでは無く、悪戯のばれた子供のような声だった。
「……テミス、審判を再開して!」
その存在の異質さ、得体の知れなさにリリムが抱いたのは、底知れぬ恐怖。それに突き動かされるように、機能を停止していた領域に命令を下す。
『被告、アンラ・マンユの審判を――』
「少し黙ってくれるかな。僕は彼女と話したいんだ」
それは、たった一瞬の間に起こった出来事だった。天秤を掲げ、女神の像が動きを再開したその瞬間、リリムの作り上げた魔力の領域が、音もなく完全に崩壊してしまったのだ。当然、審判官である女神の像を含めて、少しの痕跡も残すことなく。
「――強い」
既に行使されてしまった魔法の分解――リリムは当然のように行なっているが、それは魔法という力に対しての深い知識と理解、そしてそれを実践する高い技量が必要。
「あは、賞賛の言葉を貰えるなんて嬉しいね。初めまして、リリム=ロワ=エガリテ」
つまり先の事象が示すは、リリムの視界に映るセレスティアを名乗る者は、こと少なくとも魔法の行使という分野においては、現在の彼女と同等か、それ以上の実力を有しているということである。
「……あなたは一体、何者なの?」
奥の歯をぐっと噛み締め、拳を強く握りこみながら、リリムは眼前の存在へ問う。仲間を傷つけられたことへの腸が煮えくり返るような怒りも、得体の知れない存在に抱く恐怖も、一旦全て飲み込んで。それはその正体を知っておくに値する――もっと正確に言えば知らずに無暗矢鱈に潰すべきではない存在であるとの判断の元である。
「何者かって話か。そうだなぁ、何者なんて大層な立場は僕にはないんだけれど、まぁ強いて言うなら……神とか、そういう存在っていう方が君らには伝わりやすいのかな?」
そんな言葉と共に、それの右の人差し指が、リリムを指し示す。
「リリム=ロワ=エガリテ、キャロル……今はエガリテだったね。それにトリア・セイレーン、闇の魔竜メレフ・アペレース、風の魔竜シルフ・フリューゲル、そして光の魔竜セレスティア・クローリー……」
淡々と名を羅列しながら、逆の指が一本一本折り曲げられていく。ただ四本目の時点で、その動きは止まった。
「あぁ、君はまだこの中の数人には出会っていないんだったかな。まぁそれでも構わないさ。君を含めた彼らは僕のお気に入りでね、ある共通点があるんだよ」
瞬間、その姿が消える。次にリリムがその存在を認知したのは、自身の背後。その小さな肩に、酷く爛れた竜の腕が触れた時の事であった。
「っ……触らないで!」
半ば反射的に、リリムの魔力が激しい拒絶の意思と共に炸裂する。元々彼女の手によって作り上げられた深い深い大穴が、その背後に立つ存在を巻き込んで更に深層までえぐり取られていく。それは、ある空間へとその穴が繋がるまで続いた。
「……こ、こは」
突然安定した地盤を失い、落下を感じる頃には、リリムの体は既に翼を広げていた。その眼下に広がった空間は、夜の闇とは一転、目が眩むほどに明るい、広い部屋。その中央には彼女の見覚えのあるオブジェクト――半壊した大木の像が鎮座していた。
「酷いなぁ、そんなに嫌がらなくてもいいじゃないか。僕は君が大好きなだけなのに……せっかく作った体が壊れちゃった、残念だ……けれど、君にならこの姿でも良いか」
その上に、立つ者が一人。ぼさぼさに跳ねたくすんだ白髪に、瞳が見えない濃い色のグラスをかけた、そり気味な猫背の、一本の魔銃を腰のベルトに携えた男。体のシルエットはダボ着いたジャケットを纏うが故にうまく把握できないが、袖から覗く腕の細さから、そう優れた体躯では無いのだろう。
全く見た目は違うが、声の調子やその内容から、セレスティアを名乗る者と同一人物であることははっきりと理解できる。
「どうせこの姿だ、改めて名乗らせてもらうよ……僕は、今はゼノン。とは言え僕の名前はいっぱいあるからね、好きに呼んでくれると嬉しいな」
だがリリムの意識が注がれていたのは、今までに羅列した特徴でも、その名でもない。彼の頭部に浮かぶ、血の滴るような形をした、赤黒い光輪。先の、『神のような存在』という発言を裏付けるかのようなそれに、彼女は無意識に唾を飲み込んでいた。
「それで、話を戻そうか。君たちの共通点だったっけ?」
乱れた髪を乱雑に掻きながら、ゼノンと名乗る男は話し始める。
「君達はみんな、美しい物語を紡いでくれる主人公のようなものだよ。色々あって僕はこの世界の全ての存在の一生を知っているんだ」
そう告げながら彼が懐から取り出したのは、表紙も、その内側に綴じられた無数の紙も深紅に染まった、一冊の分厚い本だった。
言葉から察するに、その本に人々の一生とやらは載っているのだろうか。確かに、神と言うくらいならその程度のものなら持っていてもおかしくはない。
「僕は君たちのような素晴らしい物語を紡ぐ子たちに少しだけ苦難を与えたいんだ。物語には感動が大切だろう? そしてそれは主人公が大きな山場を越えた時に最も大きくなるんだ、だから僕は君たち――」
「――雷鎚」
ベラベラと饒舌に喋る男の頭部を、荒れ狂う魔力の乗った黒雷の槍が打ち抜いた。
ゼノンに対する情報は、何も足りていない。結局のところ、リリムが彼について分かったのは他人の人生を『物語』と称し、そこに身勝手な理由で苦痛を押し付けていたことのみ。
「……遺言はそれで良いのかしら」
だが、今の彼女に――元々怒りに駆られていたリリム=ロワ=エガリテにとっては、その一点のみで自らの敵と、排除対象であることを認めるには十分すぎるものだった。
「いいね、激情に身を任せた時の外敵への容赦のなさ」
無残にも右半分が消失したゼノンの頭部が、ボコボコと泡を立て、元の形に戻っていく。
「君の内に眠る、普段の底抜けの優しさからは想像も出来ないような凶悪性……惚れ惚れするよ」
口の端を上げ、心底楽しそうな笑みを浮かべる彼の背後に、無数の魔法陣が一瞬で展開される。その速度も、量も、正確さも、その全てがリリムに匹敵しうる。
「即興劇!」
その無数の砲台から、魔力弾の雨が解き放たれる。対象がリリム以外であったなら、それらが致命傷を造り出すのは余裕であっただろう。但し、今回はそうならなかった。
「邪魔よ」
静かに、一度だけ払われたリリムの右腕。それに引き起こされた魔力の余波が、無慈悲にその全てを叩き落としていた。
「……わぁ、驚きだね」
確かに、技量は同等かもしれない。ただ両者の間には、決して埋まることのない差が、一点存在する。
「僕が魔力を認識できないとはね」
それは、彼女が生まれ持った才能。この世界の王となるべくして持った力。戦闘において、最も重要視されるもの――魔力の量である。
いくら技量が高かろうと、そこに相手の魔力を認識できない程の差があっては通用するはずもない。
「魔雷落」
真っ直ぐ頭上へと掲げられたリリムの腕。その先には、自分が作り上げた空まで見える大穴。空を引き裂き、その大穴を通して彼女の手の中に、一発の雷が落ちる。しかと、小さな手のひらはそれを握りこんでいた。
「夜を引き裂く雷光の槍」
そこに魔王の魔力を流し込み、一本の巨大な槍へと変形させる。
右腕を引き、投げの構えを取るだけでバリバリと耳障りな轟音が鳴り響く。それは雷槍に彼女の力が流し込まれる度に大きさを増していく。
「穿て!」
「いいねぇ、最高だ!」
大きく構えたリリムの腕から、雷光は解き放たれた。本命から無数に光を枝分かれさせながら、対象を目掛けて。
皮膚を掠める程にすんでのところで辛うじてその一撃を躱しながら、ゼノンは腰のベルトに収められた、純白に輝く魔銃を抜き放つ。
「救済を告げるは聡明にして――」
魔力の籠った獲物を構え、その銃口をかの男はリリムへと向け、引き金に指をかける。そこに含まれていたのは、全く雑念のない透明な殺意。
「――おっと、辞めよう」
破壊を解き放つ直前で、何かを思い出したかのように、ゼノンは大きく飛びのいた。
「これ以上続けてはいけない。あくまでも僕は物語の読者。これ以上、今の君の物語に介入するつもりはないんだ。もう少し続ければ……死ぬのは僕かな? 強いねぇ、流石だ」
抜いた魔銃をベルトに戻し、乱れた髪を強く搔きむしりながら彼はそうボヤく。その足元には既に、魔法陣が輝いていた。
「全力を取り戻したらまた闘ろう」
「逃げるな……!」
それが、転移の術式であると気づいたリリムが、雷光を纏った一撃で空間に軌跡を描いた頃には既に、ゼノンの足元の魔法陣は起動――術者を守るように、防壁を展開していた。
「……遅かった」
その防壁をリリムの拳が打ち砕いた時にはもう、そこにゼノンの姿は無かった。矛先を失い、行き場の無くなった怒りを、小規模な魔力の炸裂として発散させる。
「また会おう。愛しているよ、リリム=ロワ=エガリテ」
術式が起動した瞬間――即ち、リリムの一撃が炸裂した瞬間、その衝撃を示す轟音と共に、彼女の耳に聞こえたのはそんな声だった。




