百六話 おはよう、世界
――息を吸う。目を開く。もう、破壊を恐れて、一人なのを悔やんで引きこもる必要なんて無いのだから。
「……待たせたわね」
魔王リリム=ロワ=エガリテは、そんな言葉と共にその目を覚ました。荒野に横たわった体で、深い深い呼吸をして意識を現実に固定する。
「おかえりなさいませ」
「お待ちしておりました」
老兵と、狼。主人の帰還を迎える二人の声に、清々しいほどに綺麗な笑顔を見せながら、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう、二人とも」
深く腰を曲げ、自身を解き放ってくれた彼らに謝意を告げる。それに対して、当然の責務と言うように二人の従者は同じように頭を下げていた。
「……さて、今どんな状況かしら」
顔を上げ、彼女は戦局を問うた。目を覚ましたばかりの彼女に理解できたのは、今自身が戦火の中にいる事のみであった。
「はい、現在この国を襲う魔の手と対峙しているところです」
説明をかって出たのは、キアレ。
「まず敵の大将は光の魔竜セレスティア・クローリー様とのことです」
「……魔竜が、国家転覆? 腑に落ちないわね……あぁ、続けて」
腕を組み、所管をこぼしながらリリムは続きを促す。
「はい、同時に敵方の戦力として存在するのは暴食の厄災であり、現在その二つの強大な敵をそれぞれ、アル様とメルディラール様がセレスティア様を、メレフ様が暴食の厄災を抑えている、といった状況です」
キアレの視線の先にあったのは、不自然に空へ浮かぶ箱と、闇に包まれた王城。
「……ふむ」
左手を自身の顎に当て、リリムは数秒の間黙り込んだ。
何かを思索しているように、彼女の腰から伸びるしなやかな竜の尾がゆっくりと揺れる。その視界の端に、雑兵を蹴散らすノックス達――見覚えのない二人を捉えながら。
「彼女らは、分かりやすく言えば敵方の裏切り者ですな。リリム様の力になりたい、と仰っておりました」
アガレスから告げられた補足に数度軽く頷き、更にリリムの思考は回っていく。
戦局を見る限り、あの三人を手伝う必要などは無い。箱の中の魔力は互角のまま、ならば王城の魔力は――
「……メレフが危ない」
王城を閉ざす檻は、厄災を閉じ込めるためのもの。故に内から外へ、魔力が溢れることなど無い。だが、リリムはその中で確かに弱りゆく友の魔力を知覚していた。
「行ってくるわ、キアレ」
少々慌てたようにそう告げると、リリムは静かにその場から飛び立った。自身の体を容易に包むほどの翼を広げ、風を掴んで夜空を駆ける。
「行ってらっしゃいませ」
従者のそんな小さな呟きを、背に受けて。
一瞬、文字通り瞬く間に、リリムは目的地へ――魔竜の檻に閉ざされた王城の、その上空へと辿り着いた。ゆっくりと翼を羽ばたかせてその場に滞空しながら、その両腕に魔力を込めていく。
「……メレフも、トニアも、私が助けてみせる」
魔法を使用することはなく、ただ、桁外れの魔力が乗った打撃を一度、リリムは結界に素早く打ち付けた。
その一撃によって結界に引き起こされたのは、小さな亀裂。完璧に、精密に作られた魔力の檻は、起こるはずのない歪に均衡が崩れ、亀裂が大きくなっていく。
「魔竜の檻……もう少し強い方が良かった見たいね」
彼女の呟きは、亀裂の広がりが止まり、少しずつ修復し始めた様子を見ての事だった。ただ彼女がそれを黙って見ているはずもなく、もう一度拳を振り抜く。
一撃でさえ限界だと言うのに、二度目など耐えられるはずがない。厄災を閉じ込めるための結界が、破裂音を伴って砕け散る――同時に、リリムはその内側へ降り立った。
「あれが、厄災……」
瞬間、その瞳に映ったのは力無く倒れる闇の魔竜と、彼女を見下ろす三首の魔獣の姿。それこそが暴食の厄災であることは、状況と纏う魔力から見てとれた。
「ガル――」
外部からの侵入者、それも桁外れの魔力を伴った存在。獣が眼前の魔竜から興味を移すには十分な存在だった。乱入者の方へ向き直ると、四足をしかと踏ん張り、獣が低く唸る。
「貴方の相手は、後」
それを意に介することもなく、リリムは静かに歩き始めた。王城の瓦礫が散乱する足場の悪い大地を、軽い足音を響かせて。
その一連の動作に一切の付け入る隙はなく、獣はただ少女の姿を睨みつける事しか出来なかった。理性なき獣でさえも、彼女の間合に入ってはいけないことを理解していた。
「……待たせたわね、メレフ」
大切な姉のために戦い、ボロボロになった友人を両の腕で抱き抱え、リリムは一度笑いかけてみせた。救うことができたという安堵も、そこにはあったかもしれない。
彼女の魔力に当てられて、その体に刻まれた傷がみるみるうちに塞がっていく。
「は、は……待ちくたびれたわ、寝坊助め……」
「ごめんなさいね、約束を果たしに来たわよ」
へし折れたばかりの心にさえも、かの魔王は光を灯していく。メレフの顔には、ひどく安心したような、幼い容姿に似合う笑顔が浮かんで居た。
「あとは任せて、今はゆっくり休んでちょうだい」
「あぁ、姉上を……頼む……」
魔竜の小さな願いに頷きを返すとともに、彼女を魔法で転送する。行き先は勿論、自身が最も信頼する従者の元へと。
「……さて」
膝上丈のスカートを風に揺らしながら、リリムは自身へ威嚇の姿勢を取り続ける獣の方へと向き直った。
「そう威嚇しないで、話を聞いてくれるかしら?」
穏やかな笑みを浮かべて、獣へ一歩足を踏み出す。
「ガァッ――――!」
拒絶の意思、と言うよりは力への怯えに近しいだろうか。耳を劈く絶叫と共に、獣はその前腕をリリム目掛けて真っ直ぐに振り下ろす。魔竜でさえも持て余す、強烈な一撃を。
「……怯えないで。私は、貴女は傷つけるつもりはないの」
圧倒的な質力と速度に生み出される衝撃は、正確に彼女に命中していた。ただ、それでも鈴のような澄んだ声は止まらない。伸ばした右手で先の一撃を軽々と受け止めながら、魔王は厄災へと言葉を投げかけ続ける。
「貴女だって、苦しいでしょう? お願い、聞いてちょうだい」
獣の前足を押し返し、随分と高いところにある獣の顔を見上げ、願う。たとえ相手が厄災であったとしても、傷つけるつもりは彼女には無い。それは紛れもない本心である。
「メレフは、姉の帰りを待ってるの。私も、器を返してほしい……もうこれ以上、飢えに苦しむ必要なんて無いでしょう?」
……その声は、この世界の誰よりも優しかった。底が無い、全てを受け止める彼女の善性に絆されたか、それとも無くした理性のどこかで救いを求めていたのか、獣の瞳には僅かに光が灯る。
くぅ、と小さな甘え声を出し、厄災の獣はその四足を折り曲げた。巨躯を地につけ、服従を示す犬のような姿勢で視線をリリムへと向ける。
「……いい子ね」
自身の前に差し出された三首の真ん中に、彼の魔王はゆっくりと手を伸ばす。暴食の厄災へと成ってしまったのは、ただ運命に翻弄された一人の、妹思いの村娘に過ぎない。そんな彼女に、厄災などという役目は分不相応が過ぎる――それを背負わせた存在をリリムは知らないが、静かに、無意識に憎んでいた。
「魔王リリム=ロワ=エガリテの名において、汝に名を与える」
故に、今の自分にできることはその役目から彼女を解放することであると、リリムは魔力を注ぐ。獣もそれを受け入れ、静かに姿勢を下げたまま。
「貴女の名前は、ベル。暴食の厄災なんかじゃ無い。もう、満たされぬ渇きに襲われる必要も、誰かを傷つける必要もないのよ」
リリムが名を授けたその時、空間に眩い魔力が一度弾けた。
それを引き金として、獣の体が、静かに崩壊していく。泥のような色をした魔力の塊が、リリムの魔力に洗い流されていくように消えていく。暴食の力を宿した獣は、若き魔王の手によって討たれ、今ここにその存在を完全に失った。
「……おかえりなさい、二人とも」
厄災の器として、その力を宿してしまった者。厄災として、苦しみ続けてしまった者。しがらみから解放され自由となったその二人の体を、リリムは優しく抱き留めた。
「トニア、ベル、よく頑張ったわね……」
片や自分より遥かに高く、片や自分よりも低い二つの頭を撫でながら、リリムは労りの言葉を彼女らに告げていた。
気を失ってはいるものの、リリムが感じる二人の体温も、心拍にも異常はない。それに安堵のため息を吐きつつ、彼女は手早く転送魔法を組み上げ、起動した。
「女神の盾」
同時に、自身を守るように防御の結界も創り上げる。それが丁度完成したタイミングで、リリムの元へ十発ほどの斬撃が飛来した。
「……来たわね」
虚空へと向かって放たれた一言に返ってきたのは、言葉ではなく小さな舌打ちのような音と、直剣を握る光の魔竜。傷だらけの体で、睨むようにリリムを見据えたセレスティアの姿。
「貴女の相手はアルさんが引き受けていると聞いたのだけど、どういうことかしら」
「あの男の相手よりも、優先すべきと判断したまでの事だ」
剣先を揺らしながら告げられたその返答に、リリムは静かに胸を撫で下ろす。同時に、あの錬金術師が魔竜の足止めが務まるほどに強かったことに少々驚きを抱きながら。
「そう、あの人が負けたわけじゃないのね」
頭を一瞬よぎった思考が考えすぎだったことに安堵しつつ、彼女は纏う魔力を切り替える。普段の穏和な力から、戦闘のための張り詰めた力へと。
「安心したわ」
――否。それは、彼女が普段戦闘で纏う、制圧のための魔力ではなかった。
「貴女、この戦いを引き起こした張本人なんでしょう?」
普段の温厚な彼女からは考えられない程にどす黒い、ある一つの感情を乗せた嵐のような力。
「良かったわね、重ねる罪が一つ減って」
首をぐるりと回しながら、リリムが一歩足を踏み出す。瞬間、彼女の両腕に纏われるは赤黒い雷。そこからバリバリと響く音は彼女の溜まりに溜まった憤怒を代行するかのように、空間を揺らす。
「私は、貴女を許さない」
少し前に誰かから聞いた言葉がセレスティアの耳に届いたその時、セレスティアの体は既に、宙を舞っていた――




