百五話 従者の務め
時は少々遡り、メレフらが厄災と魔竜を止めんと出立した時の一幕。それと共に向かうことはなく、荒野に残った者が数名。それは、この戦いの勝利条件を手に入れる為――魔王リリム=ロワ=エガリテの目を覚ます為であった。
「……私達も、やることを果たしましょう」
戦乱の中、未だ夢の檻に閉じこもったままの少女の手首に、魔力の籠った縄を巻きながらアガレスはそう告げた。
「結局のところ、私は何を行えば良いのでしょう?」
その縄の端を掴み、少々心配そうな顔でキアレは問う。
「今から、キアレ女史の精神をリリム様の意識の中に沈めます。そこで彼女と対話し、現実へ引き戻してあげて欲しいのです。それは貴女にしかできません」
「……御意」
彼の説明に短く答えると、それ以上キアレは言葉を発することは無かった。必要以上の会話は、彼女には必要無い。ただ静かに、時を待った。隠せない不安を、どこか落ち着かない仕草に漏らしながら。
「わ、私達はどうすれば良いんですかっ……?」
指示を求めて声を上げたのは、リリムをここまで連れ出した裏切り者にして功労者であるエウレカ――と、もう一人。
「本調子とは程遠いね……けど、やれるだけはやるよ。それが私とエウレカの、やらなければならないことだから」
背丈と同程度の鋏を担ぎ、弱々しく笑うリルフィン。生死の淵を彷徨っていた割に回復が早いのは、治療を施したエウレカの技量故だろうか。
「意識を繋げている間、キアレ女史は勿論私も魔力の維持のため無防備になります。故に――」
「その護衛をやっとけって事だな?」
唐突に会話に割り込んできたのは、一人の若い人竜族。逆立つ金髪が生える鍛えられた肉体からは、わずかに血の匂いが香っていた。
「俺はノックス・ドラギアラ。この国の王で、そこですやすやな魔王様の……友達でいいかな、友達だ。状況が状況だから怪しいよな。ただ味方だ。信じてくれると話が早いんだけどよ……」
その首筋には既に、蒼白に染まる氷の刃がピッタリと触れていた。
「……こえぇ」
それに対し彼は降伏するように両手を上げ、刃の主の、うろの底のように冷たい瞳に対して真っ直ぐな視線を向ける。そこに一切の嘘はない。
「その方が仰っている事は本当です。この国の王は先日この目で見ました。私が保証します」
冷静に告げたアガレスの声に呼応して、氷刃は音を立てて瓦解する。キアレの対応は乱入者に対する行動としては最適に近いものであり、同時にノックスという男を見極めるものでもあった。
「……失礼致しました、ノックス様。私の命を貴方に預けます」
「おう、任せてくれ」
短い握手を交わし、互いの信頼を形にする――ちょうどその時、老兵の準備も整ったらしい。
リリムの腕に巻かれた地味な縄に、淡い光が灯る。そこには魔法とは違う魔力……精霊の力が宿っていた。
「彼の方の精神内がどうなっているかは、私には分かりません。どれほど危険なのかも……どうか、お気をつけて」
アガレスの忠告に頷き、キアレは縄の端を握り直す。たとえどうなっていようとも、大切な主人を取り戻す。その意思を胸に秘めて、静かに彼女は目を閉じた。
「魂心接続」
アガレスが精霊術を解放すると同時に、彼もまた目を閉じ、二人の意識の仲介に力を注ぐ。外界の情報は、キアレとアガレスの二人には既に届かない。
「――さて、俺たちの仕事はこっちだな」
ノックスの口から溢れた、一言。彼の視線は、夜の闇に――正確には、それに乗じて姿を現した、セレスティアの造った人竜族の兵隊に向けられていた。
「……お兄さんが一番強いと思うから、私らに合わせてくれると助かるかな」
圧倒的な実力者二人が戦闘能力を喪失したこの瞬間を待っていたのだろうか、その数はざっと見渡すだけでは数えきれないほどのもの。
「なるべく足を引っ張らないよう、頑張ります……」
三人、それぞれの獲物を手に魔力を練り上げる。現実世界では、魔王に迫る魔の手を弾くための攻防が始まろうとしていた――
――どこまでも、どこまでも、侵入者の意識は底の見えない暗い海の中へ沈んでいた。水のように重い魔力が空間には満ちており、足場はどこにも無い。だというのに、彼女は落ちていく気配すらも感じなかった。
「リリム様――!」
上も下も、右も左も、前も後ろもよく分からないこの場所で、浮遊感に少々戸惑いながらもキアレは探し求める主人の名を呼んだ――が、当然のように帰ってくる声は無い。
「行かなければ」
特に、目印があった訳でもない。ただ、何故か自分が向かう先をキアレは知っていた、分かっていた。
一度目を閉じ、何かを確信したかのように頷くと、彼女は少し手を伸ばした先も見えないような澱んだ世界を、迷うことなく進んでいく。魔力を掻き分け、空間を泳いでいく。
「……苦しかったのでしょうね」
道中、彼女は様々な物をその瞳に映した。
魔族を想起させる、角の欠片のようなもの。白鳥のように濁りない数本の羽根。既に花びらが散ってしまった、元は綺麗に咲いていたであろう小さな花……その一つ一つを見るたびに、狼は何を思うのだろうか。少しも変わらぬ表情のない顔からは、読み取る事はできない。
「あぁ……ようやく、見つけました」
原型を求めない残骸が無数に浮かぶ、広くも狭い世界の中心に、彼女は居た。膝を抱えて小さく丸まり、虚な瞳をしたリリムが。
「……こんなところにいらっしゃったのですね」
主人に触れようと伸ばした、キアレのしなやかな腕は、彼女の体に触れる直前で止まった。どれだけ伸ばしても届かないような感覚に、従者は小さく溜め息を吐いた。
「どうして、来たの」
目線も向けず、ぽつりとリリムの口から漏れたその言葉の奥にあった感情は、明確な拒絶だった。
「貴女の、夢の為にです」
リリムの語気に全く怯む事なく、キアレはきっぱりと告げる。
その言葉に、リリムはゆっくりと顔を上げた。その光のない瞳に、透き通る雫を貯めて。
「放っておいて……もう私は……無理なの……」
リリムの声は、酷く怯えたように震えていた。家族であるキアレにさえ壁を作り、目を合わせようとしないほどに外界との接触を拒んでいた。
「……そんなに沈んで、如何なさったのですか?」
「私は化け物なの! 壊したくないものまで壊して、守りたいものも守れなくって……厄災なんかと、変わらない。ひとりぼっちの、怪物なんだよ……」
大粒の涙を綺麗な瞳から溢れさせ、同時にリリムは行き場ない感情を爆発させていた。彼女の力に満ちた空間が、それを示すように大きく揺らぎ、吹き荒れる。
「……ひとりぼっち、ですって?」
そこに満ちていたのは、後悔に懺悔……そして、寂しさ。
「リリム様、それは違います」
それを、キアレは許せなかった。徐に、右腕に魔力を込めて二を隔てる空間を殴りつける。無論その壁はリリムが作ったものであり、彼女が破壊などできるはずがない――のだが、そこには大きくヒビが入っていた。
「や、めて……!」
左のこめかみを抑え、酷く怯えるようにリリムは叫ぶ。ただ、彼女がいくら声を上げようともキアレの動きが止まる事はない。
もう一度、キアレが虚空を殴りつけた瞬間、二人を隔てる壁が静かに砕け散る。
「……どうして」
魔力は、精神の力。今の酷く弱りきったリリムの創ったものなど、普段の彼女に比べれば貧弱と言って良いーーそうでなければ、キアレがそれを破壊することなどできなかっただろう。
二人を分つ壁が無くなると同時に、キアレはその両手の中に、小さな主人を抱きしめていた。その身に、とめどなく溢れるリリムの魔力を受け止めながら。
「は、離してっ……貴女まで壊したくない……!」
言葉では拒絶していながらも、リリムの体は――その本心は、その抱擁に応えていた。
キアレの背に弱々しく手を回すと共に、安心したのか荒れていた魔力も少しずつ凪いでいく。
「壊れませんよ、平気です。リリム様は一人ではない……そうでしょう?」
「……うん」
小さく、リリムが頷く。
「確かに、貴女は他の者とは隔絶した力を持っています。ですが、それがリリム様を一人にする理由にはなり得ません」
「うん……」
キアレの言葉に、リリムの心は溶けていく。
「……たとえ世界の全てがリリム様を厭わしく思ったとしても、私は貴女の側にあります。きっと妹様方も同じことを言うでしょう。それでもまだ、ひとりぼっちだ、なんて言うのですか?」
「……言わない、言えない……ありがとうっ……!」
いつの間にか、リリムの腕にはキアレよりも強い力が籠っていた。
目の前の従者がそこに居る事を確かめるように、その背を何度も抱きしめて彼女は泣きじゃくっていた。
「従者として、当然の役目にございます。私はリリム様には、笑顔でいてもいただきたい――先程のように寂しい顔は、して欲しくないのです」
涙と、痙攣する体の奥のせいで詰まる言葉の代わりに、自らの尾をキアレの腕に巻きつけ、自らの安心をリリムは告げる。
「ごめ、ん……なさぃっ……!」
大粒の涙をとめどなく溢れさせるリリムの頭を、キアレは優しい顔をして何度も撫でる。彼女が落ち着くまで、何度も、何度も。
「まだリリム様はお若いのです。間違える事だって、迷う事だってあるでしょう。今回のように、思い詰めてしまう事も。その度に、私は貴女をお助けします。それが従者の務めですから」
言葉なく、その言葉を噛み締めるようにリリムは頷く。深く、一度だけ。
「……帰ろう、キアレ」
「はい、仰せのままに」
未だに、少し震える声でリリムはキアレに告げる。ただその顔には、穏やかな笑みを湛えて。
もう、夢に閉じこもる必要はない……自分は一人ではないとリリムが一歩踏み出すと共に、彼女の揺籠となっていた世界に亀裂が走り、崩壊していく。
「……おはよう、みんな。待たせたわね」
――騒乱の夜明けは、もうすぐそこに。




