百一話 堕落
――夜明けは、確かに近づいていた。
「キアレ、リリムは任せる――命知らず共、準備は良いな。行くぞ」
厄災の魔力に包まれた荘厳なる王城を見据え、そんな言葉を呟くと共に、メレフは大地を蹴る。目的地は、無論見据えた先。
「……だそうだ。行くぞ」
「やれやれ、僕も行くのか……」
それに追走する形で、二人の大公錬金術師も走り出す。顕現した二柱の厄災と、規格外の存在たる魔竜が暴れた結果ひどく痛めつけられた街を駆け抜けていく。
「気をつけろよ、いつ――」
自身に追いつき、数歩後ろを走る二人にチラリと目線を送りながら、メレフは軽く身を捻った。間髪入れることなく、そこを厄災の魔力が駆け抜ける。
「――こういうのが起きるか、分からんからな」
最低限の動きで躱しながらの、二人への忠告。ただ、彼らもまた実力者である。故に、それは杞憂であったと言えるだろう。メレフと同じく、二人の襲い来る魔力への対処は的確にして最小限の回避行動だけであった。
「厄災という割には、案外大人しいものだね」
速度を落とすことなく王城へと駆けながら、メルディラールは疑念の混じった声でそう呟く。確かに、彼らに危害を加えるドス黒い魔力は、滅びの伝説のものにしては苛烈さがない。
「今は顕現して間もない……人で言うところの寝起きだ。そう心配せずとも、時間が経つにつれて暴れ始めるさ。五億と少々、それだけ眠っていれば腹も空くであろうしな」
「……五億だって?」
彼女が告げてくれた説明の端でポロッと溢れた、果てしない数字にメルディラールは小さく驚くような声を漏らしていた。
「文献には遥か昔の記録としか書かれていなかったが……五億か。それ程までとは」
それは、アルも同じ。相変わらず淡白な声色からは感情を見ることはできないが、その瞳の僅かな揺れがそれを示していた。
「なあに、そう驚く必要は無いさ。人が文明を成すようになったのは、余が生まれるよりも一億は昔と聞いておる。厄災は人の感情の集積から生まれるものだ、何らおかしいことでは無かろう?」
時折飛来する魔力を捌き、足を少しも止めることなくメレフは話し続ける。
「厄災が生まれ落ち、その度に文明が何度後退していこうとも、人は決して折れることは無かった。滅んでしまった種族は数あれど、それらが残していったものは、彼らの文明自体が完全に滅びたことは、この長すぎる時間の中でも、一度たりとも存在しない。実に美しいと、余は思う」
それは決して、誰かに聞かせるために彼女の口から出てきた言葉ではなかった。ただただ独り言のように溢れ出る、上古の魔竜の、心中。
「……なるほど。それが、貴女がリリムに力を貸す理由か」
アルの指摘に、メレフの頬が僅かに緩む。その横顔は、幼い姿ながらも底なしの優しさが見えていた。
「そうだな。リリムの過去はあの歳で背負うには余りにも重く、惨い。それでもあいつは一歩を踏み出した。これから世界を変えようとするうちに数度、打ちのめされて折れてはしまうかもしれんが……あいつは立てる。あそこまで美しい心を持つ者を、余は知らぬ。故に、力を貸したくなるのだ」
それは紛れもなく彼女の本心だった。同時に、彼女の行動原理を、自分自身で再確認するための行為でもある。
「……まぁ、同感だ」
アルが短く返した言葉を最後に、それっきり、しばらくの間彼女らが言葉を発することはなかった。
乱雑に襲い来る厄災の魔力を避け、一切の速度を落とすことなく入り組んだ路地を抜け、閉ざされた城門にたどり着いた頃。メレフは聳え立つそれを見上げて静かに一言、虚空に向けて呟いた。
「久しいな、セレスティア。こんな大層な事をやるくらいだ、さぞ元気だったのだろう?」
「……相変わらずの瞳だな。上手く姿を消していたつもりなのだが」
メレフの声に応えるように姿を見せたのは、彼女とは相反する存在。輝く刃を手に立つ、光の魔竜セレスティア・クローリー。全身に火傷のような傷を受け、肩で息をしている――かなり衰弱しているのは、見てとれた。ただ、その立ち姿に隙は一分も存在しない。荘厳、その一言が彼女を表すのに最も適した言葉だろう。
「邪魔するつもりか?」
「まぁ、そういうことになるな。かの光の魔竜が世界を滅ぼそうとしているなど、身内の余が止めずして誰が止めると言うのだ」
気の置けない友人同士のような、軽い調子での言葉の応酬。あくまで声色は暗くないものだったが、二人の瞳は全くと言っていいほどに笑って居なかった。
「さて、一応聞くとしようか。何故この世界を滅ぼさんとする? お前は余達魔竜の中でも特に世界を愛し、慈しんでおったはずだが……長生きしすぎて余の記憶が間違っておるか?」
からからと乾いた笑いを喉の奥から漏らし、メレフが核心へと一気に踏み込む。その瞬間、セレスティアの顔に張り付いた笑顔の仮面が剥がれ落ちる。
「……いかにも。我はこの世界が大好きだったさ。だが人々は知恵をつけすぎた。自身が最優だという傲慢を身につけた。どれだけの時間をかけようとも、人々は決して分かり合えぬ。争いは、差別は消えぬ。我はもう、疲れた。お前なら分かってはくれるだろう……?」
酷く、寂しそうな声だった。彼女は、最古の魔竜である――即ち、この世界で最も永い時を過ごしてきた命と言っても過言ではない。メレフも、セレスティアと同じくとこしえの時を歩いてきた。その間に何度、自身の大好きな、『人々』に対して呆れを覚えただろうか。何度、自分が守ってきた人々に恐れられただろうか。
「……分かるさ。痛い程にな」
故に、否定することなど出来るはずがない。メレフの――最古の友の肯定に、セレスティアの顔に光が灯る。
「そうであろう、ならば――」
「だからこそ、もう一度だけ、人を信じてみんか?」
彼女の言葉を途中で遮り、メレフが問う。もしもセレスティアが『信じる』と、そう応えるのならばこの戦いは終わりだ。ただそれはメレフの希望的観測。既に、セレスティアの答えなどメレフは分かっていた。
「……何を、今更」
「そうか、残念だ」
ぽつりと呟かれた返答は、メレフの予想通りのもの。分かっていたものだ。だが、それでも彼女はセレスティアに、頷いて欲しかった。ただの我儘と、理想の押し付けだと言えば、そうだろう。
「最後に、一つだけ聞こう。今は、この世界が嫌いか?」
「……大嫌いだ、こんな世界など。この手で消してしまいたいと思い、それを実行しようとしてしまうほどに!」
激昂したように、セレスティアが声を響かせる。そこに篭っていた感情は、怒りに憎しみ、あとは呆れと、諦め。重苦しい魔力を吹き荒れさせる彼女とは対照的に、メレフは心底落ち着いていた。
「それは、本音か?」
「何が、言いたい……!」
火に油を注ぐように、メレフは言葉を止めない。何かどうしても知りたいことがあるのか、煌めく瞳をセレスティアへと向け、答えを待つ。
「質問を変えよう。お前は本当にセレスティアか?」
「何を、馬鹿げた事を……我はセレスティア・クローリー、世界を壊す者だ!」
「……そうか。馬鹿者が」
吐き捨てるように、短くそう告げると共にメレフの姿は城門の下から掻き消える。
刹那、彼女が居たのは閉ざされた城門の上――セレスティアの背後に、自身の背丈の数倍は優に超える戦鎚を手に、立っていた。
「お前は昔からそうだ」
魔竜の戦鎚が、振り抜かれる。
「後先考えず、誰にも聞かず」
恐ろしい程に冷たいその言葉は、目の前の魔竜に向けられたものだが、メレフの目は彼女の顔を見ていなかった。
「悪い癖だと、言っておろう!」
空気に断層を作り出す程の、神速の一撃がセレスティアの体を横殴りに吹き飛ばす。その先の、何もなかったはずの夜空に展開されていたのは、側面に大きな口を開けた魔力の籠った巨大な箱。
「……任せるぞ、アル」
「貴女がケジメをつけなくても良いのか?」
アルから問われたその言葉に一瞬目を伏せながらも、メレフは冷静に、落ち着いた声で告げる。
「無論そうしたい気持ちはあるが、それに固執しておけるような立場に余はおらぬからな……それに、そうする意味も無い」
流儀に酔って作戦を瓦解させることなど、彼女には出来なかった。それが、世界のかかったものならば尚更である。
「……そうか。ならば良い」
それ以上は何も言うまいと、アルはそのまま地を蹴った。向かった先は当然、空に浮かぶ四面体の中。ただ広いだけの、何もない領域へ、アルは踏み込んだ。
「キミの代わりなんてまっぴらごめんだからね、死なないでくれよ」
メルディラールの、普段と何ら変わらない軽薄な声と共に入口代わりの、箱の穴が閉ざされる。中に存在する命は、錬金術師の王と、世界を守るはずだった、堕ちし魔竜。
「やは……り、あいつの一撃は、堪えるな……」
口の端から零れる血を拭い、片手で頭を押さえながらセレスティアは立ち上がる。逆の手には、変わらず輝く刃を握って。目線の向かう先は、当然自身の相手になるであろう、一人の男。
「……なるほど、よく鍛えられているな。強い子だ」
ぽつりと呟くと共に、刃を構える。
「随分と上からの評価だな」
アルもまた、右手に舶刀を握り、構える。
刹那、二人は同時に踏み込んだ。互いの刃を交差させ、押し合う。優勢なのはセレスティア――そう、なるはずだった。
「っ……?」
魔竜の剣を、人の子は弾き飛ばしていた。
油断と、想定外――結果、ガラ空きになった腹部にアルの回し蹴りが炸裂する。
「何を勘違いしているのか知らないが」
――アルの左手、その薬指にはまった指輪が煌めく。
「光の魔竜、俺は強いぞ」
不敵な笑みを浮かべ、アル・プライマルはそう告げた。




