百話 勝利条件
「……こい、姉上」
静かに一度息を吸い、漆黒の、魔力で形成された厄災の繭を見据えて世界の守り手、魔竜メレフ・アペレースはそう呟く。当然、彼女の小さな声に、言葉が返ってくる事はない。その場には、言葉を話す者は彼女しか居ないのだから。ただ――
「――――!」
その代わりか、はたまた産声の代わりか。一度大きく脈打つと共に、それはなんとも形容し難き悍ましい音を発した。
「はぁ……っ……」
その声は、魔竜であるメレフでさえも緊張させるものであり、同時に、暴食の厄災の再誕を告げるものだった。
ガラスの割れるような破裂音と、溢れ出す異質な魔力――そこに先の咆哮を伴って、滅びの繭はひび割れていく。
「全力を尽くして……この命を賭けてでも、止めてやる」
繭が完全に砕け散ると共に、そこからふわりと、舞い降りる影が一つ。その姿は、少なくともトニアではない。赤みがかった長い金髪に、琥珀色のくすんだ瞳の収まる切れ長の目。スラリとした長身の、一糸纏わぬその肌に、衣のように纏うは黒く、禍々しい魔力。
「……喰わせろ」
その姿は紛れもなく、メレフのたった一人の家族のもの。悠久の時を練り歩く彼女が、その中で唯一再会を望む、大切な人。
「……ダメだ」
「喰わせろ!」
暴食としての本能を剥き出しにした厄災は、目の前に立つ少女を既に外敵だと認めていた。動き出した厄災の長躯。その右腕が、メレフの顎を下から打ち抜いた。容姿が姉のものだったから、だろうか。意識の表面化で生まれたほんの僅かな油断。それが、初手の対応を遅らせた――超越者同士の戦いにおいて、それが決定的な隙になるのは言うまでもない。
「っぐ……!」
結果、メレフの体は大きく揺らいだ。彼女が体勢を立て直すよりも遥かに早く、厄災の右足が空間を薙ぐ。生半可な攻撃であれば容易に弾く、魔竜の鉄壁の鱗。それを貫く、重い一撃に全身を衝撃が駆け巡る。
「ぐ、ぁ」
その痛みにかえって集中に引き戻されたのだろうか――メレフの脳内、凝縮された時間の中で彼女が見たのは、口角を歪めた残虐な笑みを浮かべる姉の姿をした化け物が、遥かに遠ざかっていく景色だった。
「……と、まれ!」
王城内部に魔力で形成された通路の、迷宮――その厚い壁を幾度となく突き破りながら、メレフの肉体は飛ばされていた。翼を広げて勢いを殺そうにも、思惑通りに動いてはくれない。どうやら厄災の一撃は、彼女に予想よりも重い負担を強いていたらしい。
結局、彼女の勢いが止まったのは王城最外殻の壁をさぞ当然であるかのように突き抜け、街の一角に墜落してからのことだった。
「くそ……しっかりしろ。あれは、今は姉上とは違うのだ」
地面に打ち付けられる直前で右腕で弾き、滑るように着地する。顔を上げた視線の先は、街の中央。先程まで自分が居たはずの王城。黒く、蛇のように長く伸びる魔力に包まれた権威の象徴を見据え、考えていた。少なくともあの内部には、リリムと彼女を助ける為に突入した者たちが残っている。
「危機を察知して脱出出来ていれば良いが……」
「……なんだ、あれ」
メレフの背後で聞こえた、彼女の知らない声に思わず振り向く。そこに居たのは――なんの変哲もない人竜族。強者の魔力もない、ただの一般人がそこに居た。
「おいアンタ、あれが何か知らない――」
彼が言葉を最後まで告げる前に、メレフはそれを抱え、大きく後方に跳んだ。刹那、元居た場所に死を告げる厄災の魔力が降り注ぐ。命を喰らわんと伸びた暴食の力は、すんでの所で躱されていた。
「今ので分かったな。絶対に振り向かずに逃げろ」
彼女に解放されるや否や、彼は怯えるような表情と共に一目散に暗い街の中へと駆けて行く。どうやら、この国を包んだ夢の檻は緩やかに外れているらしい。それを示すように、彼以外にもぽつぽつと街中には人影が現れていた。
「……何、あのお城」
「一体何が起きてんだ……!」
その全てが、悉く王城の異変に意識を奪われていた。禍々しい魔力を放つそれを気にするな、と言う方が酷な話だ。だが――
「好奇心は猫をも殺すと、言うであろう……!」
暴食の力は、弱き者を狙って襲い来る。メレフには、それを見殺しにすることなど当然、できやしない。彼女がそれを叩き落とさんと慌ただしく飛翔した、その瞬間。
「お待たせ致しました、メレフ様」
――突然、夜の街に空を穿つほどに高い氷壁が展開された。厄災の伸びた魔力がそこに触れた瞬間、凍てつき、砕ける。
一体の温度を急激に下げながらメレフの前に現れたのは、夢の檻に囚われた魔王と、彼女を連れ出した二人の少女を背に乗せた美しい毛並みを持つ狼。
「キアレ……! 良かった、上手く逃げられたか……そいつらは?」
彼女の背でぐったりとした様子の三人を指差し、メレフは問う。
「逃走中に出会いました。どんな方なのは存じませんが、味方です。人竜族の兵士と戦闘していたこと、その際にリリム様を守るように立ち回っていたことと、本人がそう仰っていたことからそう判断しました」
「……そうか」
言葉を交わす二人の元に、襲う対象を見失った厄災の魔力が伸びる――が、二人とも動く気配が無い。理由は単純。そうする必要がないからである。
暴食の魔力が二人の間合いに入ると同時に、空間に無数の、真紅の刃が駆け抜ける。鮮血と同じ色をしたその獲物を振るう存在は、今は一人しか居ない。
「ようやく怪我人の応急処置が済みました。遅れて申し訳ありませぬ」
今まで積んできた経験を示すような落ち着いた声と共に姿を現したのは白髪の老兵。
「フリート達は平気か……?」
「かなり深い傷でしたが、一命は取り留めております。現在は念の為精霊術で隔離してある為万が一も起こりません」
「そうか、感謝する……」
見るからに安心したように、メレフは胸を撫で下ろしていた。同時に、何か覚悟を決めたような表情をその顔に浮かべて。
「……アガレス、頼みがある。キアレと共になるべく多くの一般人を連れて、撤退をできぬか?」
「撤退、ですか」
「あぁ。今あの城にいるのは紛れもなく厄災だ。それも七柱のうち最強格。そこに加えて、光の魔竜もどういうつもりか敵となっておるらしいのでな」
「……お一人でお相手なさるおつもりですかな」
メレフは静かに、しかし深く頷いた。確かに、魔竜や厄災といった存在同士での戦いならば、下手な加勢は却って足を引っ張ることになりかねない。彼女の言わんとしていることを、アガレスはしかと理解していた。
元軍人であるキアレも、それは同じ。ただ、彼女はそれを肯定したくは無かった。メレフ一人に重みを背負わせることを――彼女ならば、自分の命を代償としてでも戦うだろう。それを、是としたく無かったのである。
「それは俺がどちらかを引き受ければやらずとも済む話か」
彼女の悶々とした思考を断ち切ったのは、アガレスとはまた別種の落ち着いた声。物事に対する興味を失っているかのような淡白な声を引っ提げて、彼はそこに現れた。
「……アル、そろそろ降ろして貰えると嬉しいのだが……如何かな?」
細身の太公錬金術師を右の肩に軽々と担いで、涼しい顔で。その要望に応えるように、アルは少々雑に、肩に背負ったメルディラールを放り投げる。
「引き受ける……とはどういうつもりだ?」
先の彼の言葉を反芻し、それでも尚メレフには理解ができなかった。
「言葉の通りだ。厄災と魔竜の二柱が敵で、その片方の相手を俺が引き受ける……それだけの話だが」
「無茶だ。フリートでさえ勝てなかった相手だぞ!」
声を荒げ、アルの提案をメレフは一蹴する。魔竜の、厄災の力を誰よりも知っているからこその、否定である。
「無論俺も勝てるとは微塵も思っていない。だが時間稼ぎなら話は別だ。勝つのが目的では無いのなら、できると思わないか?」
「……何が言いたい」
短くため息を吐きながら、アルは言葉を続ける。
「この戦いを終わらせられる魔王がそこに居るだろう」
彼の視線の先に居たのは、キアレ――もとい、その背中で眠るリリム。
「街中を見る限り、既に夢の檻は外れているらしい。ならばリリムちゃんは真っ先に目を覚ましてもおかしくない……しかし、彼女は起きていない。それはつまり、リリムちゃん自身が夢に縋っているのではないかと僕達は考えていてね」
言葉足らずが過ぎる彼を見かねてか、それとも話したいだけか……兎も角、メルディラールはアルの代わりに説明を始めていた。実際、その見立ては間違っていない。リリムは自分の意思で、檻の中に閉じこもっているのだから。
「そんな彼女を現実に引き戻すのに適任の存在であるキアレ女史もいる。そして夢、つまり精神に関することのスペシャリスト――精霊術師であるアガレス卿だってね。ならばリリムちゃんが目を覚ますまで時間を稼げれば僕たちの勝ち。違うかな」
自身の拳を握り込み、太い尾を苛立ったように数度地面に叩きつける。メルディラールとアルの提案は尤もなものであり、メレフも嫌というほどそれを分かっている。彼女が不満を抱いているのは、そこではない。
「……分かった。セレスティアの相手は若い世代に託すとしよう。但し厄災は余が相手取る」
リリムを――この世界の未来を信じると決めたというのに、これからを担う者達を信用しようとしなかった自分自身に、彼女は呆れていた。
「異論は無い。強い方の相手を強い者に任せる、当然だ」
「……四人とも、それぞれの役目を全うするとしよう。全員生きて、勝つぞ」
ドラテア王国・厄災騒乱――竜人の国の夜が明けるのは、そう遠く無い。




