ただいま
一緒にいたいなんて、最初はただの意趣返し。
兄だけが気遣われて何も変わらないのは狡い。厄介者扱いする叔父夫婦は嫌い。そんな負の感情に押し潰されそうになった時に、どうしたいなんて聞かれて。
叔父に言われるまま引き渡すことなく、自分が面倒を見ますと宣言するでもなく。今さら中途半端に希望を与えられて。ならば遠慮なく縋ってしまえと、悪魔の囁きに乗ってしまった。
兄の夢を聞いて思い出したことがある。
お姉ちゃんの部屋に飾ってあった絵画を指差して、素敵な絵だねと伝えたとき。私の視線の先を見たお姉ちゃんは、とても愛おしそうに目を細めたのだ。
『大切な人に描いてもらったの。』
溶け合うように繊細な色彩。お姉ちゃんにぴったりの桜並木。幸福を象ったような微笑みを浮かべる女性。
描いた人の愛が凝縮された、優しくて温かみのある情景。
きっとあれが、私の壊した世界そのものだった。
人払いがされた温室に、数人の足音が響く。上を見ると、天の川のような帯状の光が淡く輝いていた。再会を喜んでいる星の精霊からの贈り物なのかもしれない。
愛しい人の道標と背中が温かいおかげで、こうして前に進むことが出来ている。すべてを聞いてもただ寄り添ってくれている彼らに救われた。
待ち合わせたのは、休憩用のテーブルセットが置いてある最奥。先に来ていた一人の男性が、一番前にいるルークを見てさっと立ち上がった。
「お待たせして申し訳ない。」
「いえ……。寛大なご配慮に感謝します。」
場に戸惑いつつも深くお辞儀した男性は、黒いスーツを身に纏っていた。その懐かしい姿と爽やかな声に確信を抱く。本物だ。
私を振り返ったルークが横に移動して、二人の間を遮るものがなくなった。顔を上げた男性と目が合う。
記憶よりもやや伸びた黒髪と痩せて引き締まった頬。貫禄が備わった風貌は30歳くらいに見える。最後に会ったのは26歳の時だったか。
視線が絡んだまま動かない私に、お兄様が後ろから助け船を出した。
「彼がお兄さんで間違いはない?」
敢えてされた質問に、こくんと頷く。それを見た少し色素の薄い瞳が揺れた。
「未依……?」
確認するように名を呼ぶ声には不安が滲んでいる。外見が違うのだから当然だろう。それでも変わらない優しい響きに瞳が潤んだ。嗚咽が漏れそうな唇を引き結ぶと、彼は目を大きく見開いたあと口元を綻ばせる。
「っはは。その泣き顔は未依のまんまだ。」
それからにこっと笑って両腕を広げた。まだ心を許していなかった頃、少しずつ距離を詰めるように向けてくれた笑顔。いつでもおいでと私を待ってくれていた手が、目の前にある。
「……っ」
待っていてくれた。勝手に家を出てからも、私が帰ってくるのをずっと。
それが分かり、怯えは跡形もなく消え去る。気持ちのままに走ってその胸に飛び込んでいた。
「お兄ちゃんっ!」
そう叫んだ瞬間、強く強く抱き締められる。身体が軋むほどの想いに涙腺が崩壊し、ぼろぼろと零れ落ちた。
「ごめんなさいっ……一緒にいたいって言ってごめんなさい。甘えてごめんなさい。お姉ちゃんと引き離してごめんなさい。家出してごめんなさい。ひとりにしてごめんなさい。」
あのとき言えなかった言葉が溢れ出る。声が涙で掠れても震えても、もう止まらない。溜め込んだ痛みを吐き出すように、暗記するほどに胸の内で繰り返した懺悔を唱えるように繰り返す。
「連絡しないでごめんなさい。嫌いになるわけないのに、傷つけてごめんなさい。私だけ夢を叶えようとしてごめんなさい……」
私の夢なんて捨てても構わなかった。お兄ちゃんの笑顔の延長線上にあるものだったから。けれど跡継ぎを代わるから夢を叶えてと今さら言えるはずもない。時間が戻らないことに絶望した。
だから遅い反抗期のように反発して、話し合いを拒み逃げることを選んだ。
私は誰かの人生を壊すことしか出来ないのか。どうしてルークと観た劇のようになれなかったのか。どうしてこの世界でもまた同じことを繰り返すのか。陰謀を企んだ者のように、私も罰を受けるべきだと。
「何も出来ないまま、いなくなって、ごめんなさっ」
「未依……未依……ごめん。違う、謝らなくていい。未依のせいじゃない。ごめん……」
それなのに皆、泣きたくなるほど優しい愛をくれるのだ。
お兄ちゃんは震える声で、それ以上言うなと私をきつく胸に抱え込んだ。促されるままに顔を埋めれば、苦しそうな鼓動に飲み込まれそうになる。
「ずっと……家から目を逸らしてた。後継者としてしか俺を見ない親や周りの人間から逃げたくて。なんとか時間を作って絵の勉強をするのに必死だった。だから小さな女の子が犠牲になった。俺のせいなんだ。」
喉を鳴らし絞り出されたのは、奥底に取り憑いた自責の念。
その意味が、今なら分かる。あの両親が愛したのは“優秀な自慢の子”だけだった。
「役目を押し付けたことも、周りの未依を見る目も、両親の虐待ですら。気付いたのはあの二人が死んだ後だ。最低な兄だろう?気付いた時には遅かった。未依は笑うことも泣くことも出来なくなっていた。なのに叔父さんではなく俺を選んでくれた。……嬉しかったんだ。留学なんてどうでもいいと思えるほど。」
その言葉に目を瞠って胸を押した。力を緩めてくれたお兄ちゃんを仰ぎ見る。その表情には後悔の中の喜びが色濃く表れていた。
「仕方なく諦めたんじゃないの……?」
「そんなわけないだろ。可愛い妹の、初めてのお願いだ。是が非でも叶えてやりたかった。」
「でも私、あのときは」
「いいんだ、どんな理由でも。……最初は、留学さえ止めればいいと思った。絵はどこでだって描ける。後継者は何も血縁でなくてもいい。時間はかかっても叔父さんを説得するつもりだった。……でも、描けなくなった。描こうとすると手が震えるんだ。妹の辛さにも気付けないで絵に没頭していた罪悪感が付き纏う。両親が死んだストレスもあって、どんどん絵から遠ざかって。周りの期待にも負けて、俺は後継者の道を選んだ。」
お兄ちゃんは苦笑混じりにそう告白した。夢を諦めるつもりはなかったのだと。
その頃に私が気付けていたら。お兄ちゃんの悩みに寄り添えていたら、何かが変わっただろうか。
葬儀や相続、留学の中止といった多くの手続き。今後の生活について考える必要もあっただろう。そんな中、懐かない妹とも向き合って。たった一人で全てを背負って、重圧に耐えていた。
「でも未依は、長い間苦しめただけの俺に笑ってくれた。描けないことなんて忘れるくらい楽しい毎日で、やっと手に入れた大事な家族を失うのが怖かった。だから今度こそ見逃したりしない、絶対幸せにすると誓ったんだ。なのにっ……ごめんな。結局守れなかった。見栄を張って言わなかったせいで傷つけて、ひとりにして、最期には……っ!ごめん……」
お兄ちゃんはごめん、ごめんと繰り返しながら、堰を切ったように涙を流す。たった3文字の言葉が、小さくなっていく声が、何度も何度も私の耳を震わせる。初めてさらけ出された弱さが胸を痛め、そして温めた。
一緒にいたいという言葉は、まるで呪いのように縛っているのだと思っていた。私の存在が、お兄ちゃんを苦しめた事実は変わらない。
そしてそれはお兄ちゃんも同じだった。自分の存在が私を苦しめたと思っている。
私達はきっと、想い合ってすれ違っていただけだったのだ。お互いに後悔して、傷つけた分相手を幸せにしたいと躍起になって。一緒にいたのに、大切なことは何一つ告げなかった。もっと初めから話し合っていれば。肝心なことを伝えていれば見失わないでいられた。
両親がお兄ちゃんを褒めた時、私は努力が足りないと言われた時、何故こうも兄妹で違うのだろうと悲しかった。だけど、こういうところはそっくりだったのだ。
ハンカチを取り出し、お兄ちゃんの目元に当てる。その涙に触れられた今なら言えそうな気がした。
「素直になれなくてごめんなさい。傷ついたから家を出たんじゃない、成人したら、就職できたら会いに行くつもりだった。お礼が言いたくて、今度は私が幸せにしたくて。その力が欲しかった。だってこんな素敵なお兄ちゃんがいる私は、間違いなく幸せ者だった……っ!」
あの日言えなかったことを伝えると、お兄ちゃんは驚いたように息を呑む。言葉を紡ぐ度に、吸い切れなかった涙が私の手に零れ落ちていく。きっと私の顔もドレスも、このハンカチのようにくしゃくしゃだろう。
「今まで育ててくれてありがとう。家族をくれて……、笑顔をくれて、幸せをくれて、本当にありがとう。――お兄ちゃんが大好きよ。」
濡れた手を上からぎゅっと握られる。凍り付いた心を、時間をかけて溶かしてくれた手で。
「だから……、ただいま……っ!」
大人になった綺麗な姿で、たくさんのお土産話と感謝を持って。寂しい記憶と愛しい思い出が詰まった家の玄関で、言いたかった言葉。予定とはまったく違ってしまったけれど。
長い間待たせてしまったからせめて、最高の笑顔とともに贈りたい。
「っおかえり、……未依。」
泣きながら笑うお兄ちゃんの後ろで、星の花の蕾が嬉しそうにきらきらと輝いていた。




