私がいたい場所は
ルークお兄様に誘われて、皇族専用の中庭へとやってきた。
ここならば誰かに話を聞かれることもないし、外だから二人きりになっても問題ない。護衛も出入り口に待機している。
無言の彼と一定の距離を保ったまま、石畳の上を並んで歩く。
爽やかな新緑の香りが二人の間を吹き抜けていき、この気まずい雰囲気を和らげてくれる。でも私の緊張は少しも解けなかった。
ちらりと隣の彼に視線を向ける。
ロイヤルブルーの髪を靡かせた彼が煌めいて見えるのは、背景にある日の光を浴びた若葉とのコントラストが原因ではきっとない。
あの図書館で胸の奥へ奥へと隠した気持ち。道を与えられたことで覆いが外され、急速で浮上してきたもの。今なら名前をつけられるだろうか。ニーナに背中を押されてまで誤魔化し続けてはいられなかった。
悶々と考えていると、横を歩いていた彼がふと立ち止まった。数歩進んだ先でやっとそれに気づく。
「ティア……すまない。」
突然謝罪されたことで驚いて振り向くと、今までに見たことがない彼の姿があった。整った眉を下げ、肩を落としている。
え、落ち込んでる?なんで??
「他に方法がなかったとはいえ。自分に手を出した令嬢と対立する立場に置かれるなど抵抗があって当然だ。配慮が足りなかったな。争い事が嫌いなおまえに辛い選択を突き付けている。」
「ちがっ!違うわ!!そんな理由で保留にしたわけではないの。」
思い掛けないことを言われて緊張なんてどこかへ行ってしまい、大きく首を振って否定する。
ローザフィア嬢のことを意識しているのは事実だ。けれどそれは傷つけられることを恐れたのではない。私が恐れたのは、“逃げ”のためだけに彼女を筆頭とした周囲へ影響を与えてしまうこと。
「ルークお兄様のせいじゃないんだから、気にしたりしないで。それどころかとても感謝しているの。お断りなんて出来ないだろうって覚悟してたところだったんだもの。」
辛い選択どころか、私にとっては与えられたチャンスなのだから。
嘘のない笑顔を向けると、安心したように小さく笑ってくれた。
元々は私がシルヴァン様に目を付けられてしまったせいで、彼だって巻き込まれている側なのだから堂々としていればいいのに。普段は冷静で強気な彼なのに、妹分の私に対してはどこか強引になりきれない所があるようだ。
「そうか。……やはりあの王太子との婚約は望んでいないのだな。」
その声に安堵の響きが感じられるのは私の願望なのだろうか。
「聞いていいか。彼から何を言われたのか。夜会の日からずっと元気がなかったと聞いているが、本当に求婚のせいだけか?」
窺うような眼差しを向けられる。
シルヴァン様の言葉は結局誤解だった。皇室が私を持て余しているのなら正式な婚約者にしてもいいなんて言わないはずだ。求婚されたことを知られた今、隠す必要はない。だが見方によってはシルヴァン様が皇室を批判したと取られないだろうか。
どう答えたものかと悩み、彼から背を向けて再び歩き出した。すぐに追い付いてきた彼はまた横に並んだ。私の方が先に進んでいたとはいえ、歩幅がまったく違うのだから当然だった。
「謁見室で言っていたな。貴族が持つおまえへの疑問について、彼から聞いたと。まさかそれで脅されたのか。」
「脅しだなんて。殿下も同じ疑問をお持ちになったそうなの。それで、貴族達の声を抑えたいのなら王太子妃になるのが一番だと提案されて。叔父様達にご迷惑をおかけするくらいならその方がいいのかなって考えていたから、元気がないように見えたのはそのせいかしら。」
全力でオブラートに包んだ物言いにも、彼は察してしまったようだった。不愉快そうに口元を歪めている。
「十分脅しだと思うが。……まあいい。人のことは言えないしな。」
後半の小声が聞き取れなかったので聞き返すと、何でもないと首を振られた。
「尊敬する叔母様に認めてもらえて嬉しかったから、もう殿下の言葉は気にしていないわ。ごめんなさい、心配をかけて。」
中心部らしい噴水まで辿り着いたので足を止めて彼を見上げる。ここまでしっかり目を合わせるのは夜会ぶりかもしれない。その前も逃げ続けていたから夜会を除けば随分久しぶりのことだった。
私と目が合った彼は一瞬目を見開くと、くっと口角を上げた。
「やっと俺を見てくれた。」
やっと見ることができた。
ずっと逃げていたのは弱さ故だった。
ローザフィア様やニーナと対立すること。ルークお兄様と向き合うこと。叶わない想いを育てること。
こんな私が、皇后になりたいと願うこと。
そのすべてが怖かった。
「ティア、ありがとう。」
穏やかな空気が流れた。静寂は消えて、心地の良い水の音が聞こえてくる。
不思議なほど胸にすっと入ってくる低く優しい声。
「おまえは皇室の温かい光だ。孤独だった母上を支え続け、学びから逃げていたアルの道標となった。」
お礼を言われるようなことは何もしていない。
叔母様を支えたなんて烏滸がましい。それどころか幼い頃から持っていた憧れをくしゃりと握り潰してしまっていた。ああはなれないのだと決めつけて。きっとそれは今の私だけでなく、ミーティアも同じだったのだろう。
アルは私に対抗心を燃やした結果だ。元を辿ればルークお兄様への敬慕。
「叔母様を孤独だなんて言わないで。そうやって大事に想ってくれる子供が昔から傍にいるでしょう。アルだって、ライバルよりも早く尊敬するお兄様に近づきたかったのよ。」
言外に貴方のおかげだと告げる。「そうか。そうだな」と優しく目を細めた彼の瞳には、ここにいない二人の家族の姿が映っているのだろう。
「だがな。」
何かを言い掛けた彼に、そっと右手を取られる。手袋越しではないその冷たい熱に動揺している間に彼は腰をかがめると、持ち上げた手にゆっくりと唇を当てた。
その瞬間、この場の時が止まったかのように思われた。
切れ長の目が伏せられる様が艶めいて、それが私に向けられることにまったく現実味がない。
初めて示された彼からの敬愛。
貴族にとっては珍しくないことでも、私にとっては頭を撫でられるより大きな意味を持つそれ。
時間としてはおそらくたった数秒。固まった私の手から唇を離した彼の吐息が肌を掠め、その擽ったさにぞくりとする。
「俺にとってもティアは光なんだ。」
姿勢を戻した彼はそれでも私の手を離さない。
「重婚制度は害悪にしかならない。愛のない結婚をした母上。行動を制限される皇妃殿下。継承権問題を抱えたアル。その原因を作った父上を見て、俺は皇太子が恋愛などするものではないと考えていた。おそらく人を好きになることを恐れてさえいた。だが、アルや今日の母上……そしてティアに惹かれていく男達を見て、やっとそれに向き合えそうだと思った。」
皇帝陛下への不信に取られかねない内容を真摯に語られる。
彼はいつだって皆を見守るばかりで。私には親愛を与え続けることしかしなくて。そんな人が私に弱い本心を見せたことに、喜びが込み上げた。
「私にその是非を語る資格はないけど……。その結果ルークお兄様とアルがここにいるのなら、少なくとも否定したくはないわ。だから嬉しい。ルークお兄様がそう思うことが出来て。」
私は何もしていないけどね、と付け加えて笑う。
そもそも私に惹かれていく男達って誰のこと。シルヴァン様くらいしか知らないぞ。あの方もどこまで本気なのか分からないし。
彼が恋愛に向き合っていくというのなら、その相手はニーナじゃなくて私がいい。やっと素直にそう思えた。私もまた、彼と同じようにここから始められるのだろう。
決意を固めていると、彼は触れ合ったままだった私の手を自分の胸に当てた。
「そんな愛情深いおまえを、俺は大切に想っている。だからもし、これからも俺の……俺達の傍にいたいと思ってくれるのなら。――シルヴァン殿下ではなく、俺を選んでくれ。」
なんて、ずるい人。不敵な笑顔を見せるでもなく、ただ真剣に、真っ直ぐに私を射抜く。その瞳からは確かな不安も感じられて。
そんな言い方をされたら勘違いしてしまう。こんなのもう、期待するしかないではないか。これは求婚とは違う。彼が言っているのは婚約者候補のことであって、ただ妹分の私を帝国から出したくないだけ。落ち着け。
小刻みに震える私に、彼は更に追い打ちをかける。
空いている反対側の大きな手が、私の赤くなった頬を包み込んだ。自然に距離が近づいて、身長の差のせいで更に首が上がる。それでも彼の瞳から目を逸らせない。
「苦労はかけると思う。だがシルヴァン殿下からもローザフィア嬢からも、俺がおまえを守るよ。」
私を覗き込む彼の宣言に反発したくなって、だからこそもう駄目だと思った。
好き。
この感情は間違いなく恋だった。
私が頑なに名付けようとしなかっただけで、ニーナにも……ウィルお兄様にもとっくに気付かれていた。隠すことさえ出来ていなかったのだと今なら分かる。
大事そうに触れられたその両方の手を、私はそっと引き剥がす。追うことに躊躇いを見せた手には力が入っていない。私の無言の行動を拒絶と取ったらしい彼の顔には悲壮感が漂った。
彼は鈍いのではないだろうか。きっと今の私の顔を見て拒絶と取る人は他にいない。
「守らないで。自分で戦いたいから。――ルークお兄様の、婚約者候補として。」
もう彼からも、自分の想いからも逃げたりしない。私のいたい場所はここにある。きっとその先に、辿り着きたい場所も見えてくる。
ごめんなさい、お兄ちゃん。――ちゃん。
どうか夢を叶えることを、許してください。
好きな人が、出来ました。
嬉しそうに頷いてくれた彼を支えられる人になりたいのです。




