優しくて甘い皇太子命令
衝撃と羞恥であまり声が出ず小さな呼びかけになったが、それに反応してくれた彼は硬い表情のまま私の全身に視線を巡らせた。
「怪我はないか。」
「え、ええ。」
半ば反射的に答えを返すと、彼はほっとしたように息を吐く。そしてその後ろから本来の相手であるはずの男性の声がした。
「お気持ちは分かりますが、いきなり走り出さないで頂けると。殿下がそれでは護衛騎士の立つ瀬がないではありませんか。」
「すまない、咄嗟だった。」
つまり彼は私を助けるために駆け寄ってきてくれて、同じく動こうとしてくれたらしいレオン様よりも先で、体が浮いたのはおそらく魔法で……。
優秀な騎士様とはいえ風魔法を扱えないレオン様であれば、ニーナが私を受け止めてくれた後でしか間に合わなかったのだろう。魔法を自在に操れるルークお兄様でなければこんなことは出来ない。
どうしてレオン様だけでなくルークお兄様までここにいるのかは分からないけれど、そんなことより。
「ル、ルークお兄様……おろして……」
これはむり。
2年ぶりにキャパオーバーで気絶しそう。
所謂お姫様だっこ状態だ。教会でウィルお兄様にされた時は何とも思わなかったが実の兄以外の男性となると話は別らしい。それとも推し相手だからだろうか。がっしりした腕の感触が妙に生々しくて、心臓が煩いくらい高鳴っている。
真っ赤になって涙目でふるふると震える私を見てルークお兄様は一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐに希望通り下ろしてくれた。
「ティア、大丈夫!?ごめんなさい、やっぱり私が上ればよかったわ。」
「ううん、ニーナは何も悪くないわ。慣れているから大丈夫だと思っていたの。驚かせてごめんね。」
今日に限って落ちるなんて強制力のせいだと思っているがそんなことは口に出せない。顔を青くして謝るニーナを落ち着かせた後、私は彼らに向き直った。
「ルークお兄様、助けてくれてありがとう。」
まだ目は何となく見られないが何とか笑顔を作りお礼を言う。
それに対しティア、と呼ぶルークお兄様の声は今まで聞いたことがないくらいに低く硬いものだった。
「あんな高い位置にある本をどうして自分で取ろうとした。司書に頼むなど方法は他にあっただろう。おまえはもっと女性という自覚を持て!もう絶対にこんな危険なことはするな!!」
その厳しい叱責に、体がびくっと震えるのが分かった。常時冷静なルークお兄様らしからぬ剣幕にびっくりする。ぎゅっと深く眉を寄せ目がとても鋭い。彼がそんな顔を私に向けるのは初めてで、ときめいて浮かれていた気持ちが一気に萎んでいく。
何を浮かれていたんだろう。どうして強制力だからと反省もせず開き直っていたの。
慣れているから大丈夫だと油断した結果、もう少しで怪我をするところだったのに。助けようとしてくれたニーナだって巻き込んでいたかもしれない。そうなる前にせめて魔法で自分の身を守れたらよかったのに、どれだけ特訓しても彼のように肝心なときに使えないと意味がない。
「本当にごめんなさい……」
いつもは優しく諭してくれる彼に初めて本気で怒られて泣きそうになったが、スカートをぎゅっと握って堪える。こんなときに泣くのは卑怯だ。情けなさと申し訳なさで落ち込んでいると、彼は一度深く溜め息を吐いた。
呆れられてしまったのだろうか。当然だろう。無茶をして助けてもらったのに、呑気にお姫様だっこにドキドキしていたなんて。
嫌われたんじゃないかと思うと怖くて再び目を合わせられないでいると、彼は伸ばした手を私の頭に載せた。そしていつもより殊更にゆっくりと撫でられる。その手つきはとても優しくて、彼からの拒絶に怯えて強張っていた心が少しずつ解れていくのが分かる。
「反省しているならいい。今後は気をつけろ。俺はおまえが傷つくことは許さない。」
「ルークお兄様……」
「皇太子命令だ、守れよ。」
そう言って不敵に笑う彼を見上げると、胸が締め付けられるように痛くなった。そのお立場も忘れて騎士様よりも早く駆けつけてくれるくせに、こんな時ばかり権力を使うなんて本当にずるい人だと思う。
その優しくて甘い命令に、元々奥底にあった種が急速に芽吹いていくのを感じた。
決して望んでいなかったその瞬間を直視してしまい戸惑いを隠せない。
どうして今こんなにも切なくて苦しいのか。彼に嫌われると思うと怖くてたまらないのはなんでなのか。
ヒロインの選択を待とうと思った本当の理由は。
私はこれ以上向き合うのが怖くて、その種を光も水も届かないように覆い隠した。先日やっと受け入れたばかりの現実に精一杯なのだからと必死に気付かないふりをする。せめて彼じゃなければ違ったかもしれないけれど。この想いに名前などなくていい。
なんとか深呼吸で気持ちを切り替えた後、その尊い御方にカーテシーで微笑みながら返事をする。
「仰せのままに、ルーカス皇太子殿下。」
敬称で呼ぶのは今までにもあったことなのに、このとき初めて彼と距離を取った気がした。
◇◇
「あの……それでお二人はどうしてこちらに?」
「仕事の資料を取りに来た。レオンだけ行かせてもよかったんだが、何となく足が向いてな。二人は試験勉強か?」
ルークお兄様の視線がやっとニーナに向けられる。彼女を放置して、しかも目の前で怒られるとか何やってるんだろう。今は彼女のサポートと勉学が最優先だ。
「はい!基礎が足りない私のためにティアが教えると言ってくれて。」
「そうか。少し時間もあることだし、せっかくなら俺も付き合おう。」
「で、殿下。ウィルフリード様が生徒会室でお待ちでは。」
ルークお兄様は学年トップ。教えてもらえればニーナの為にもなると分かってはいるけれど、今はあまり近くにいたくないな。でも折角の申し出を断るなんてできないだろう。それにしてもお仕事は大丈夫なのかな。またウィルお兄様を放置して、後で怒られるぞ。
「少しだけだ。それよりおまえ、ニーナ嬢とは初対面だろう。挨拶しておけ。ニーナ嬢、彼は俺の専属護衛騎士のレオンハルトだ。」
ルークお兄様を止めようとしていたレオン様はその言葉を受け姿勢を正すと、騎士の礼を取った。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。ルーヴェ伯爵家嫡男、レオンハルト・フォン・ルーヴェと申します。貴女のお話は殿下とウィルフリード様から少し聞いておりました。ミーティア嬢の大切なご友人だとか。」
レオン様の挨拶にニーナもカーテシーで返す。学園生活で大分慣れたのか凄く綺麗な礼になってきた。そして相変わらずのキラキラ笑顔は真っ直ぐな向日葵のよう。
この笑顔にやられたピュアなレオン様は真っ赤になって、ミーティアを助けようとした優しさにも惹かれて初対面から彼女を意識し始める。私が唯一覚えているレオン様のイベントだ。
「こちらこそご挨拶が遅れてしまい申し訳ありません。ユングフラウ子爵家長女、ニーナ・フォン・ユングフラウと申します。まだ不束者ではありますが、ティアの友人を名乗らせて頂いております。宜しくお願い致します、レオンハルト様。」
「はい、こちらこそ。」
あれ?予想していた反応と違う。顔色も特に変わらず、真面目で丁寧な騎士様そのものだ。それよりも挨拶が終わるとすぐにルークお兄様の方に意識を向けている。
もしかして護衛任務中だからか。傍に主がいるかいないかはやはり大きな違いなのだろう。
「奥の生徒会メンバー専用部屋に行こう。そこなら目立たないだろう。」
その提案に同意した私達はルークお兄様の案内で移動した。幸い部屋はそこから離れておらず、人目に触れることも全くなかった。
室内の中心に置かれた大きなテーブルは長方形で、本来であれば身分の高い順で奥から座るところ。しかし今日はニーナの勉強がメイン。身分より組み合わせの方が大事だろう。
彼らはどちらも成績優秀だと聞いているが、やはりここは学年トップで教え方も上手なルークお兄様の方が適任だと思う。
「ルークお兄様、ニーナの勉強を見てくれないかしら。初試験の私よりも経験者の方がいいと思うの。」
「ああ、分かった。ではニーナ嬢はこっちに。」
ルークお兄様とニーナ、レオン様と私という組み合わせに決まり、話し声が被ったりしないよう少し離れて着席する。
「レオン先生、宜しくお願いしますね。」
勉強モードに切り替えるために敢えてそう呼び、レオン様が一番得意だという地理を中心に教えてもらうことにした。その指導中、先生という呼び方に照れたように狼狽えるレオン様が面白くて何度も繰り返してしまったことは反省している。ただルークお兄様とニーナの方を見たくなくて、笑っていたかった。
そうして暫く勉強を続けていると、部屋の扉がノックされた。音が普通よりもかなり大きかったのは気のせいではないと思う。
その扉の向こうに誰がいるのか、きっとこの部屋にいる全員が察したはずだ。ルークお兄様が珍しく「しまった」って呟いている。思ったよりも時間が経ってしまっていたらしい。
レオン様が職務通りに外を確認し扉がゆっくりと開かれると、そこには怖い怖い笑みを浮かべたウィルお兄様が立っていた。
「資料集めは随分捗ったようですね、皇太子殿下。それなら本日の仕事も時間は掛からないでしょう。側近の可愛い妹とその友人を手伝う余裕があるのですから。」
「……悪かった、すぐ戻る。ティア、ニーナ嬢、すまないがここで。この部屋はこのまま使ってくれていい。」
そうしてルークお兄様は静かに怒るウィルお兄様を宥めながらレオン様と一緒に去っていった。
私はニーナと顔を見合わせて苦笑すると、何も言わず示し合わせたかのように退出した。生徒会役員でもない二人だけであの部屋は不相応だ。そのまま何事もなかったかのように空いていた自習スペースに座り直すと、私は進捗状況を尋ねて彼女の勉強を再開する。ルークお兄様には劣るだろうが、出来るだけ分かりやすい説明を心がけて。
そんな私に先程から違和感を覚えていたニーナが心配そうな顔で見ていたことにも気付かず、頭を空っぽにしたまま目の前の本へと集中させた。




