プロローグ
シュテルンツェルト帝国。
現皇帝ルートヴィヒ・ヨハン・フォン・シュテルンツェルトが統治するこの国には、星の精霊の加護があると云われている。
その真偽は定かではないが、帝国には星由来の名前や場所が数多く存在する。皇族が住まい、多くの貴族が出仕する皇城となると顕著で、中でも有名なのが温室だ。
高位貴族や招待客のみ入ることが許されたその場所には、昼夜問わず眺められる星空が広がっている。ガラス張りの空間のため室内は明るいのに星が見えるという、不思議な魔法としか言いようのない特別な場所。
そして今、ふわふわの淡いストロベリーブロンドに、星を散りばめたようなコーンフラワーブルーの瞳を持つ可愛らしい8歳の少女が温室内を跳ね回っている。
「ミーティアお嬢様、もうお部屋にお戻りになりませんか?このままではまた迷子になってしまったと若様が心配なされますよ。」
若様とは2歳上の少女の兄のこと。
兄が皇族に謁見している間「ここにいてね」と言われていた部屋から抜け出してきた少女を、専属侍女が慌てた様子で追いかけていた。お転婆な少女を口では止めながらも、内心では自分の主人が可愛くて仕方ないと思っているので強くは出られない。
「もう少しだけいいでしょう?お部屋は退屈だし、ここはこんなに綺麗なんだもの。ほらソフィー、このお花はおうちにないわよ。」
一際大切そうに植えられている青い花弁の花の前で立ち止まると、しゃがみこんで顔を近づけた。クンクンと匂いを嗅いでみる。
「あら、香りはしないのね。でもお星さまみたいにきらきらしてて可愛いわ。ソフィーはこのお花好き?」
その花は光り輝いているように見えた。おとぎ話に出てきそうな花に首を傾げたが、この温室自体が不思議なのだからそういうこともあるだろうと気に止めない。
少女は目の前にある花を指差して侍女に笑いかける。その無邪気な笑顔は、見る人を幸せな気持ちにさせるものだ。
「ええ、初めて見ますが気に入りましたよ。まるでお嬢様みたいなお花ですね。」
「そう?お兄様に聞いたらこのお花の名前、分かるかしら。」
名前が分かったら、お父様におねだりしてみようかな。でもこうやってお城に時々見に来る方が素敵かしら。
わくわくと想像を巡らせている少女は、その姿を離れた所で暫く見つめていた者がいることに気付かなかった。
「ブルースター。この城にしかない花だ。」
「ひっ!」
突然、少年特有の甘く澄んだ声が後方から聞こえてきた。驚いた少女は怯えたようにびくっと体を震わせる。恐る恐る立ち上がって振り向くと、ロイヤルブルーの髪を持つ美少年がゆったりとした足取りで近づいてくる。
少女の兄と同い年くらいだろうか。
怖がらせないよう配慮した優しい笑みと、慈愛のこもった眼差しに少しほっとする。少年の瞳をじっと見上げると、濃いブルーと薄いブルーのグラデーションになっていてとても綺麗だ。そのうえ少女の瞳と同様に、星を散りばめたように光っている。
親近感を覚えた少女は警戒心を完全に取り払った。
「ブルースター!やっぱりお星さまなのね。こんなに可愛いのに、お城だけなんてもったいないと思うわ。でも香りがしないのだから、このお花はあまりたくさんの人に気づかれたくないのかしら?」
名前が分かったことは喜ばしいが、見られる人が少ないなんて残念だ。でもこのお花は目立ちたくないのかもしれない。もしくは、とんでもなく高貴なお花なのかも。うんうんとひとしきり悩んだ少女はそっとしておくことを選んだらしい。
少女は興味の対象をブルースターから少年に移した。
「名前を教えてくれてありがとう。あなたは物知りなのね!それに私やお兄様とおんなじ瞳だわ。」
少女が屈託のない笑顔を向けると、少年はくくくっと本当に楽しそうに笑った。
随行している侍従のような格好の男性が、笑う少年を見て驚愕した顔をしている。しかしすぐさまその表情を取り繕い、少女に対して何事かを言おうとした。
そんな侍従を少年は目線だけで止めると、片手を胸の位置で掲げ瞳と同じ色をした光の玉を発生させた。その光は一瞬で青い小鳥の形に変化し、ガラスの壁を潜り抜け飛んでいってしまう。
「今の、伝達魔法ね!もうそんな魔法が使えるなんてすごいわ!私も習いたいのに、お父様がまだダメだって言うのよ。魔法ってきらきらしてて素敵なのに。」
「君も後2年の辛抱だ。10歳にならないと危険だからね。」
興奮で輝いた目を向ける少女を見て、先走らないか心配した少年が宥めるように言い聞かせた。意識を魔法から逸らすべく、自己紹介をしようと思い立つ。
「僕はルーカスだ。君の兄君と同じ年齢だから、ルークお兄様と呼んでくれ。」
そう告げた瞬間、侍従がぎょっとした顔で少年を見た。細い目がまんまるとして飛び出そうになっている。
少女は侍従の方に少し気をとられたが、自己紹介されたのだから返さなければ、とまだ慣れないカーテシーを披露する。パニエで広がったクリーム色の外行きドレスを摘まんで礼をする姿には、可愛らしさだけでなく高位貴族特有の気品と華やかさも備わっていた。
「お初にお目にかかります。ミーティア・レニャ・フォン・シュテルンブルーメともうします。家族からは、ティアと呼ばれています。えっと……ルークお兄様。」
習った定型文を言い終えると、少女ははにかんで少年を呼んでみた。本当にそう呼んでいいのかなという視線に少年は口角を上げ、少女の頭を優しく撫でる。
「ありがとう、ティア。」
それから少年は侍従にブルースターの花を一輪摘ませると、君に会えた記念だよと言って少女の髪に飾ってくれた。そして、もうすぐ君のお迎えがくるからここから動かないでねと告げて、踵を返し温室から去っていった。
その少年がはとこにあたる皇太子ルーカス・ヴィルヘルム・フォン・シュテルンツェルト殿下で、少女が部屋にいないことに気づいて探していた兄に伝達魔法で居場所を伝えてくれたと少女が知ったのは、それからすぐのこと。