風の噂話~ひとつのエピローグ『あなたのそばへ……』下
彼は中学生くらいから、ささやかなお話を書いて小説サイトへ投稿するのが趣味でした。
サイトで有名になるほどの作品は書けませんでしたが、書けば読んでくれる人がいて感想をくれたりするのが嬉しく、細々と続けていました。
その趣味は社会人になっても続けていましたが、やっぱり学生の頃のようには時間が取れません。
睡眠時間を削って書くしかありませんでした。
そんなことを続けて3年ほど経ったある晩。
彼はお話を書きかけたまま、パソコンの前でうたた寝をしてしまいました。
ここしばらく残業続きだったので、疲れていたのでしょう。
その時、何故目を覚ましたのかよくわかりません。
不思議な音や気配がしたせいだといえばそんな気がしますし、運命が導いたといえばいえます。
ふっ、とまぶたを開けました。
彼はいつも、パソコンを置いている机の上だけをライトで照らし、室内の照明は落としてお話を書いています。
子供の頃、同じ部屋で寝起きをしていた弟に出来るだけ邪魔にならないよう気遣っていた習慣が、未だに残っているのです。
照明を落とした暗い部屋へ、月明りが差し込んでいました。
そのおかげか殺風景な男の一人暮らしである2DKが、神秘的な空間であるかのような気がしました。
綺麗だな、と、半分眠った頭で彼はそう思いました。
その時。
かすかな、虫の羽音にも似た音と一緒に楽し気なハミングが聞こえてきたのです。彼はそちらへ、そっと視線を動かしました。
月明りを浴び、白く発光する蝶がいました。
部屋の中へ蝶がまぎれ込んだのかと思った次の瞬間、そんな馬鹿なと彼は思い直しました。
今日は遅くまで仕事でした。
昼中ずっと部屋を閉め切っていましたから、蝶が迷い込むようなことはまずないでしょうし、第一、月明りの中で白く発光するなどという珍しい蝶など、彼は見たことも聞いたこともありません。
それに。
(……歌っている?)
ハミングは、白い蝶から聞こえてくるとしか思えませんでした。
蝶はひらひらと部屋をただよい……最後にパソコンの画面の前でクルリと一回転しました。
一瞬、画面が光りました。
彼が驚いていると、画面の中からてのひらほどの大きさの空色の髪と瞳の少年が、カラフルなリボンを山積みにした荷車を引いて、楽しそうに笑いながら現れました。
次に難しい顔をした、やはりてのひらほどの大きさの老婆が、たくさんの子供を連れて現れました。
彼女は机の隅まで進むとどっかりと腰を下ろし、昔語り……失われた文明を語り継ぐ、いつもの話を始めます。
はっと気づくとその反対側で、世界一賢いと自認していた犬(やはりてのひら大の)が、情けなさそうに肩を落とし、宝が沈んだ水面を見つめています。
身じろぎも出来ず、彼はそれらを眺めていました。
パソコンの画面から現れた幻たちは、彼が今までに書いてきたお話のキャラクターだったのです。
不意に鈴の音にも似た笑い声が響いてきました。
あの不思議な白い蝶はいつの間にか、蝶ほどの大きさの美しい娘になっていました。パソコンモニターの隅に座り、儚い白い手で一生懸命に拍手してました。
その時、彼と彼女は目が合いました。
娘は瞬くうちに白い蝶へ姿を変え、月明りの中へと溶けてしまいました。
「それ以来、僕は彼女が忘れられなくなったのです」
若者は目を伏せたままそう言い、思い切ったように顔を上げて女主人を見つめました。
「僕が今まで書いたどんな物語よりも、彼女は僕の夢……いえ。僕のすべてになってしまったんです。彼女のそばで彼女と生きたい、それしか考えられなくなってしまったのです」
女主人は困ったような顔で若者を見ました。
「……人間と妖精のままでも、心を通わせることは出来ますよ?そういう魔法もご用意できますけど?」
「それでは、彼女と一番近しい者にはなれないじゃないですか」
ギラギラした目で彼は言います。
「僕は彼女のそばに行きたいのです」
「わかりました」
深いため息をつくと女主人は、エプロンのポケットを探ります。てのひらの中ですっぽり包み込めるほどのガラスの小ビンを二つ、取り出しました。
ひとつは空っぽ、ひとつは銀色の粉末がつまっていました。
「あなたの血と引き換えに、月光の妖精の羽から採った鱗粉をお譲りいたしましょう。あなたと逆の望みの妖精が置いていったのです。あなたはこの鱗粉で妖精の姿を手に入れ、あなたの血で妖精は人間の姿を手に入れられるでしょうから」
若者は喜んで己れの血を支払い、望みの姿を手に入れてひらひらと店から出てゆきました。
女主人は手の中で鈍く光る、血の入った小ビンを見つめました。
まもなく店の扉を開け、人間の姿を望む月光の妖精の娘が飛び込んでくるでしょう。
女主人はもうひとつ深い息をつき、エプロンのポケットへ小ビンをしまいました。