風の噂話~ひとつのエピローグ『あなたのそばへ……』上
ボロボロの若者が一人、逢魔が時の町を歩いておりました。
町は古びたカラー写真を思わせる黄ばんだ光に包まれ、長閑に平和に一日を終えようとしています。
が、その若者は最前線で戦う兵士のような昏い瞳で、一心に前を見つめて歩いていました。
彼にはもう、何もありません。
仕事も住処もただひとつの夢の為に投げ捨て、こうしてさまよい続けてどのくらいになるでしょう?
暑い日も寒い日も、彼にはもはや関係ありません。
着たきりの服はすでに元の色もわからないくらい汚れ、異臭を放っています。
もうずいぶん前から人々は、異様な風体の彼を遠巻きにし、目を合わすことすらしなくなっていました。
だけどそれも、彼にとってはどうでもいいことです。
彼がただひとつ執着しているのは、たそがれの中を歩くこと。
『たそがれに心を染めると、その店へ行ける』
彼がまだ仕事も住処も持っていた頃、ネットで拾い上げた都市伝説です。
彼の願い・彼の夢はおそらく、そこへ行くことでしか叶うことはないでしょう。
だから彼は、たそがれの中を歩き回る以外のすべてを捨てました。
この夢が叶わないのなら野垂れ死にした方がましだと、本気で思っておりました。
リィイイイィン。
突然の涼やかな音に、彼はハッと立ち止まりました。
同時に後ろで扉の閉まる音が、世界から彼を断ち切るように響きます。
彼はきょろきょろと辺りを見回しました。
少しゆがみのあるガラスのはまった、古びた窓越しに差し込む飴色の光。
昔見た夢のような空間に浮かび上がるのは、ショーケースに並べられたアンティークな小物たち。
どうやら、骨董品店のようです。
「いらっしゃいませ」
店の奥から穏やかなアルトの声が聞こえてきました。
彼は顔を上げ、声の主を確認しました。
雪白の髪をきちんと結い上げた、白いエプロンをつけた上品な老婦人が軽く目礼をしてほほ笑みます。
「いらっしゃいませ。何をご入用でしょうか?」
彼は本当に久しぶりに笑顔になり、目を潤ませました。
「う、うう……あ、あああ……」
しかし彼ののどを震わせたのは、獣じみたうなり声でした。
長く誰とも話さなかった為でしょうか、彼は言葉を忘れてしまったのかもしれません。
女主人は彼を、商談スペースへ連れてゆきました。
そして戸惑っている彼へ椅子をすすめ、あたたかいお茶を入れました。
「ありがとうございました」
香り高い緑茶でのどを潤してひと息つくと、ようやく彼は言葉を思い出した様子です。
「お会いしたいとずっと探していました、マダム」
居住まいを正し、若者は頭を下げました。
「光と影が限りなく近付くたそがれで、魔法を売る女主人の店。永遠の時を生きる、迷える魂を救う良き魔女。知る人ぞ知る、ささやき声で語られる奇跡の魔法。お噂はかねがねうかがっております、マダム。お願いします、是非とも僕にも魔法を売って下さい!」
「……勘違いをなさっていませんか?」
アルカイックスマイルを浮かべ、女主人は静かに言います。
「ずいぶん誇張された噂をお聞きになっていたのですね。確かに私は、光と影が限りなく近付くたそがれで、もうずいぶんと長く魔法を商って参りました。でも、どれもささやかな、魔法とも言えない魔法ですよ。対価の方も、品物から考えて妥当な値段を通貨でお支払いいただくだけですし。……お客様」
不意に彼女は真顔になりました。
「察するにお客様がお望みの魔法は、存在を逸脱する魔法になりましょう。当方での通常の商いの範囲に入らないお品ですので、こちらといたしましてはあまり気が進まないのが正直なところなのですが」
「そんな!」
若者は絶望に塗りつぶされた瞳を女主人へ向けます。が、彼女は真顔のまま言葉を続けました。
「人間の姿を捨て、妖精の姿を手に入れたいなどという望みを叶えるのは……私のようなささやかな商いをしている者には、いささか荷が重いですね」
若者はぎくりと身をすくませ、言葉を失くしました。
女主人は再び、アルカイックスマイルを浮かべました。
すくんでいる若者を憐れむようにも、なだめているようにも見える笑みでした。
「どうしてそんな望みを持つようになられたのか、お差支えなければ教えていただけませんか?」
若者は何度か息をつき、せわしなく目を泳がせ……唇の周りをなめた後、心を決めたようです。
ぽつりぽつりと語り始めました。